第4話 スクランブル

「おいおい、着任早々スクランブルか?」


「どこの機だ?まあ、また民間機だろ」


 ポーカーに興じていたパイロットはカードを残したままのそりと立ち上がって、別のテーブルで談笑していた当直のパイロットは椅子を蹴飛ばす勢いで跳ね上がり、食堂を飛び出していく。


「せいぜい頑張ってくれよ」


 コーヒーのお代わりを貰うべく席を立ったイリヤだが、彼の後ろへ立っていたユウジへ激突した。確かに出て行ったはずなのに、いつの間に戻ったのだろうか。イリヤは幽霊の存在について真面目に考えようとするが、先にユウジが口を開く。


「おい、さっさと格納庫に行くぞ」


「へいへい、またかい」


 アレッサンドロはやれやれと首を振って立ち上がる。イリヤも口ではマジかよ、と言っているが、諦めたように立ち上がる。エルナは北洋艦隊配属になっていきなりの戦闘配置であり、ガチガチに緊張していた。


「もたもたするなら置いて行くからな」


「待ってください、今行きますから!」


 不明機接近時は当直の小隊が緊急発進して、接近する不明機を確認することになっている。

 もちろん他の乗組員も戦闘配置へ着くことが定められているため、すぐにそれぞれの持ち場へ向かう必要がある。パイロットも例外ではなく、いつでも出撃出来るように待機するという規定だ。

 どうせまた民間機だろう。出撃した機がそう報告して、出撃命令が出なかったとユウジがコックピットで不貞腐れる。

 そんなルーティンが待っているのだろうし、新入りで気を張っているエルナも段々慣れていくことだろう。

 多くのパイロットはいい訓練だと皮肉を言っているくらいだし、真面目に待機しているのは当直かユウジ率いるブラッドムーン隊くらいのものだ。

 コックピットでエロ本を読んで暇潰しをするパイロットが殆どの中、ブラッドムーン隊だけは異様とさえ言われている。

 外のキャットウォークでは誰かが釣りでもしていたのだろうか、釣り竿とラジオが放置されていた。

 ラジオから流れる陽気な音楽と漣の音は平和そのものであり、これから自分たちが戦闘に備えるなんて、現実感がなく思えてしまう。

 それでも、格納庫へ足を踏み入れれば空気は嫌でも変わる。出撃命令を受けた隊は発進した後だが、整備士は増援の発進に備えて、機体のチェックと武装の搭載に奔走している。

 パイロットたちは調整と点検を済ませれば、コックピットの特等席で居眠りをしたり、持ち込んだ雑誌やラジオで暇を潰す。誰も実戦になるとは考えていないようだ。

 ユウジたちはそんな中を突っ切って自分の機へと乗り込む。

 エルナもそうしようとしたが、足が止まってしまった。あの嘲笑の乱気流を切り裂いて、静寂の翼であの場を覆い尽くした、漆黒のイヌワシがそこにいたからだ。

 黒とダークグレーの二色迷彩。蓮龍の出荷時カラーリングで、多くの部隊やパイロットは発見されにくいように違う塗装に変える。彼はそれをせず、識別章とイヌワシのエンブレムを描いただけの機体。

 それなのに、どうして胸がざわつくのだろうか。少なくとも、エルナがコックピットに座ってもその答えが出ることはなかった。

 そんな間にユウジは計器のチェックを済ませる。機体に掛けていた梯子には整備士が昇って、彼へ整備記録を手渡した。


「大尉、エルロンの調整が終わったので試してください」


「今やる。水平儀の不具合は?」


「ジャイロそのものを交換したので、問題なく動くはずです。最悪の場合、すぐに帰還してください」


「お前の整備ならば大丈夫だ。今動かしたが、エルロンの反応もいい」


 ユウジは整備士から整備箇所の説明を受けて、自らも直接試す。翼は自分の手足のように扱えなければならない。

 狂いが生死を分けるからこそ、不調であれば僅かでも許容できないし、するつもりはない。それに対応する整備士は彼の気難しさを知っているし、大変な任務ではあるが誇りをもっている。

 サガミ大尉に文句1つ言わせるな、そんな気概で臨んでいるのをユウジ自身が誰よりも知っているからこそ、安心して彼らに機体を預けられるのだ。


「チェックリスト・コンプリート。サンドロ、イリヤ!」


「俺っちの機体は問題ないぜ」


「俺のもだ。おっと、これは忘れちゃいけねえ」


 イリヤは機体から飛び降りると、機首に描かれた全裸の美女の尻へキスする。それを見てしまったエルナはたちまち顔を林檎より赤く染めて、持っていたチェックリストで顔を覆った。


「ちょっと、どうして破廉恥なノーズアートを描いてるんですか!」


「破廉恥じゃねえ、俺の女神様だぞ!」


 事情を知るユウジとアレッサンドロは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべていた。彼の機体には全裸の美女のノーズアートが描かれており、機体に乗る時には必ずその尻にキスをするというジンクスがある。そうすると、いくら被弾しても生き残れるというのだ。

 実際、前の戦争でイリヤが撃墜寸前までボロボロにされつつも、飛んで基地まで戻ってきた姿を見ているし、彼のいた東部防空軍第四飛行連隊の伝説でもある。

 そのせいか、彼は「レディ・ヒップ」という2つ名が定着してしまい、本来のコードネームが「ラースタチカ」であることを覚えている者など誰もいない。

 付き合いの長いユウジとアレッサンドロが覚えていないのに、その他の者が覚えているどころか、知っているはずがない。


「俺はケツより胸だがな。デカけりゃ最高。その点、うちの特務大尉殿は守備範囲外って訳で」


「この変態!」


 エルナは顔を真っ赤にしてアレッサンドロへ怒鳴りつけるが、ユウジは何のことやらと首をかしげていた。

 特務大尉呼ばわりされているのがエルナという事さえ知らない。仲間外れにされているようだが、全く気にしない。空で戦うことしか興味はないし、階級や身分が空の上で意味を成さないと知っている。


「うるせえぞお前ら。騒ぐのはいいが、チェックリスト読み飛ばしたら知らんぞ」


「そう言う隊長殿はどうなんだよ?」


「お前がケツへキスする前に終わらせた。一応待機中だぞ」


「そう言っても、どうせまた民間機とか、ナビをミスった訓練機でしょう?戦争なんて海の向こうなわけだし」


 その戦争のせいで北洋艦隊が出撃することになっているわけなのだが、イリヤはどこ吹く風と気楽に構えている。

 きっと、待機命令がなければキャットウォークで釣り糸を垂らしていることだろう。訓練とか意識高いことをするよりも、クルージング気分で構えているような男なのだから。

 それでもユウジは気を抜かないし、エルナは空へ真摯に向き合う彼の姿に目を向けている。最初に見せつけられた着艦がまだ頭から離れない。

 それこそ、鷲が舞い降りて来たかのような優雅な着艦で、いつかは彼と同じような着艦が出来るようになりたいと、胸の内で思っていた。


 そんなブラッドムーン隊を呼ぶ声がする。気付いたイリヤがユウジを呼ぶと、彼はコックピットから這い出して、声の主の元へ走っていく。

 エルナは何事かと顔を上げ、彼と話すパイロットを見つめた。遠くではあるが、襟に少佐の階級章を付けているのが微かに見える。パイロットは総じて目がいいが、彼女もそれは例外ではない。


「ガリチェンコ少尉、あれは誰です?」


「堅苦しいぜ特務大尉殿、イリヤでいいよ。ありゃ、我らが中隊長のヴェルシーニン少佐さね。奴が来たってことは、出撃命令でも出たかな」


 待機解除だといいんだけどよ、とイリヤは呟くが、それならばわざわざ中隊長が来るなどあり得ない。艦内放送で配置解除を告げればいいだけだ。

 それなのに中隊長自らが来るという事は、出撃命令を伝えに来たのか、サボりを取り締まりに来たのか、どちらかだろう。


「俺は出撃命令に200イラーツ」


 アレッサンドロがコックピットから顔を出すと、指を2つ立てながら告げた。

 ならばとイリヤも笑顔をと共に指を3本立てる。もちろん、ヴェルシーニンの告げる内容で賭けをするつもりだ。


「ユウジのサボり監視に300」


「乗った。特務大尉殿はどうする?」


「真面目にやってください!本当に出撃命令だったらどうするんですか!」


 堅いなあ、と2人が笑っているところへユウジが戻ってくる。無表情に見えて、薄く笑みを浮かべていた。何よりも嬉しそうなその表情を見て、イリヤはやられた!と天を仰ぐ。

 あの空戦馬鹿がニコニコ笑顔で戻ってくるなんて、理由は出撃以外にあり得ない。300イラーツはアレッサンドロの財布へ収まることが確定したのだ。

 今晩、アレッサンドロは夕食にデザートが一品増えることだろう。

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