第2話 北洋艦隊

 まるで迷路のような艦内を歩くエルナへ対し、すれ違う水兵たちは道を開けて敬礼する。

 どこか落ち着かない気分がするが、下士官や兵卒である水兵と違い、パイロットは士官である。訓練を修了してパイロットになったばかりのエルナでも准尉という士官の階級を持っているが故に、父親程の年齢の下士官さえも道を開けて敬礼をするのだ。

 それがどうにも慣れないが、軍隊という組織である以上は慣れていかなければならない。ここでは階級が上下を決める世界なのだ。

 そんな軍隊の洗礼を浴びていたら、いつの間にか目的の場所に辿り着いていた。何人とすれ違ったのか、それが誰だったのか、どの道を通ったのかさえ覚えていないけれど、目の前の扉が司令官室であると分かれば他に何も要らない。

 訓練生時代に習った通り扉をノックして、入れという声に従って扉を開ける。馴染みのあるこの動作に、少しだけ安心感を覚えた。

 デスクに座っていたのは白髪をオールバックに纏め、顔が皴に覆われた初老の男性。年老いて尚目の輝きを失わず、立ち上がれば若者と変わらない程にシャキッと背の伸びる彼こそがこの艦隊の総司令官である。


「申告します。エルナ・グライヴィッヒ准尉、辞令により本日北洋艦隊に配属されました」


 ここへ来るまでに何度も心の中で読み上げた着任申告の言葉を噛むことなく発声し、しっかりと敬礼をしてみせる。こういう敬礼ひとつとっても、新人らしくしっかりとやらねばならない。


「総司令官のアナトリー・ニコラエヴィッチ・イリンスキー中将だ。これからよろしく頼む」


 イリンスキーはまだ初々しいエルナを見て微笑んで見せる。まるで孫の姿を見るおじいちゃんのようにも見えるが、エルナはそんな気楽に構えることは出来ない。彼の肩に輝く2つの星が身分の違いを示しているのだから。


「君の小隊長ももうすぐ来るから、そこのソファーでゆっくりしているといい。コーヒーはいるか?」


「いえ、お気遣いなく!コーヒーをご所望なら私が!」


 エルナは泡を食ってイリンスキーが手に取ったコーヒーミルを奪い取ろうとする。お茶出しや掃除といった雑用を上官に、しかも将官クラスにやらせるなど軍隊においては重罪だ。奪い取ってでも自分がやらなければならない。

 イリンスキーはそれを読んでいたのだろう。エルナが取り上げようとしたコーヒーミルを持ち上げると、読み通りに彼女の手は空を掴んだ。


「年寄りの楽しみを奪わないでくれ。これは私の趣味のようなものでね」


「そ、そうですか……」


 触れる程に近くへ寄って気付いた。彼の軍服の胸には翼を象った搭乗員徽章が縫い付けられており、かつてはパイロットであったことを示す。彼も大空に翼を広げて、自由に飛んでいた鳥の一員だったのだろう。年老いて地上に降りて尚、その輝く目は空への帰還を望んでいるようにも見えた。

 そんな彼はこんなにも狭い部屋へと押し込まれて、慰みにコーヒーミルを回して豆を挽く。漂う香りは芳香剤がなくとも司令官室を彩っているのだろう。イリンスキーの人柄を映し出す鏡のようだ。

 そんな司令官室の扉が前触れもなく開く。普通はノックをしてから入室の許可を得て入るものなのに、その男は自分の部屋にでも入るかのような雰囲気で扉を開けたのだ。

 黒髪を短く切り揃え、半目程度に開かれた漆黒の瞳は猛禽のように鋭い。東洋風の顔立ちからして、ラサンと呼ばれる島国の出身者だろう。

 その肩には大尉の階級章を付け、胸には彼の名前だろう、ユウジ・サガミと刺繍の施されたネームが縫い付けられていた。


「トーシャ、呼んだか?」


「全く。ノックもなしに入ってくる大尉などお前だけだぞ、サガミ大尉」


 少しは軍人らしく礼儀を弁えんのか。司令官室に許可どころかノックもなしに入る無礼を形式上は咎めるが、そんなイリンスキーの目の奥には期待に似た感情が隠されている事をユウジは知っている。礼儀に割く言葉の分だけ、今日の空模様を話して欲しいのだ。爺さんになっても心は子供のまま変わらない。イリンスキーはそんな人間なのだ。


「お前が好き放題して、私は退屈なデスクワークとはな」


「変わらないものはない、だろ?」


「この皮肉屋め」


 ユウジはソファーへ座ろうとしたが、そこには既にエルナが座っている。はて、こいつは誰だろうか。人相の悪い上に無表情なユウジは興味本位で顔を覗き込んでいるだけであるが、エルナは睨みつけられているように感じ、完全に委縮していた。


「娘とか思ったか?」


「いや、孫だと思った」


「孫は最近立てるようになったばかりだ。貴様は空を飛ぶことしか能がないのか」


 はいそうです、と答えたユウジの頭へバインダーが飛ぶ。綺麗に角が直撃してしまったらしく、血が出るようなケガはしていないが、鈍い痛みに顔を歪めている。


「彼女は今日着任した新人だ。貴様の小隊に配属する。グライヴィッヒ准尉、こいつはユウジ・サガミ大尉。君の配属先であるブラッドムーン飛行小隊長だ」


 エルナは跳ねるようにソファーを立って敬礼する。少し思うところのある不良大尉ではあるが、これから世話になる小隊長へ敬意を払わねばならない。


「エルナ・グライヴィッヒ准尉です」


 よろしくお願いします。そう言って敬礼するエルナへ対し、ユウジは返礼するわけでもなく渋面を浮かべた。


「面倒くさい」


 そう言い放つ彼の脛へイリンスキーの蹴りが飛ぶ。いくら年寄りの蹴りとは言え、痛いものは痛い。ユウジは思わずしゃがみこんでしまった。


「貴様も大尉ならば自覚を持て。階級は飾りか?」


「パイロットなんてみんな士官だし、ありがたみがねえ」


 また減らず口を、とイリンスキーが顔の皴を増やす中、何やら騒がしい声が司令官室へ接近してきた。レーダーやソナーも要らないくらい、俺はここにいると自己主張をしている存在で、ユウジはそれが誰なのかをよく知っていた。イリンスキーも頭痛がしてきたとばかりにこめかみを押さえる。エルナも嫌な予感がして、この部屋から逃げ出したくなっていた。


「ラッツァリーニ中尉以下2名、入りますぜ」


「帰れ、と言いたいが入れ」


 扉が開くと、ポマードという髪型をした金髪の陽気そうな男と、その横でヘラヘラと笑う茶髪をオールバックに纏めた男がいた。ポマードの方は中尉の階級章を付けていて、オールバックの方は少尉。そして、2人とも搭乗員徽章を胸につけていることからパイロットだという事がすぐに分かった。


「貴様らを呼んだ覚えはないぞ。顔合わせはこのあとやれ」


「そうおっしゃらず。中将殿のコーヒーが楽しみで自主的に出頭してきた次第であります!」


「なら茶菓子の1つ持ってこい。ドーナツを持ってきたらご馳走してやると言っただろうが」


「ツケで頼みます!」


「飲み物なしにドーナツだけ食えというのか?」


 全く、とこめかみを押さえたイリンスキーは追加で溜息を吐いた。


「意図せずだが、これで全員揃ったな。サガミ大尉以下4名でブラッドムーン飛行小隊を編成。明日以降、艦隊直掩の割り当てに組み込む」


 トーシャめ、足枷を付けやがって。ユウジはいつものように悪態を吐くが、その渋面を見たイリンスキーは満足げに頷いていた。今すぐ機体を乗り逃げしてやりたいところだが、この先へ待つ未知の空が彼の出奔を押しとどめる。


「ようこそ、北洋艦隊へ」


 イリンスキーのその一言だけが、ユウジの心を慰めた。パイロットや水兵たちにとって、北洋艦隊計画への異動命令は名誉の証である。その異動命令書を額縁に入れて大切に保管するものまで現れるといえば、どれほどのものかが分かることだろう。

 ユウジにとっても北洋艦隊計画への参加は名誉であったが、その意味は他の者たちとは違う。

 彼はその異動命令書を、まだ誰も飛んだことのない空への切符と思っているからだ。空を何よりも愛する彼には、誰も知らない空を飛ぶことだけが名誉に思える。

 そんな未知の青空へのあこがれはエルナも同じく持ち合わせているし、それがこの北洋艦隊への参加を後押しした。

 老人へ片脚を突っ込んでいるイリンスキーでさえも、その達観した眼の中に炎を宿している。身体は老い、心も歳に合わせて老成してきたとはいえ、熱まで失ったわけではない。脚さえ無事であれば、イリンスキー自身がパイロットとしてここにいたはずだったのだから。

 その事はユウジだけが理解していた。たった1人で飛ぶ自由な空を愛する彼ではあるが、イリンスキーが持つ熱意も理解しているし、翼を失った悲しみさえも、自分のことのように感じていた。

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