終わらぬ空、翼は大海を越えて
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第1話 イヌワシとカモメ
地上で、海の上で悲しみを見た。
雲の大地から足を踏み外し、地や海へ墜ちていった友を見送ってきた。
それでもイヌワシは空に在り続ける。黒翼の龍を操って、白い雲を切り裂いていく。その欠片を翼端から撒き散らし、青空のキャンバスへ夢を描きながら。
その鋭い旋回に体は置き去りにされて、視界が暗く狭く、針の穴を通すような僅かな景色だけになった。
でも、そんな苦しみは長く続かない。旋回が終わってしまえば、再び広い青空が蘇るのだから。
嗚呼、ここは自由だ。空まで悲しみや苦しみが浮かび上がってくることは出来ない。この空にいる限り、俺は喜びの中で生きていられる。空に生きる者たちにはそれだけがあればいい。忠誠とか愛国心とか、そんなものを抱えて空を飛べるものか。
ただ軽く、心は安らかにあればそれでいい。それだけで俺たちパイロットは空にいられるのだから。空こそが故郷、祖国、居場所。願わくば、終の場所がこの青空でありますように。
墜ちていく間、愛した空がこの揺り籠を優しく揺らしてくれるだろうから。
私にとって、空とは希望の世界だった。
父の操る複葉機に小さな身を押し込み、何も見えない雲の中でただ目を閉じていた。遠ざかっていく地を見て、幼い私は墜ちることを恐れて瞼を開けずにいた。暗闇の中でも風は肌を打ち付けて、湿った雲が髪を濡らす。
不快な湿りが消えて、冷たい風が吹きつける。暗闇に覆われていた世界へ光が差し込み、赤く染め上げられていく。僅かに瞼を開けて見れば、白い光に包まれて世界は赤から青の世界へ変わった。
寒くて広くて、清浄な世界。見たことのない世界が幼い目には美しくて仕方なかった。重力のしがらみを捨てて舞い上がれば遮るものなどない。どこまでも行ける、そんな希望が私の心を埋め尽くしていく。
いつの日か、自分が父と同じ席に座ることが出来るだろうか。そうすれば、この自由な翼を自分のものにできるだろうから。
青空に負けないほど青く、大きな海原が一面に広がる。見上げる程に大きな航空母艦も、国の威勢を示す大艦隊でさえも、この海の上では夜空に浮かぶ星屑にも等しい。そんな小さな目標へ無数の戦闘機が降りていく。
甲板に着地した機体がバウンドする度、水兵たちが嘲笑の嵐を巻き起こす。滑走路と違って空母の甲板は波の影響で常に揺れ動いているせいで、降り方やタイミングが悪いとこうして跳ね返されてしまう。
水兵たちは空母慣れしていないパイロットが着艦をしくじってバウンドする様や、着艦を諦めて再上昇していく姿を見送っては笑うのだ。時には降りてくる奴がバウンドするかどうかで賭けを始める者まで現れる。
そんな笑い声の中、エルナ・グライヴィッヒ准尉は水兵たちの嘲笑を受けて奥歯を嚙み締めていた。着艦を2度もやり直した上に、ヘマをした搭乗員が年若い女性となれば嘲笑の的としてうってつけだった。
「おい、アイツの2回バウンドと着陸復行を当てた奴いたか?」
「いるわけねえだろ。キャリーオーバーだな」
エルナは羞恥に赤く染まる頬を首に巻いた白いマフラーで覆い隠す。マフラーに似た色の髪は短くショートヘアーにしていて、透き通るような青い瞳は空を映したかのように見える。
あんなに笑わなくてもいいのに、いつか思い知らせてやる。そんな細やかな復讐心を胸に抱いたその瞬間、髪とマフラーが舞い上がった。
突然吹き抜けた突風を目で追いかけると、低空で飛び去った漆黒の機体が急上昇して、その翼に陽光を照り返しながら舞い踊っている。着艦をやり直したのではなく、わざと突き抜けていったのか。
エルナの乗機と同じく機体後部へ配したプロペラと、機首に取り付けられた先尾翼が特徴的な艦上戦闘機「蓮龍」。黒とグレーの2色で施された迷彩塗装と、機首に描かれたイヌワシのパーソナルマークしか違いがない。それなのにどうして、周りとは雰囲気が違って見えるのだろう。
そのイヌワシは優雅に空を舞い、旋回と共に翼端から雲を引いた。あれだけ笑っていた水兵たちは静まり返って、イヌワシのエンジンと漣の音だけが響くコンサートを静かに聴いている。
やがて疲れたイヌワシは木に降り立つかのように、バウンドもせずに甲板へ降り立つ。まるで陸地に降りるような滑らかな着艦の後、フックが甲板上のワイヤーを捕らえてつんのめるように急停止した。
短い空母の甲板で止まるための乱暴な方法ではあるが、このワイヤーを捕らえ損ねれば海原へダイブすることになる。揺れる甲板への接地と、フックの捕獲を同時に、精密にやってみせたパイロットの技術はかなりのものだと想像するに難くない。
もしも陸地だったならば、スケートのように滑らかな滑走を見る事が出来たのかもしれない。少しだけ残念に思うのは気のせいだろうか。
あいつが戻ってきたと水兵がざわつく。そんな喧騒の中でイヌワシのパイロットは甲板へ降り立ち、自分の機体を見つめる。その鋭く、静かな彼の雰囲気はイヌワシを宿しているとか、前世は猛禽類だと噂されているが、本人がそれを気に留めることはない。鋭く飛んで、この美しい空を飛び続けること以外に興味はない。
まだ年若い彼ではあるが、この艦隊へ所属する誰もが一目置いている。その滑らかな着艦を間近で見ていたエルナも同様であった。
そんな彼は周りのことを見ていない。なんだか白くて、機首とか翼端が黒く染められたカモメのような機体がいたというところだけは覚えている。自軍が使っている機体だから、ペイントを忘れても誤射はするまい。その程度の認識でしかなかったのも確かだ。パイロットはきっとおしゃれ好きな奴か、カモメが由来のコードネームに違いないとか、そんなことを考えて暇潰しするくらいにはどうでもいいことでしかないし、そのうち目立ちすぎて撃墜されてしまうだろう。その程度にしか思っていなかった。
「かっこいいなあ……」
感嘆の声を漏らしながらも、エルナは甲板の隅にある階段へと向かう。今日配属になったばかりのエルナは艦隊の司令官に着任の申告をしなければならない。そこで自分の配属される飛行小隊についての話もあるはずだ。初めての配属先がどんなところだろうかと、期待を不安を抱かずにはいられない。
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