第30話「はじめてのこと」

「でも、なんとなくわかった。『はじめて』ならわかる」

「え?」


 五十郎は、すぐさま自分の口をふさいだ。祇園が集中しはじめたように見えたからだ。


「……むむむむむ」


 まるで力みは感じられないが、なにやら念じてもいるようだ! 五十郎は両手で自分の口を押さえたまま、声なき声で祇園を応援した。


 頑張れ! 祇園! 頑張れ……!


「……どう?」


 ややあってから、祇園はまぶたをあけ、問うた。しかし、見ただけでは祇園の体温はわからない。


「どう? と言われてもな……いま体温計を……あ」


 電子体温計を手に取ったそのとき! 五十郎は衝撃的な事実に気づいた!


 こ、こいつを渡したら……!?


 なぜ二本買っておかなかったのか! 五十郎は悔やみながら、情報ウインドウの時刻表示を見る! 時すでに遅し! ドラッグストアはもう閉店している! 五十郎は将棋やチェスでいう詰みにまったのだ!


 い、一体、どうすれば!? いや、なにを迷うことがある!? なにを気にすることがある! 相手は祇園だぞ!? いや、しかし……!


 五十郎がこのような状況に直面したのは、実に小学生のとき以来であった。忍学は男子校で、女性はいなかったからだ(当初は共学の予定で、くノ一の育成も計画にあったが、房中術ぼうちゅうじゅつが必修科目となると知るや、『税金で性技を教えるのはいかがなものか』『これでは血税ではなくけつ税』などと批判する政治家が続出し、男子校への方向転換を余儀なくされたのである)。

 そして当然、五十郎は小学生のときのことなど憶えていない。つまり五十郎は、間接キスという、誰もが子どもの頃に経験する青春の通過儀礼――気づき、恥ずかしくなり、葛藤かっとうし、無関心をよそおい、やがて向き合い……そして本当の無関心に至る――をパスしていないのだ。

 そういうわけで、いままさに気づき、恥ずかしくなり、葛藤している五十郎は、掌中しょうちゅうの電子体温計を見下ろしたまま、動くことができなくなってしまっていた。


「ね、どう?」


 その声は、やけに近くから聞こえた。


「え?」


 五十郎が顔を上げると、文字どおり、目と鼻の先に祇園の顔があった。なぜか? 祇園が、その細くしなやかな指先で前髪を上げ、その白くすべすべしたおでこを、五十郎のおでこにくっつけていたからである。

 五十郎は声にならぬ悲鳴をあげた!


「どう? 熱くなってる?」


 熱くなっているかと問われれば、確かに熱くなっていた――五十郎が! 五十郎は、体温がおのれの肉体の発火点を超えそうな気がした! 笑い話にもならぬ! くノ一におでこをくっつけられたショックで『忍法火遁かとんの術』が暴発し、焼死するなど!


「ばばばばば、ばかな!? ななななな、なにしてんだ!? は、は、離れろ!」


 五十郎は無我夢中で祇園の華奢きゃしゃな両肩を掴むと、両腕を突っ張って遠ざけた。その瞬間、混乱の極みにあった五十郎を落ち着かせたものがある。


「……全然熱くなってないな」


 それは、祇園の体がまったく熱くなっていない事実だった。むしろ、ひんやりしているくらいだった。


「やっぱり、ダメか」


 祇園の声はいつもどおり平坦だった。高低も強弱も抑揚よくようもなく、なんの色も宿してはいなかった。表情も同様で、いつでも証明写真を撮れそうだ。

 しかし、五十郎には祇園が珍しくがっかりしていることがわかった。その両肩から力が抜けたことが、手を通じて伝わってきたからである。


「ま、まだわからないだろ。今回は、思い出した記憶が悪かったのかも……」

「それはない」


 五十郎のフォローは素気無すげなく否定された。


「な、なんで断言できる? そんなに自信があったのか? なにを思い出してたんだよ?」


 と五十郎が聞けば、少女は唇以外なにひとつ動かさずに、


「はじめてのこと」


 と言った。

 五十郎はのけぞった。


「……は!? はじめてって、お、おまえ……嘘だろ!?」

「ほんと」


 確かに、祇園は見た目こそ少女だが、五十郎より何十年も長く生きているのだから、なにも不思議ではない! それなら自信があるのも頷ける! 体温も上がろうというものだ! 五十郎には未知の世界だが、きっとそうにちがいない……


 五十郎はいつのまにか床を見ている自分に気づいた。


 ……おれは、ショックを受けているのか? なぜ……?


 五十郎が自問していると、


「はじめて他人と食事をしたこと。はじめてホットドッグを食べたこと。はじめて他人を迎えにいったこと。はじめて貸しをつくったこと。はじめて焼肉を食べたこと」


 ひとつひとつ思い出すように、祇園が言った。


「……は?」


 五十郎は再び顔を上げた。祇園は虚空を見上げていた。その小さな右手は胸のまえで、花のようにひらかれていた。

 五十郎の動作に気づいたのだろう、祇園は彼に視線を戻すと、答え合わせを要求した。


「『はじめて』は『いい』んでしょ?」


 一瞬、五十郎は祇園がなんのことを言っているのかわからなかった。

 無論、昨日の夜にそのようなことを言ったのは憶えている。

 しかし、それを祇園が気に留めていたとは思いもしなかった。

 のみならず……


「……おまえ、もしかして……だから、おれと金城さんについてきたのか?」

「うん」


 のみならず、あの祇園が――『いい』といえば『どうでもいい』で、自分が死ぬことにしか関心のなかった祇園が! 


 ……!?

 おまけに、まんざらでもないようだとは……!?

 ……こ、こいつ……!

 


「どうしたの?」


 祇園の声で、五十郎は我に返った。

 『どうしたの?』と問われるのも無理はなかった。実際、五十郎はちょっとどうかしていた。

 しかし、その正体がなんなのか、彼にはわからなかった。

 だから、五十郎は質問には答えず、


「……ま、まあ! 繰り返し練習すれば、いつかはできるように――」


 と話を戻そうとしたが、


「それは無理」


 と打ち切られた。


「諦めがはやいな!?」

「うん。いま、やってみてわかった。体が勝手に動いちゃってるって」


 どうやら、祇園の忍者の本能は、体温の変化にも及ぶらしかった。


 ちょっと考えれば、わかることだったかもしれない。

 戦前の日本において、祇園鐘音は国防のかなめの忍者だった。祇園鐘音が敗北するときは、日本が滅ぶときだ。だから、自害のための忍法など必要ない。

 そもそも、平時になにかのきっかけで自害されたらおしまいだ。国が、そのようなリスクを看過するはずがない。だから、祇園鐘音に自害のための忍法を仕込もうはずもない……


「無理か」


 祇園が呟いた。五十郎は申し訳なさと哀れみを覚えずにはいられなかったが、いまはなにか別の感情が芽生めばえているような気もした。


「大丈夫だ」


 言葉が五十郎の口を突いて出た。


「なにが?」


 祇園は尋ねた。


「いままでとなにも変わらないだろ。だから大丈夫だ」


 今更ながら、祇園の肩を掴んだままだったことに気づく。でも、いまはかえって好都合だった。

 五十郎は祇園を軽く揺すった。


「おれがおまえを殺してやるから。おれならできるんだろ?」


 祇園はまたたいてから、ほんのちょっとだけ首をかたむけた。


「できるかも」

「そこは、『できる』って言いきってくれよ……」


 五十郎は苦笑いを浮かべた。

 祇園は言った。

 

「……頑張ろうね」

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