第26話「あの夜……あの忘れられない夜」
「……は? 大変なこと?」
『大変なことになるんです』――祇園を放っておくと。金城はそう言ったが、一体どんなことになるというのか。
五十郎は思わず苦笑してしまった。放っておいたところで、祇園は部屋のどこかで体育座りをして、壁のほうを向いて『時間が過ぎるのを待っている』だけではないのか?
金城は空になったジョッキを置くと、五十郎の心中を知ってか知らずか、神妙な面持ちで言った。
「鐘音ちゃん……放っておくと、なにも口にしないんですよ。喋らないって意味じゃあないですよ……本当になにも食べないし、飲まないんです」
「……え?」
網の上では、上カルビがジュウジュウと音を立てて焼けている。隣の席では、祇園が生中を飲んでいる。
五十郎はアイロニーを感じながら、状況を想像した。果たせるかな、すぐに不可解な点が見つかった。
「でも……それって、おかしくないですか? それなら、こいつはとっくに餓え死にしてるはずじゃないですか。だって、『放っておいたらなにも口にしない』ってのは、放っておいてはじめてわかることで……放っておいたなら、ひとり暮らしのこいつは、ひと知れず飢え死にしてるはずじゃあ……?」
五十郎が疑問を呈すると、
「最初は、ハエかと思ったんですよ」
金城はそれには答えず、全然関係のなさそうなことを言った。
「は?」
「ハエの羽音です。ヴヴヴヴヴ、って……似てました? いまの」
「……なんの話ですか?」
「もちろん、鐘音ちゃんの話ですよ」
空のジョッキが冷や汗をかいた。金城はおかわりを注文しない。
「あの夜……あの忘れられない夜。
寝ていたら、音が聞こえて目が覚めたんです。ヴヴヴヴヴ、って音が聞こえて。
最初は、ハエの羽音かと思ったんですよ。でもすぐに、その音はぱったりやんで。
どこかにとまったのかな、嫌だな、って思いながら、寝直そうと思ったんですよね。眠かったから。
そしたら、今度はガパッて音が聞こえて。
わかります? 冷蔵庫があく音ですよ。
いくら
でも、なぜか点かなくって。
仕方がないから、壁を伝ってキッチンのほうに歩いていったんですけど、途中で転んじゃったんです。あると思っていたところに、壁がなくって……暗闇のなかなら、よくあることだと思いますか?
でも、おかしいんですよ。そこには絶対に壁があるはずなんです。だって、その向こうはお隣の鐘音ちゃんの部屋なんですから。
おかしなことはまだありました。起きあがってみると、なんか、部屋が広いんです。おかしなことばっかりで、夢を見ているのかと思いました。でも、すぐにそうじゃないってわかりました……ガロロッて音が、聞こえたからには。
その音は、キッチンのほうから聞こえました……そう、冷凍室のあく音でした。
わたし、もうわけがわからなくって。泥棒かもしれない……でも、泥棒だとしたら、どうして冷蔵庫や冷凍庫を? そんなことを思いながら、キッチンのほうを見たんです。
そこには……サトゥルヌスがいました。インターネットで見たことありません? 『我が子を食らうサトゥルヌス』。それがいたんですよ……冷蔵庫の庫内灯に照らされながら、業務用スーパーで買って冷凍しておいた大きな豚バラブロックをそのまま食らう、赤いドリップに
どういうことですか、って?
まあ、そうなりますよね。わたしも恐る恐る聞いたんです、『どうしたの?』って……もちろん、実際はこんな落ち着いた聞きかたはできていなかったと思いますけど。
そしたら鐘音ちゃん、豚バラブロックをアイスバーみたいに齧りながら、こう言ったんです。
『お腹が空いたと思ったら、体が勝手に動いた』って。
……わたし、鐘音ちゃんの家に入ってみました。壁にあいた穴から――そう、わたしはまちがってなかったんです。壁はあったんですよ。ただ、ひとが通れるくらいの大きな穴があけられていただけなんです。AIがわたしの声に反応しなかったのは、壁のなかの配線が切れていたからだったんです。
鐘音ちゃんの家には、食べ物も飲み物も、一切ありませんでした。あった形跡すらなかったんです。水道も、ずっと使われてないみたいでした。
理由は知りませんけど、鐘音ちゃんは断食していて……でも、きっと、鐘音ちゃんの本能みたいなものが許さなかったんでしょうね。それが、鐘音ちゃんの体をプッシュして……どうやってかわかりませんけど、壁に穴をあけさせて、一番近くにあった栄養を――つまり、隣のわたしの家にあった食べ物を、摂取させたんだと思います。
こんなことが何回かあったので、ご飯をつくってあげることにしたんです。断食さえさせなきゃ、防げるだろうと思って!
そう、何回かあったんですよ! え? どうして引っ越さなかったのかって?
そりゃ、引っ越そうかと思ったときもありましたけど……わたしが引っ越したら、つぎはなにが起こるんだろうって思いましたし……あのときの鐘音ちゃん、ひとを食い殺してもおかしくなかったから……
それに、さっきも言いましたけど、放っておけなかったんですよね。『また、ダメだった』みたいな顔で、凍った豚肉の塊をモルモットみたいにかじる鐘音ちゃんを見ていたら……」
五十郎は隣の祇園を見た。祇園は淡々と、網の上で身を縮こまらせる上カルビを箸で挟んでは、口に運んでいた。
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