第21話 二百年前のひと
キィ、と音を立てて扉が開くのが、何だか妙に生活感があって間抜けだった。
そんなことをぼんやりと考えていた。
取調室は狭くて、妙に白々とした照明がついていた。中央に置かれた机の向こうに、俯いた男がいる。
室内で見張っていた騎士が、目礼をして壁際に下がる。
リンナはそっと片手を上げ、頬を指先で叩いた。気にしない、と口の中で呟く。
勇気の出るまじない、恐怖を忘れる呪術として記録されていたものだが、いざ使ってみると、実際には感情を鈍くするはたらきを持っているように思う。
人が入ってくる気配で、エルウィが顔を上げた。
背後で両手を縛られ、簡素な囚人服を着せられた彼は、ずいぶんと憔悴してみえた。首元から覗く肩に青あざを見つけて、そっと目を逸らす。
騎士団の『尋問』は苛烈を極めると聞いていたが、都市伝説ではないらしい。後ろに両手を回した姿勢からは、彼が手錠を嵌められていることが窺えた。
「リンナ」と、ひび割れた唇でエルウィが呟く。リンナは口元を厳しく弾き結んだまま、「久しぶり」とだけ答えた。
何かを恐れてでもいるように、彼は頑としてこちらを見ようとはしなかった。不自然に顔を背け、床に視線を向けている。
「約束通り、洗いざらい話してもらうぞ」
イーニルが言い放ち、エルウィの向かいに腰掛けた。ぎし、と椅子の軋む音が、不穏な響きで取調室にこだまする。
肩をこわばらせたリンナの手に、指先が触れた。隣でアルラスが手を握っている。視線を向けると、彼が力強く微笑む。
「ことの発端は?」
厳しい口調で始まった尋問に、エルウィが拒否を示すことはなかった。
「友人に誘われて立ち上げた事業が失敗して金に困っていた。親に泣きつくのもみっともなくて、色々な伝手を使って仕事を渡り歩いていた」
「金に困っていたのか」
イーニルがばっさりと問うと、エルウィは実に不本意そうな顔をした。彼にとっては重要な問題らしい。
「困窮していたわけじゃ」と反論しかけて、無意味だと分かったのか肩を落とす。
「そうした生活を送っていたら、あるとき、良い仕事があると声をかけられた。僕の専門を見込んだ仕事と聞かされていたし、怪しくはない程度に、でも十分すぎる金額だった」
喜んでその仕事を受けたのだと、エルウィは抑揚のない口調で語る。
「専門? ええと、たしか学歴が……」
「アールヴェリ大学の古代魔術専攻です」
資料をめくるイーニルの背後で、リンナは素早く告げた。
「同じ大学の後輩なんです」
年齢こそ同じだが、途中からはリンナが飛び級で進学したため学年が異なる。
イーニルが確認のため資料に目を落とした瞬間、エルウィはふっと顔を上げた。視線がかち合ったのはほんの一瞬、けれどその呼吸一つ分のあいだに、彼の全身に敵意が張り詰める。こちらを睨む視線の凄まじさに、息が止まった。
リンナは思わず片足の踵を後ろにさげた。しかし、エルウィを見返したときには、彼はまた元のようによそを向いていた。
手のなかで、アルラスの指先が強ばっている。先程から、心配そうにこちらをちらちらと見下ろしている。
これがただの取り調べではないことは、既に分かっていた。なにか嫌な予感がする。アルラスはその正体を知っているのに、それを言わないでいる。
「そう……古代魔術に詳しい人間にしかできない仕事だと紹介された。商品の鑑定と、仲介。ある商品を受け取って、そいつが本物であることを保証して業者に渡す作業だと説明されていた」
その口ぶりからして、実際に商品の真贋を鑑定することは求められていなかったのだろう。結論ありきの確認である。とにかく、古代魔術を学んだ人間のお墨付きを得るための段取りだ。
エルウィもそう思ったから安請け合いしたのだと予想がつく。
「そうして受け取ったのが、あの呪文札だったのか」
イーニルの質問に、エルウィは何も言わずに頷いた。「どのような人間から受け取った」と、イーニルが追究する。
「……知らない」
指定の場所に置かれている品物を回収したのだ、とエルウィは俯きがちに応えた。
「包みに入っているのが呪文札だと分かったから、ざっと様子を見て、傷もないし変なところもないのを確認した。あとはあらかじめ伝えられていた業者に渡せばそれで終わりだと思った」
「あの呪文札に変なところがないって、本当にそう思ったの?」
リンナは眉根を寄せて口を挟んだ。
あの呪文札には明確な欠陥があった。もし実際に使用しようとすれば大事故が起こるような、文言の誤りである。
エルウィは怪訝そうにイーニルの顔色を窺った。イーニルが呪文札を撮影した証拠写真を取り出し、一部の文字を指さす。
「なんでも、ここの表記が間違っているとか」
「……は? こんな些細な違い、分かるわけがないだろ」
説明を受けて、エルウィは顔をしかめて吐き捨てた。その言い草が気に食わず、リンナは刺々しく言い返していた。
「明白な違いよ。あなたはちゃんと勉強していなかったから、分からないかもしれないけれど」
エルウィは顔を上げ、今度こそまっすぐにこちらを見据えた。その頬が蒼白である。垂れ目がちな双眸を大きく見開いて、睨みつけてくる。
ただでさえ空気の重い取調室に、緊張感が満ちた。それまで気配を殺していた騎士の数人が、色めき立って視線を走らせる。
「そもそも、普通の人間はあんな昔の文字なんか読めないんだよ」
唇を震わせながらエルウィは呟いた。
「教授でさえ辞書が手放せないんだ、それなのにお前は、学生の頃から当然のように古語も呪文も読み通して」
「それは、私が努力したから」
「だとしたら、お前の『努力』は異常だ」
血の気が引く音を、リンナははっきりと聞いた。
どういうこと、と不自然に軽い口調で返す自分の声が、遠く聞こえる。指先が痺れて、感覚がなくなってゆく。
腰を浮かせかけたエルウィを、背後に控えていた騎士がすぐさま取り押さえる。肩を押さえつけられながら、首を伸ばすようにして、彼は一秒たりとも目を逸らそうとはしなかった。
「……お前は、いったい、何者だ」
アルラスがこちらを振り返るのを、リンナは視界の端でぼんやりと捉えていた。彼に見られたくない、と思った。
「質問の意図が分からないわ」
「学生時代、僕はお前が眠っているのを一度も見ていない。一度見聞きしたことを不自然に完璧な状態で記憶している。集中すると、部屋の中でぼやが出ようが気付かない。……お前はあっという間に優等生の座を手に入れて、いつの間にか天才とまで呼ばれていた」
言い返す言葉ならいくらでも思いつくのに、咄嗟に唇がうごかなかった。アルラスの視線を強く感じる。
何を言っても彼の前では白々しく聞こえると分かっていた。
リンナは焦りを滲ませる。
(どういうこと? エルウィにかけた魅了と記憶操作の呪いが解けている……)
しかし、妙なことがある。
記憶が戻ったなら、彼はリンナの
(触れられる前に黙らせた方が良いわ)
片手を口元へ持っていこうとした瞬間、アルラスが強く手を掴んだ。
「リンナ」
こちらを見下ろして、彼はゆっくりと首を横に振った。やめなさい、と静かに諫められ、リンナは身が縮む思いだった。
また、考えるより先に呪術を使おうとしていた。
これでは酒をやめられない酔っ払いと同じである。やめろと言われてもつい瘡蓋を剥ぐ子どもと大差ない。
異常だ、と吐き捨てたエルウィの声が、まだ胸の内を駆け巡っている。
イーニルが、視線だけでこちらを窺う。アルラスが目配せをすると、彼女はついと目線を戻した。
厳しい口調で「話は順を追って聞く」と机を叩く。大きな音が出たのに、エルウィはぴくりともせずにリンナを睨み続けている。
「それで、呪文札を受け取ってどうした」
「指定されていたのは街の東にある橋のたもとだった。つまり、品物を受け渡したらすぐに転移ステーションで遠くへ運ぶ算段だ。どうもきな臭いと思って調べたら、博物館でなにか事件が起こったらしいと噂を聞いた」
さっさと話し終えてしまおうというように、エルウィは早口で語る。
「そこで、わざわざ『古代魔術に詳しい人間』として依頼があった理由が分かった。最初から僕を捕まえさせる気だった訳だ。もし件の呪文札が盗品だったとしたら、僕は間違いなく犯人に仕立て上げられる」
リンナとアルラスは同時にイーニルを振り返った。リンナの専門分野を証拠のひとつにして厳しい取り調べを行った女騎士は、気まずそうに顔を背けた。
リンナは冷ややかに言葉を継ぐ。
「このままだとまずいと思ったところに、ちょうど私を見つけたのね?」
「神の采配かと思ったよ」
エルウィが悪戯っぽく頬を吊り上げて答えた。そうした表情をすると、数年前まで婚約者として過ごしていた頃が思い出された。
どうしようもない人間なのに、どこか憎めない愛嬌があるのだ。この男がここまでのろくでなしになった原因でもある。
(これで、私が巻き込まれた経緯は分かった)
気になるのは、その後エルウィがどのような道筋を辿って、呪いの解けた状態で南部戦線の向こうにいたのかだ。
アルラスの関心もそちらに向いているらしい。彼の表情は如実に険しくなっていた。
「代われ」とイーニルに声をかけて、アルラスは一歩前に出た。空いた椅子に腰かける。エルウィの顔がはっきりとこわばった。アルラスを睨みつける表情には、怯えが混じっているようにも見えた。
(閣下、エルウィになにをしたのかしら……)
リンナは思わず半目になる。アルラスは怒らせると怖い。真正面から怒鳴られると、ちょっと涙が出るくらい恐ろしい怒りっぷりである。
「さて、それでは聞かせてもらおうか――貴様が、南部戦線の向こうにいた件に関して」
エルウィと相対して言い放ってから、アルラスは一瞬こちらを振り返った。リンナに話を聞かれることを懸念する仕草だった。
「……一旦、廊下で待っていた方が良いですか?」
退室する気はさらさらない態度で訊いておく。しかし、アルラスが答えるよりさきにエルウィが大きな声を出した。
「駄目だ。お前に関係する話だ」
リンナは目を見張った。アルラスが眉を寄せてエルウィを注視する。
狭い取調室は壁も天井もコンクリート打ちの灰色で、空気がしんと冷えていて、窓はひとつもなく、扉につけられた磨りガラスに人影は映らない。
外界から隔絶された小さな空間は、息もできないほどに張り詰めていた。
アルラスが唸る。
「南部戦線の話は、彼女には関係ない」
「それが、あるんだよ」
「私、南部に行ったことは一度もないわ」
「『お前は』そうかもしれないな」
まったく要領を得ない。こちらが尖った声で反駁するのに、エルウィは不気味にへらへらと笑っている。
なにか、とっておきの切り札があるような、不敵な笑みだった。何も言われていないのに、リンナは気圧されて一歩下がった。踵が壁にぶつかる。
「――おい、なにをしている!」
そのとき、それまで黙って経緯を見守るだけだった騎士が、突如叫んだ。誰もが反応できなかった一瞬のうちに、エルウィに飛びかかる。椅子が倒れ、机が壁に激突する。
椅子から突き飛ばされ床に取り押さえられたまま、エルウィは甲高い笑い声を上げた。その常軌を逸した響きに、リンナはびくりと肩を跳ねさせる。
「……貴様ッ!」
アルラスが怒鳴ってエルウィに向かって手を伸ばす。そのとき、背後で戒められたエルウィの両手が見えた。そのとき初めてリンナはエルウィの手を目の当たりにした。
指先は赤黒い血に覆われ、何本かは内出血の色で青く染まっている。彼に施された、苛烈な『取り調べ』の形跡だった。
現代の法では、決して公には許されない拷問である。これほどまでに責め立てられてなお、エルウィは、リンナが来なければ何も語らないと強弁したのだ。その異常さに、うなじの毛が逆立つ。
酷く損傷した十指に気を取られて、反応が遅れた。彼の指が形作っている印を認めた瞬間、リンナは鋭く息を飲む。
(あの形は……!)
瞬間、エルウィはリンナを真っ直ぐに見据えて唱えた。
『真実を顕せ』
猛々しい口調で語られた古語が、空気を揺らす。振動が身体に触れた瞬間、リンナは悲鳴を上げてしゃがみ込んでいた。
「エディリンナ様!?」
「こないで!」
駆け寄ってきたイーニルの手を振り払い、リンナは両腕で頭を抱えた。
上着のフードを目深に引き下ろす。
床を見つめて、リンナは胸を上下させて息をした。
全身が、氷水を浴びせかけられたように震えていた。背中や額からどっと汗が噴き出し、心臓が暴れ狂っている。
「お前に呪文札を押しつけたあと、気がついたら僕は依頼主に誘拐されていた!」
床に押さえつけられながら、エルウィは必死に顔だけを上げて叫んだ。叫んだ直後、その口から血糊が噴き出す。
「場所は、南部戦線の向こう――荒地の、地下洞窟」
エルウィの体が激しく痙攣し始めた。騎士は小さく声を上げて、手を緩める。
息も絶え絶え、エルウィは床に這いつくばったままリンナを睨み上げていた。
「あそこには、お前と同じ顔の女が、たくさんいた」
エルウィの言葉など、もはや耳に入らなかった。リンナは壁際に体を押しつけ、頭を抱えてしゃくり上げる。
「……貴様は何を言っている?」
アルラスが、耳を疑うように呟く。
またエルウィが血を吐く。
「でも唯一、お前は、そいつらと違うところが、ある」
「やめてッ!」
リンナはフードを強く強く握り締め、鼻先まで必死に引き下ろしながら、胸元に顎を埋めた。
「やめて……もう何も言わないで、おねがいします、謝るから、やめて……」
弱々しく呟いて、リンナはすすり泣く。壁を向いた背後で、アルラスが立ち上がる気配がした。
「記憶が戻って、驚いたよ。……お前、周りだけじゃなくて、自分さえ呪術で改造してるんだもんな。……この化け物が」
喉が絡んだような声で、苦しげにエルウィが言う。
それきり彼の声は途絶えた。気絶したのだろう、騎士が焦った声を出上げてエルウィを揺さぶる。
アルラスの足音が近づいてくる。狭い取調室は、彼の歩幅なら五歩で横切れる。
「リンナ」
尋問のときとは打って変わってやさしい声で、アルラスが背後に立つ。
「どうした」
緊張感のある響きで、それでも決して無理に振り向かせようとはせずに立っている。
「近づかないで」とリンナは必死に壁に肩を押し付けた。
「見ないでください」
震える声で繰り返すリンナに埒が明かないと判断したのか、アルラスはしばらく躊躇ってからこちらへ手を伸ばした。
「やだ、やめて、来ないで……」
頭上に迫る手の恐ろしさに、リンナは喉が締まるような思いだった。
大きな手が頭に触れた。リンナが死に物狂いで握りしめるフードが、有無を言わさず下ろされる。
アルラスが息を飲むのが聞こえた。リンナは絶望しながら、その顔をぼうっと見上げていた。
……見られた。もう終わりだ。そう胸の内で呟く。
けれど、彼なら。――アルラスなら、こんな自分でも受け入れてくれるのではないかという淡い期待が、どこかにあった。
両目に涙をたたえて、リンナはアルラスの足元にすがりつく。
「騙してごめんなさい、閣下……」
唇を震わせて告げた、その声が消えるか消えないかのうちに、アルラスの片腕が目にも止まらぬ速さで動いた。
額に押し付けられた冷たさに、目を瞬く。
「……え?」
ごり、と音を立てて、銃口が眉間を抉る。
「か……閣下?」
目だけを上に向けて、リンナは呆然とアルラスの顔を仰いだ。
彼は肩で息をしながら、蒼白な顔でこちらを見下ろしていた。その顔に、初めて見る表情が浮かんでいる。
恐怖である。
まるで人ならざるものを見ているように、アルラスの頬が嫌悪に歪む。
「両手を、上げろ」
さもなくば打つ。
ただの脅しの口調ではなかった。
「待って閣下、」
「口を開くな」
引き金にかけられた指先に力が込められるのを見て、リンナは鞭で打たれたように口を噤んだ。
「閣下! なにをなさるのですか」
イーニルがアルラスの肩を掴む。アルラスは片腕を振り払ってイーニルを突き飛ばした。
アルラスが震える声で呟く。
「……こいつは、俺の、妻だ」
イーニルは戸惑ったように頷いた。
「え……ええはい、存じておりますが」
「違う!」
アルラスが怒鳴ると、イーニルは目を見開いたまま口を閉ざした。
「思い出した……そうだ、この顔じゃないか」
薄く開いた唇から、彼が呻く。
額に押し当てられた銃口の冷たさに恐慌しながら、リンナは必死にアルラスを見つめていた。
「二百年前、俺の妻だった女も、同じ顔をしていた」
リンナは訳も分からずにその言葉を聞いていた。
頭の片隅で考える。
記憶操作は、トリガーと合致した状況が再現されることで、解けることがある。
***
アルラスの全身が震えていた。けれど、銃口を突きつけた片腕だけはびくともしなかった。
(……今なら、手に取るように思い出せる。断頭台の手前でのことだ)
兄を殺そうとして失敗した呪術師が、処刑される朝だった。
断頭台はよく日の当たる城の裏庭にあり、地下牢から階段を上れば直接出られる位置にあった。
裏庭へ続く開口部を背に、アルラスは地下牢から連れ出される呪術師を待ち受けていた。まだ早い時刻のことだったから、開口部から射し込む光は斜めに白く延びて、石床に彼の輪郭を黒く落としていた。
呪術師を拘束する際の基本は、生物を近づかせないことだ。だから、王の暗殺未遂で捕らえられて以後も、その呪術師に近づく者はいなかった。断固としてフードを下ろさない呪術師の素顔を、誰も見てはいなかった。
呪術師の顔を暴いてはならないという迷信もあった。曰く、呪術師の素顔を見ると、不幸が起こって死ぬのだと。
呪術師が断頭台に連行される直前、アルラスは兵に声をかけて進行を止めさせた。
その呪術師は四肢と口を封じられていた。深く俯き、体型をすっぽりと覆う、丈の長い白いローブを着ていた。もっとも、既にローブは牢獄での生活ですっかり黒ずんでいた。大きなフードが小柄な呪術師の顔に影を落とす。
呪術を使う素振りを見せれば即座に殺せるよう、十人あまりの兵が取り囲んでいた。
迷信など知ったことではない。
兄を殺そうとした呪術師の顔を拝んでやろうという、一種の意地のような、挑戦的な感情だった。
厳重な体制のなか、アルラスはその呪術師のフードを両手でゆっくりと上げた。白い布地は思っていたより軽かった。
何だかここ数年以内で身に覚えのある仕草だと脳裏で考える。既視感の正体を突き止めるよりさきに、アルラスはその場に立ち竦んだ。
婚礼の際にヴェールを上げられた花嫁のように、呪術師はしずかに頭をもたげた。
その額に光があたる。紅を引いていないのに真っ赤な唇が、弧を描いていた。
新雪のようにまっしろで混じりけのない白い髪が、彼女の肩を覆っていた。見開かれた双眸はぎらぎらと挑発的に輝いて、こちらを真っ直ぐに射貫いている。
自分の目を疑った。
目の前にいるのは、紛れもない、己自身の妻だった。
妻は、恐ろしいほどに賢く、いつも何を考えているか分からない人間だった。
時おり誰もいない方を見ては、酷く寂しげな顔をする娘だった。
決して不平不満を言わず、慎み深く、求められることを立場に応じて恙なくこなす女だった。
髪色は白ではなかった。
どうやったのか、彼女は猿轡を外していた。白い歯が唇の隙間からちらりと覗く。
視線がかち合った一瞬の沈黙ののち、彼女はけたたましい声を上げて哄笑した。
「騙してごめんなさい、殿下!」
嘲りを含んだ高笑いが響き渡る。
たったそれだけの一言で、彼女がいつか自分を裏切るために懐に入ってきたのだと理解してしまった。
衝撃が全身を貫く。ずっと欺かれていたのだ。
ずっと。幼い日に出会ったあのときから、十年以上。
彼女は喉を反らし、体を揺らして笑っている。
この女が声を上げて笑うところは見たことがなかった。ましてや、こんな風に悪意を剥き出しにするところなんて。
まるで別人を見ているようなのに、夢ではない。
アルラスは掠れた声で傍らの兵に目配せをした。
「刑の執行を延期すると伝えてこい、今すぐ陛下を――」
「いいえ。『十分前に行おうとしていた行動を続けなさい』」
瞬間、喉が縛り付けられたように声が出なくなった。
兵たちは再び呪術師の腕を強く掴み上げ、断頭台のある中庭の方へと歩いてゆく。まるで操り人形のようにきっちりとした動きだった。
彼らの顔は皆一様に強ばっており、自分の意思に反して体が動いているのだと察せられた。
けれど、それを止められる者はいない。断頭台の傍に立つ兵たちは、何も怪しむことなく呪術師を待ち構えている。
中庭へ出る直前、すれ違い様に彼女は呟いた。
「私、今まで会った全ての人間に呪いをかけてあるわ」
微笑みながら女が語る。
「私が死んだことを認識したら、あなたは、私との思い出も、私個人に関する記憶も、すべて忘れるのよ」
私たちはそうするようにできている、と。
澄んだ朝の光に顔を向ける間際、妻は優しく目元を緩めた。
白い髪をした女の顔が、ひときわ強く記憶に焼き付けられる。
「またいつか――次の私で」
薄暗い取調室のなか、あのときと同じ顔で、まったく違う表情で、彼女は必死に声を押し殺して泣いていた。
(この、女は……)
手を伸ばして拳銃を構えた先で、彼女はぎゅっと目をつぶって泣いている。
不規則にその肩が揺れているのは、うまく息が吸えないからだ。それなのにきつく唇を噛んでいるのは、喋るなと自分が脅したからだ。
しゃくり上げるたびに、彼女の長い髪が揺れる。毛先までゆるく波打った、柔らかくて艶のある髪だ。
まっしろで、月の光のように冴え冴えとした髪が、彼女の胸元に垂れている。
光量の絞られた取調室の照明の下で、その髪はまるで自ら輝くようだった。
彼女は、呪術で自分の髪色を変えていたのだ。
(母親と同じ髪の色だった)
類まれなる呪術の才を持って生まれ、一般的には忌避される呪術に対して抵抗感がまるでなく、自分には呪術しかないのだと語る。
二百年前にも、同じ顔で生きていた。性質はまったく違う。けれど二人ともが呪術師である。
『あそこには、お前と同じ顔の女が、たくさんいた』
エルウィの言葉が蘇る。
(……こいつは一体、何者だ)
声を殺して泣いているリンナを見下ろすうちに、銃を握る手にじわりと汗が滲む。
狭い取調室に、銃声が反響した。
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