第20話 一線を越えたり越えなかったり


 取調室の扉を開けば、両脇に物々しく騎士が立っている。

「見張っておけ」と声をかけて部屋を出ると、入れ違いに見張りの一人が取調室に入った。


 アルラスは苛立ちを隠せずに後ろ頭を掻きむしる。

『あいつは化け物だ』と叫んだエルウィの声が、今もなお脳裏をよぎっていた。

 彼の発言からして、リンナがあの元婚約者に呪いをかけていたのは間違いない。

 その呪いが、解けていることも。


(呪いは独りでには解けない、はずだ)

 もしそうなら、今頃自分はとっくのとうに年寄りになって死んで干からびている。

(つまり、何らかの理由で呪いが解けた。呪いをかけた術者以外でも同じ方法で解けるのかは分からないが、魅了の解き方は知っている)



 通路を歩けば、位の高い騎士であることを示す制服が目に入る。アルラスの顔を極力見ないように目を伏せ、さっと道を開けて一礼する。壁際に寄ってアルラスが通り過ぎるのを待っている彼らを一瞥する。


 このフロアは、騎士団の一握りのエリートのみが立ち入ることを許される空間である。最高機密を取り扱い、不透明なプロセスで意思決定が為されることから、本部内では『中枢』と、なかば揶揄を含んだ呼び方をされている。

 上昇志向の強い若者らはここに来ることを目指して切磋琢磨を続けるが、まさかその最高機密が、こんな二百歳の男だとは思うまい。


 ふと視線を感じて脇を見る。はっと息を飲んで、若い騎士が顔を下に向けるところだった。思わず口の端に笑みを浮かべて、アルラスは前方に目を戻した。


 騎士団本部の敷地には、いくつものオフィス、武器庫、官舎といった建物がざっと数十は並んでいるが、今いるこの建物が最も古く、最も奥にある。

 とはいえ外壁や内装は定期的に改修されており、古めかしい印象は受けない。

 白いリノリウムの床は滑らかで、軋むこともない。レイテーク城のゆるい床板に比べれば、涙が出そうな安心感である。


 それでも、どんなに古くても、他にもいくつ拠点があろうと、アルラスはあの城から離れる気にはなれなかった。


 昇降機の前で立ち止まり、アルラスは瞬きをした。

(魅了は解けるが――記憶を操る呪いは、どうやって解くんだったか)

 聞いたことがあるはずなのに、思い出せない。聞いたはずがあるという確信も妙だ。どこで聞いたかも分からないのに……。


 ……ふっと、目の焦点が覚束なくなり、一瞬目の前の扉がぼやけて見えた。アルラスはまた二、三度まばたきをした。

(まあ、二百年も生きているんだ。忘れることの一つやふたつあるよな)


 そう結論づけたところで、昇降機の上の針が大きな数字の方へ振れた。案外と早いご到着である。

 最上階へ針が近づいてくるのを眺めながら、アルラスは息を吐いた。


 緊急事態とはいえ、リンナを無理に呼び出した自覚はある。受話器越しにも彼女が警戒しているのは伝わっていた。

(何と言って伝えたものか……)

 憂い顔でため息をつく。ちん、と昇降機が到着したことを知らせる音がして、両開きの扉が開いた。




「おお、閣下! ちょうどよいところに!」


 リンナ、と声をかけようとして、目が点になる。小柄で吹けば飛ぶような女とは似ても似つかない、縦にも横にも大きな男が笑顔で昇降機を降りてくるところだった。


 豊かな赤みがかった茶髪をしており、同じ色の口ひげを蓄えた、骨太で四角い男である。腰に差した拳銃は優に五、六十年まえのヴィンテージで、実用性そっちのけの趣味の領域にある。

 武器が好きなのだと以前に言っていた。その造形や機能のみならず、それが使われる場面に、非常に関心があるのだとか。

 全くもってこの男は天職についている。


 その顔を見咎めた瞬間、アルラスは悪態をつくところだった。よりによって、今、ここで会うとはついていない。


 咄嗟に笑顔を浮かべて「久しいな」と友好的に声をかける。

「今日は何の用件で――セラクタルタ卿」

 改めて見てみれば、ちっとも娘と似ていない。


 呼びかけた瞬間、彼はにこりと破顔した。大柄な体に似つかわしい大音声で、「いやなに、簡単な書類の確認に来ただけで、すぐに戻ります」と手を振りながら言い、資料室のある方向へ顔を向ける。


(……あれ?)

 アルラスは意外な思いでセラクタルタ卿に目線を向けた。彼と最後に顔を合わせたのは、リンナを迎える前のことである。てっきり、娘のことを話題に出すと思ったのだが。

(人目があるから言わないのか?)


 怪訝な顔をするアルラスをよそに、男は笑顔で切り出す。

「して、閣下。あの報せはもうお聞きになりましたかね」

 昇降機から一歩横にずれて、セラクタルタ卿は口元に手を添えて囁いた。


 ぴんとくる話題があった。素早く左右に視線を走らせる。

 ……昇降機が再び上がってきていた。今度こそリンナだろう。

「せっかくだ、用事を済ませながら聞こう」

 アルラスはセラクタルタ卿を促すと、資料室へ続く廊下を先導して歩き始めた。不自然に急かされ、卿は怪訝そうにしながらついてきた。



 ほとんど押し込むようにセラクタルタ卿を資料室に入れると、アルラスは後ろ手に扉を閉じた。棚にいくつも並んだ書類には見向きもせず、低い声で問う。

「戦車が到着したか」

「はい」

 男は目を輝かせて頷いた。


「隣国の、最新鋭の技術を使った戦車です。この目で見ましたが、いやはや何とも大きく威容がある。まずは一台のみの供与ですが、実戦で有効性を確認できれば各戦地での一斉投入とのこと。先方との交渉を進めさせているところです」


 アルラスは一旦黙り込んだ。セラクタルタ卿はすっかり乗り気である。

「あちらの提示している金額は」と訊いて返ってきた数字に、彼は舌打ちをした。……完全に足元を見られている。


 アルラスの苛立ちに気づいて、「お気持ちは分かりますよ」と卿が言う。

「しかし、他に手段がないのです。事態の抜本的な解決のためには、ここで一度、完全に奴らを叩くしかありません」

 そうしなければ、と、次にくる言葉は分かりきっていた。

「我々は永遠に、国境を囲むこの壁の中で生き続けるしかない」


 次世代の子供たちには、開かれた国境線を見せてやりたい。誰もが願っていることである。


 しかし、隣国の提示する条件はあまりに不利が過ぎた。

 戦車の本格投入が決まればこちらは向こうの言い値を出すしかないうえ、交易が再開した暁には無茶な関税をかけようとする動きもある。

(背に腹はかえられないのか……)


 アルラスは腰に手を当てて項垂れる。

 ただでさえ国内では軍部に対する反発が強まっているというのに、軍備増強のために更なる予算を取ってくる? およそ現実的ではない。

 しかし、このままでは少しずつ衰退の一途を辿るしかない。


「他のアプローチは本当にないのか……?」

「閣下! 半年ほど前はあれほど乗り気だったのに、今さら何を仰っているのですか!」

 弱気な声を出したアルラスに、セラクタルタ卿は驚いたように大きな声を上げた。


「大体、ほかにどんな手段があると言うのです」

 不本意そうに問われて、アルラスは資料室の壁に背を当てたままぎゅっと目を閉じる。


(今になって、俺がどの面下げて言い出すんだ)

 言葉は決まっているのに、なぜか唇が動かなかった。短く息を吸い、唇を湿らせる。


「……呪術」

 小さく呟いて、アルラスは強く拳を握った。瞼の裏に、リンナの明るい笑顔が浮かんだ。何も知らないで笑っている、可愛い小娘である。


「じゅ……呪術?」

 予想だにしていなかったようにセラクタルタ卿が眉をひそめた。



「ところで」と呼びかけると、五十手前の男はきょとんとこちらの言葉を待っている。


「ご息女は呪術の専門家だろう」

 そう語りかけた直後の、男の顔色は奇妙だった。

 嫌悪を示すようにぴくりと目元が歪む、と思った瞬間、その両目がふっと虚ろになり、一度瞬きをすると顔全体がにっこりと笑う。


「ええはい、リンナはとても優秀で」

 不自然なほど明るい口調でセラクタルタ卿は応じた。


 首筋の毛が逆立つ。

 銃口を突きつけられようが高所から落ちようが火だるまになろうが、もはやさして恐怖もしない身である。

 これほどまでに根源的な恐れを感じるのは、久しぶりだった。あまりの異常さに鳥肌が立つ。

 何より恐ろしいのは、セラクタルタ卿本人に異常の自覚がまるでないことだった。


「彼女の研究内容については把握しているか」

「いえ? あの子は優秀ですし、私にはよく分からない内容です」


「……最近の様子については?」

「なかなか時間が取れませんで、もう四、五年は会っていません。ああ、少し前に結婚したと報せを聞きました」


「どこへ嫁いだんだ」

「はて……手紙に書いてあったんでしょうが、忙しくて読む機会がなく、把握しておりません。リンナならきっとどこへ行ってもうまくやっていけるでしょう」


 よどみなく語るセラクタルタ卿に、アルラスは息ができなかった。

 ……知らないのだ。少しでもリンナの話を聞けば、アルラスのことを知る彼なら、娘の嫁いだ相手が、目の前にいるこの二百歳だと察するはずだ。


 そうと知れば、娘が決して幸せな結婚をした訳ではないことも、娘が何かに巻き込まれていることも分かるのだ。心配して当然だ。


 それなのに、この男は、娘になにも関心がない。

 アルラスに会って、最初に口にするのが戦場のことである。


 絞り出すように、最後に一言発する。

「……娘のことは、愛しているか」

 セラクタルタ卿は不思議そうな顔で首を傾げた。

「ええもちろん、当然ですよ」

 その笑顔に嘘はない。


 口では何と言おうと、彼の行動には呪術では操りきれない本心が現れている。それに気がつかないリンナではない。


(リンナ……)

 呆れとも怒りとも哀れさともつかない感情が沸き起こる。

 セラクタルタ卿は明らかに呪いにかかっている。けれど本人はそれに気づけない。

 リンナのやったことは絶対に間違っているが、今さら呪いを解けない彼女の気持ちも分かる。



 調べ物があるというセラクタルタ卿を置いて、アルラスはふらふらと資料室を出た。

 この体になって以来、大体いつでも顔色は良いが、リンナに出会ってからというもの、赤くなったり青くなったりするようなことばかりだ。


 やっとの思いで廊下を戻ると、執務室の前で立ち尽くす集団がいた。

 背の高い軍人に囲まれて、すっかりしょぼくれて小さくなってしまった横顔を見つける。俯いて体の前で手を組み、かけられた言葉に短く答えて頷いている。

 不安そうに眉を下げているのに、話しかけられて顔を上げる瞬間だけ笑って答える。


「リンナ」

 人前なのも忘れて声を上げていた。すぐさま顔を上げたリンナが、こちらを振り返ってぱっと表情を明るくする。


 あんまり可愛い顔で駆け寄ってくるので、気がついたら腕を広げていた。

(まさか、これも呪術……!)

 そんな馬鹿げたことを考えていると、直前で頭を下げたリンナが勢いよく鳩尾にぶつかってくる。

「うぐっ……」

 不意を突かれて攻撃をまともに食らい、アルラスは小さくよろめいた。


「か、閣下!?」

 驚愕するのは、傍で様子を見ていたイーニルである。「大丈夫ですか」と大袈裟に心配され、アルラスは手ぶりで問題ないと示した。


「ちょっとした事故だ」

「そ……そうですか?」

「そうだ」

 さっきから頭頂部が的確に急所をぐりぐりと抉っているが、もしかしたら偶然かもしれない。

 突撃の際も明らかに狙いを定めていた気がするが、偶然かもしれない。


「リンナ」

 そっと声をかければ、背中に回された両手が、容赦なく服の布地をたぐる。胸元に顔を埋めながら、リンナが呻く。

「昇降機の前で待ってるって、言いました」

「悪かった。……別の用件があったんだ」

 細い指先が縋りついてくるのを感じながら、アルラスはため息をついた。

 薄い肩に手を乗せる。


 なにか優しい言葉をかけてやろうと、口を開きかける。と、下を向いていたリンナががばりと顔を上げ、燃えるような瞳でこちらを睨み上げた。


「それと、今度から人を呼び出すときは、ちゃんと行き先と用件を明言してください。最低限の礼儀じゃないですか? 軍の偉い人がそれくらいの報告や連絡もできないでは、有事の際が危ぶまれます」


 油断した瞬間に痛烈な苦言を呈されて、アルラスは顔をしかめた。

「それを言うなら、相手に渡す情報の取捨選択を行うのも軍の仕事だろう。何も問題ない」

「なにそれ、私が敵だっていうの?」

「敵とか言ってない」


 む、とリンナが目に見えて不満げな顔になる。今にも第二波が来そうな気配を感じて、アルラスは心持ちのけぞった。

 リンナが大きく息を吸うのと同時に、こちらを見守っている面々の顔が目に入る。


 ……他の騎士らが見ている前で、むきになってリンナと言い争うのは何だか気恥ずかしく思われた。


「でもっ」と反駁しかけたリンナの口を、咄嗟に手のひらで覆う。連動するように、リンナの目が真ん丸に見開かれて不満を表明した。

「何するんですか」と手の中でリンナがもごもご文句を言うのを封殺する。アルラスはそのまま有無を言わせずリンナを執務室に連行した。


 すれ違いざま、イーニルの耳元で囁く――「セラクタルタ卿が帰っていったら知らせてくれ」。

 察しが良いうえ、詮索をしないのが彼女の良いところである。一瞬だけ、ぴんと耳を立てた猟犬のように辺りを窺う様子を見せたが、すぐ何も言わずに頷く。



 執務室に入ってさっさと扉を閉める。解放した瞬間、リンナは素早く距離をとって腕組みをした。

「いま、イーニル少佐と仲良くし」

「てない。業務連絡だ」

「ふーん?」

 全く信用していない目つきでリンナが首を傾げる。


「一応言っておきますけど、閣下、今日に入ってからずっと怪しいですからね」

「自覚はある」

 おいで、と手招きをするが、リンナは壁際に立ったまま近づいてこようとしない。仕方ないのでそのまま腰を下ろすと、アルラスは肘掛に頬杖をついた。



「それで、聞きたいことは? 答えるかは分からないが」

「閣下は誰ですか?」

 間髪入れずに質問が飛んでくる。リンナの表情は固く、用心してこちらを注視しているのがよく分かる。初めて会った頃を思わせる態度だった。


「……約二百年前に不死の呪いを受けて死ねなくなった人間。当時は兄が国王だったから王弟だったが、今はその繋がりで、表には出ないが公爵位を持っている」

「で、軍の偉い人なんでしょう」

「イーニルが何か言っていたのか」


 リンナはちょっと黙った。

「いいえ。でも周りの態度なんかを見れば分かるわ」と答える。どうやらイーニルから何か聞いているらしい。



「リンナ、こちらに来なさい」

 強い口調で再度呼びかけると、彼女はしぶしぶ近寄ってきた。すぐ横で立ち止まったリンナの手首を重ねて掴む。両手をまとめて捕まえられ、リンナが嫌そうな顔をする。ほんの半年程度の付き合いだが、このうんざりした顔は幾度となく見た気がする。


「……何ですか、これ」

「手を繋いでいるだけだが」

「手を繋ぐって知ってます? こんな手錠みたいに拘束するものじゃないと思うんですが」

 もぞもぞとその指先が動くのを見て、アルラスは一旦手を離した。柔らかい手のひらを指の腹でなぞると、両手をそれぞれ下から掬い上げ、指先を握り込む。


 がっちりと両手を掴まれたまま、リンナは目を眇めた。

「自白の呪いを使われたら困る事情があるのね」

「君の呪術を完全に封じようと思ったら大変だからな」

 目を合わせずに呟く。リンナは「それって」と言いかけたが、かぶりを振って続けなかった。


 繋いだ両手を振り払わず、リンナは執務室をぐるりと見回した。「レイテーク城の部屋とだいたい一緒」とため息をつく。

「本当に軍の人なんですね。……お父様と面識があるってことは、国境防衛に関する役職?」


 世間話のように気楽な口調だが、その眼光は隠し切れていなかった。出方を窺っている。ほんの僅かにでも失言すれば最後、彼女ならどんな手を使ってでも脱走しかねない。



 指先を握る手に力がこもる。くす、とリンナが息を漏らしたのが分かった。

「エルウィが、南部戦線の砦の外で見つかったと聞きました。……閣下。南部戦線の向こうには何がいるんですか?」

 答えられない。目を合わせれば、たったそれだけで一から十まで見抜かれてしまいそうだ。


 顔を上げることもできずに、弱々しく呻く。

「リンナ、頼む……これ以上、なにも知ろうとしないでくれないか」

「知ろうとするとどうなるの?」

「……君を、このさき死ぬまでずっと監視下に置かなくてはならなくなる」

「それって、今と何が違うんです?」


 言葉はなげやりなのに、リンナの声はむしろ優しい響きをしていた。

「閣下。私もう、覚悟はできているんです」

 身じろぎをした拍子に、その肩から艶のある茶髪が胸元に滑り落ちる。椅子の脇に立って両手を繋いだまま、彼女は身を乗り出す。影が落ちる。



「私が死の呪いを作って閣下を殺したら、そのあと私も殺されるのよね?」


 はっと、思わず息を飲む。弾かれたように顔を上げた先で、リンナは驚くほど凪いだ表情でこちらを見下ろしていた。覚悟の決まった眼差しだった。


 唇を動かさずに、彼女が息混じりに語る。

「呪術師が排他されたのは、死の呪いが存在したから。死の呪いを消し去らなければならなかったのは、それが不死の呪いに繋がるから」


 淡々と並べる声が、ひどく恐ろしく聞こえた。

「やめてくれ、リンナ。……それ以上なにも言うな」

 リンナの手に触れる指先が震える。彼女の手は乾いており、ぴんと張り詰めていた。


 黙れと言っているのに、賢くて頭の悪いこの女は、ちっとも口を閉じる気配がなかった。

「やめろ。一生逃がしてやれなくなるぞ」

 低い声で恫喝しても、彼女は一歩たりとも退かなかった。童顔をきりりと引き締め、リンナはついに明言する。


「閣下が、不死の呪いを封じなければならなかったのは、当時、不死の呪いが大きな問題を引き起こしたから。……違いますか?」


 くしゃりと顔が歪んだのは、鏡を見なくても分かった。リンナが眦を下げて、下手な笑顔を浮かべる。


「ねえ閣下。あなたが抱えている問題は、あなた一人を死なせれば解決するものなんですか?」

 たった二十年しか生きていない小さな魂が、まっすぐにこちらを見据えている。

 どうせ終わる命なら、あなたの憂いをすべて取り払いたいのだと、その唇が動く。


「教えて、アルラス……私、あなたを救いたいのに、方法が分からないの」

 潤んだ瞳を真正面から捉えた瞬間、その場に縫い止められたがごとく動けなくなった。

 初めて相見えたあの瞬間のように、形容しがたい痺れが背筋を駆け上がって脳髄へ至る。


 足元がゆっくりと旋回しているような目眩がした。

 やめておけ、と冷静な声がわめき立てる。この女は信用しない方がいい。彼女にはあまりに重荷だ。巻き込んではいけない。これ以上ことを大きくするべきじゃない。


 それなのに、口は勝手に言葉を紡いでいた。

「……城に戻ったら、話したいことがある」

 リンナが目を見張る。一拍おいて、はい、と頷いた表情があまりに嬉しそうなのだ。



 細い手首を片手に掴みなおし、アルラスは空いた手でリンナの髪を耳にかけてやった。

 春らしい薄手の上着は、淡くて白っぽい色をしている。曲がったフードを直してやると、アルラスはリンナのうなじに手を添えたまま、僅かに掌に力を入れて引き寄せた。吸い寄せられるように、リンナが座面の端に膝をつく。


 睫毛の先が触れそうなほどに顔を寄せて囁いた。

「自由がなくなるんだぞ、分かっているのか」

「私、これまでの人生で、今が一番自由ですよ」

 リンナが囁き返して、喉の奥で笑う。

 視線を重ねた、指数本ほどの距離のあいだに、妙に重くて甘ったるい空気が流れる。


「……俺の死後も、君が天命を全うできるよう命じておこう」

「わぁ、ありがたーい……」

 ぎこちない返事に口角を上げて、首を伸ばす。リンナが首を竦めて目を瞑る。呼吸を止める寸前の小さな吐息を感じる。


 ――直後、「あっ!」とリンナが色気のない大声を上げた。


 張り詰めていた糸が、切れるどころか雲散霧消する。急激な変化に、アルラスは目を点にした。

「ごめんなさい、やっぱナシ」とリンナはエビのように仰け反って宣言した。元気に首を振る彼女に、アルラスは絶句するばかりである。


「なんだ。そういう雰囲気じゃなかったのか」

「そういう雰囲気ではありましたけど、すみません、キャンセルで」

「は?」


 あぶないところだった、とリンナが白々しく口笛を吹くのを、アルラスは呆然と眺めていた。


(なんだこの女……)

 先が読めなくて面白いどころか、普通に腹が立つ。

「『危ないところだった』とはどういう意味だ?」

「いえ、それはこっちの話なので……」

「相手に意味の通じないことをしたり言ったりするなら、説明をするのが最低限の礼儀だろう」

「情報の取捨選択も大事ですもん」


 ぷいっとわざとらしく顔を背け、リンナが知らないふりをする。明らかに何かを隠している。

 声を大にして追及しようとして、ノックの音に遮られた。



「事情聴取の準備ができました」

 イーニルが事務的に告げる。リンナの顔に緊張感が浮かぶ。

 エルウィの呪いが解けていることは、言っていない。どのみち数十秒後には分かることである。

 不安げなリンナの背を叩いて、「大丈夫だ」と声をかけた。


「とにかく、君を連れてくれば洗いざらい話すと奴が言っているんだ。君が特別に何かをする必要はない」

 リンナの表情が僅かに改善する。

「心配するな」と、そこまで言って、アルラスは思わず耳を赤くした。柄でもないことを言おうとしている。


「……俺がついているから」

 言い終わるか終わらないかのうちにリンナが盛大に吹き出し、反射的に肩を小突いてしまった。

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