第16話 断片をひろう



 いちばん古い記憶は、母のすすり泣く声から始まる。

 暗くて狭い部屋で、わたしを抱きしめながら、母が泣いている。


 母はいつも「ごめんなさい」とわたしに言う。

 でもたまに、底の見えない穴のように真っ暗な目で、わたしを見下ろすのだ。


「あなたが、生まれさえしなければ」


 そう呟くたびに、母はわたしに謝罪を繰り返し、なお一層ひどく泣く。



 ***


 階下で人がさかんに行き交う気配がして、出てはいけないと言われていたのに、こっそりと屋根裏部屋を抜け出してしまったことがある。


 もし見つかったら父にひどく折檻されるから、誰にも見つからないようにと祈りながら、そっと廊下を歩いたのだ。


 壁に手をついて、耳を澄ませて、一歩一歩、音を立てないように階段に近づいた。


「ほら、ティム。ご挨拶は?」と母の声がした。

「こんにちは」と弟が舌っ足らずに言うと、来客らしき声が「素晴らしい挨拶だ!」と大袈裟に声を上げた。


「確か……今年で四歳でしたか。この間までよちよち歩きだったのに、見ない間に大きくなりましたね」

「わんぱくの盛りで、困ってしまうほどですよ」

 父の声だった。困ったような口調ながら、愛おしさが溢れるようだった。



「そういえば、リンナちゃんはそろそろ八つでしたね」


 いきなり自分の名前が出てきて、わたしはどきりとした。「ああ」と父が小さく声を漏らしたのが分かった。


「まだ、ご病気は治りませんか?」

「ええ、とても人前に出せるような状態ではなく……」

 父がそう答える声を、わたしは呆然と遠くに聞いていた。



 ――病気って、なんのこと?



 ***


 後ろから強く髪を掴まれて、悲鳴を上げる。

「部屋から出るなって言われてただろ」

 乱暴に引っ張られた髪が痛い。降り注ぐ嘲笑に、声が出てこない。


「ほら、父さんに見つかる前に部屋へ戻してやる」

 やめて、と絞り出した言葉が、誰にも届かない。


 兄に掴まれて抜けた髪が、床に落ちる。

 絨毯の上で弧を描いた髪が、視界に入る。


「やめて、お兄さま……」

 あは、と酷薄に子どもの声が笑う。

「馬鹿なこと言うなよ、お前なんて妹じゃない」


 父さんだって、いつも言ってる。兄の声がせせら笑う。


「お前は、母さんと浮気相手の子どもなんだろ?」


 だってどう見たってお前は、うちの人間じゃない。



 ***


 喉元に冷たい手が触れた。

 はっと目を覚ますと、暗闇の中で母と目が合った。

 手が離れる。


 ごめんね、と母が泣いている。その腕に、ひどい痣がある。


 わたしを強く抱き締めて、母が声を殺して泣いている。

「痛いわ」と母の背を叩いても、腕は緩まない。


「あなたは、絶対に、お母様とお父様の娘よ……」

 荒い息の隙間で、途切れ途切れに母が囁く。言葉になりきらない嗚咽で、母の背中が波打っている。


 母の腕は離れない。

 全身で愛情を示しながら、まるで心のどこかで、こんなもの壊れてしまえと願っているみたいだった。






 ***


 大きな手が額を撫でる感触に、意識が浮上する。

「起きたか」

 こちらを見下ろすアルラスの頭越しに、見慣れない天井があった。


「わたし……」

 目を細めながら呻くと、背の下に腕を差し入れて身体を起こされる。


 冷たい水の入ったグラスを手渡しながら、アルラスが顔を覗き込んできた。

「体調が悪いと言って、いきなり倒れてしまったんだ。君の弟の目もあって、一旦俺の部屋に連れてきた」

 素直にグラスを受け取りながら、リンナはぼんやりと頷く。そうだ、いきなり血の気が引いて、立っていられなくなって……。



 頭が回らないまま、アルラスの顔をぼうっと見つめていた。知らず知らずのうちに手が伸びて、その頬に触れる。

(私が、死の呪いを作ったとして、私は、不死の呪いが実在すると知っていて、)

 支離滅裂な思考が、少しずつ収束してゆく。


(この人が危惧しているのは、不死の呪いの存在を知る私が、その呪いを作ってしまうことなのだろう)


 温かい皮膚に手のひらを添えていると、アルラスがくすぐったそうに首を竦めた。

「こら、遊ぶんじゃない」

 手首を掴んで下ろされ、リンナはゆっくりと瞬きをする。



「恐らく、睡眠不足による貧血だな。三日も寝ていなかったんだから、そうなるのも当然だろう」

 寝乱れたリンナの襟元を直しながら、アルラスはてきぱきと告げた。

「思うに、君は少々根を詰めすぎだ。君の崇高な目標はたいへん結構だがな、そのために命を削るような真似をするのは、君の目標にとってプラスにならない」


 未だに夢から覚めきらないような心地で、リンナは黙ってアルラスの言葉を聞いていた。アルラスが何やら話しているが、頭に入ってこない。


 と、アルラスがおもむろに手を挙げたので、リンナは思わずびくりと身体を竦ませて頭を庇っていた。喉の奥で掠れた悲鳴を押し殺す。


 やってしまった、と思ったのはすぐ直後だった。


「リンナ……?」

 怪訝そうに、アルラスが瞬きをする。リンナの頭越しに置き時計を取ったアルラスは、しばらく言葉もなく立ち尽くしていた。

「君は、」



 彼が何かを言おうとする前に、リンナは口の中で一言ふたこと呟いた。頭が冴える。



 がばりと布団を押しのけ、リンナはベッドから足を下ろした。

「まずい、寝過ぎちゃいましたよね! いま何時ですか?」

 室内履きを爪先で探しながら、リンナは明るい声でアルラスを見上げる。置き時計を片手に、彼は戸惑いがちに「もう夜だ」と答えた。


 言われて外を見てみれば、確かにもう宵の口だ。よほど長い時間気絶していたらしい。

「どうしよう、お夕飯は?」

「先ほど、君以外で済ませてきた。君の分もとっておいてあるから、食べられそうなら持ってこさせよう」

「食べたいです」


 頷いて、アルラスが枕元の受話器を手に取った。「温め直してから持っていきます」とロガスの声が漏れ聞こえる。



 受話器を下ろしてから、アルラスは腕を組んでこちらを見下ろした。その視線を受け止めるのが何だか恐ろしくて、リンナはすいと目を逸らす。

「……今のうちに、おふろ入ってきますね!」

「待ちなさい」

 腰を浮かせたところを呼び止められて、リンナはしぶしぶ顔を上げた。座れ、と合図をされて、再びベッドに腰を下ろす。



 膝の上に手を置いて、アルラスを見上げた。彼は真剣な顔つきでこちらを注視したまま、枕元の椅子に深く腰かける。

「リンナ」

 改まって呼びかけて、アルラスは重い口ぶりで告げた。


「以前から思っていたが、君のやり方は正直目に余るよ」

「……私のやり方、とは?」


 何だか、よくない話の気配がした。いつもならフクロウや虫の声、風の音がする裏の森はなぜかしんと静まりかえっていた。身じろぎも躊躇うような静寂だった。


 口を開く前に、彼は僅かに瞳を揺らした。

「君が、自他に対して呪術を使うことに、一切の抵抗を覚えていない点だ」


 リンナは、微笑んだまま一度まばたきをした。首を傾げる。

「私、なにか閣下にご迷惑をおかけしましたか?」

「迷惑をかけるとか、かけないとか、そういう話じゃない」

 まずい、とリンナは内心で呟いた。視線が泳いだ瞬間、すぐさま「リンナ」と厳しく叱られる。


「さっき、何か唱えただろう。目が覚めてすぐはぼんやりしていたのに、いきなり元気になった」

「寝起きがいい人もいますよ」

「君が怪しいのが今回だけなら、俺だってそう思ったよ」

 なあ、とアルラスが肩を掴む。顔を近づいた分だけ、リンナは後ろに仰け反った。


「嘘はつかずに答えてくれ」

「私が閣下に嘘をついたことなんてありましたっけ?」

「絶対あるだろ」

「やだぁ、信用がなーい」

 首をすくめ肩口に顔を寄せて茶化すが、アルラスはにこりともしなかった。


 風が吹いてきて、窓枠をかたかたと揺らす。温かみのある色で揃えられたアルラスの私室の中で、彼だけが青ざめているようだった。肩に触れる手が震えている。

「たとえば、眠気を覚ます呪術は存在するのか」

「ありますよ」

「集中力を高める呪術なんかは?」

「まあ、はい」


 ここまで言われれば、何を聞かれているのか分かる。リンナは朗らかにアルラスの肩を叩いた。


「私がそれらを使っていて、何か問題がありますか?」

 あは、と声を上げて彼の顔を覗き込む。アルラスの顔は蒼白だった。

「いや」と、彼が絞り出すように呟く。


 リンナは心持ち眦を下げたまま、微笑んでアルラスを見上げていた。

「……気味が悪いですよね?」

 言いながら、頭の中で素早く思案する。



 魅了と忘却、どちらの方が良いだろう? 忘却の方がこの場を切り抜けるのには楽だけど、彼が以前からこうした疑いを抱いていたなら、解決にはならない。魅了の呪いで、こちらの言葉をうんと言わせてしまった方が良いだろうか。そうすれば、呪いを解かないかぎり、今後も彼はこちらの言いなりだ。


(でも、それをしたら……)

 リンナは茫漠とした思いでアルラスの目を見た。夜の室内なのになぜか眩しく思えて、すぐに目を伏せてしまう。


(でも、それしかないなら、)

 さりげなさを装って、片手を持ち上げた。口元に手を当てるふりをして、小指を唇に押し当てた。


 言葉を選んでいるアルラスを眺めながら、ふと、彼の言葉が脳裏をよぎる。書庫でのことである。

『君は、呪術を私利私欲のために悪用するような人間ではない』

 本人はもう覚えていないけれど、彼は確かにそう言ってくれた。


 呪文を囁きかけた唇が、動かなくなる。まるで舌を縛られたようだった。

 リンナはひそかに愕然とした。アルラスの言葉が、こんなにも身の内に深く食い込んでいる。

 胸の内に湿った風が吹いたような不安が襲った。


 他人の言葉で呪術が使えなくなるなんて、初めてだ。




 リンナの恐怖をよそに、じっくり熟考したアルラスは落ち着いた声音で告げた。

「気味が悪いとは思わない。今さら呪術を使う小娘が一人ふたり出てこようが、何とも思わん」

 それに、と彼は何気ない口調で続ける。

「君は、俺のことを気味悪がらずにいてくれただろう」


 は、と思わず息が止まっていた。アルラスは柔らかい眼差しでこちらを見ていた。

「気味が悪いとは思わないが、君のことが心配だ」

 肩を掴んでいた手が離れて、目元に親指が添えられる。「隈がある」と言われて、リンナは咄嗟に手を払いのけていた。


「見ないでください」

「おい、いま隈が消えたぞ」

 頬に手を当てて呪文を唱えると、アルラスが咎めるような声を上げる。

「呪術で自分の身体をいじったのか」

「だって、恥ずかしかったから……」

 軽い気持ちでかけた呪術を厳しく追及され、リンナは首を竦めた。


 はあ、とアルラスが深々とため息をついた。隈のなくなったリンナの目元をしげしげと眺めながら、彼は眉を下げる。

「……君がこの三日間、一睡もせずに研究に没頭して、どんなに話しかけても反応がなかった間、俺は恐ろしかったよ」

「それは……」

 指先を絡ませながら、リンナは俯いた。


「眠らないように、集中力が切れないように、自分に呪いをかけていたのか」

 黙ったまま頷くと、アルラスは続けざまに「初めてじゃないだろう。いつからそんなことをしている」と問う。


「いつから、って、聞かれても……」

 ……答えられなかった。彼が何と言っていようと、正直に答えてその目が変わるのが恐ろしかった。

 顔を伏せたまま、恐る恐る目線だけ上げて相手の顔色を窺う。恐ろしいほど真っ直ぐに、アルラスはこちらを見据えていた。



「呪術を使いすぎた人間は衰弱し、下手をすると死ぬことがあると言っていたな」

「それ、よっぽど大きな呪いを使ったときの話ですよ」

 リンナは呆れ混じりに肩を竦めた。そんな極端な例を出して脅そうとしたって無駄である。


「まったく、大袈裟なんだから」

 リンナの茶化しを意にも介さず、アルラスはなおも真剣な口調で続けた。

「君が、疲れた体を誤魔化すために、体力を使って自分に呪いをかける。それが常態化すれば、君は少しずつ衰弱するんじゃないのか」

「でも私、この歳までなんの問題もなく生きてますよ? 体に不調もありませんし」


 心底疑わしい目を向けられ、リンナは不満を込めて鼻に皺を寄せた。

「それは、酔っぱらいが酔ってないと強弁するのと同じだぞ」

「違います。経験と観測に基づく事実です」

 睨み合ったところで、扉が控えめに叩かれた。



 アルラスが返事をすると、そっと扉が開いてロガスが顔を出す。

「お夕飯を持って参りました。お加減はいかがですか?」

 カートを押しながら入ってきたロガスが、リンナに目を留めて微笑んだ。


「ヘレックが、滋養にいいものを作ってくれました。おかわりも用意してあるので、遠慮なさらずに食べてくださいませ」

 机の上に手早く皿を並べながら、ロガスは穏やかな口調で言う。

「旦那様、ちゃんと食べさせてくださいね」

「任せておけ」

「私、そんなに信用ないですか?」


 ロガスとアルラスが顔を見合わせた。言外に『当たり前だ』とでも言いたげな態度に、リンナは思わず口元を引きつらせる。

「信用は、あまりないかもしれないですね」と今度はロガスにはっきりと明言されてしまった。


「勘違いなさらないで欲しいのです。私たちは皆、奥方様のことが心配なだけです」

 どうして心配なのだろう。どうしてそんなに私のことを案じてくれるのだろうと考える。考えているうちに、くらりと目の前が歪んだ気がした。


(これ以上考えちゃいけない……)

 考えてはいけないことは、忘れてしまうに限る。思考を打ち切ろうと、リンナは頭に手をやりかけた。瞬間、アルラスと視線が重なって、手が止まる。リンナの顔色で、呪術を使おうとしたと察したのだろう。アルラスがこちらに手を伸ばした。


 悲しげな目で、そっと手を掴んで下ろさせる。手首に触れた指先の感触が、ずっと消えてくれなかった。

「……今まで見逃してきた俺が悪いのかもしれないな」

 苦々しく呟いた声が、耳の奥でずっと木霊している。



 ***



 温風が頭を撫でる。初めはくすぐったかったのに、慣れると気持ちがよくて、何だかふわふわとしてくる。魔術で起こした風で髪を乾かすなんて、発想すらなかった。

「魔術って、便利ですね」

 あくびを噛み殺したリンナの背後で、アルラスがわざとらしく渋い口調になった。


「うっかり真似しようとするんじゃないぞ。慣れない人間がやると暴風で根こそぎ持っていかれる可能性もある」

「やらないですよぉ、私、魔術の才能ゼロですもん」

 あふ、と堪えきれずにあくびをして、リンナは重い瞼を上下させる。


 眠気に抗おうとするが、大きな手が髪をかき混ぜるたびに目が開かなくなってくるのだ。うとうとと舟をこぎ始めたリンナを覗き込んで、アルラスが笑ったのが聞こえた。


「どうする、自分の部屋まで戻るか」

「うん……」

 頷きはするものの、とてもではないがベッドから立ち上がって廊下を歩いて行ける自信はない。アルラスは一向に動こうとしないリンナを一度抱き上げようとしたが、やめたらしい。


「君の弟に別室行きを見つかったら面倒だからな……」

 髪を乾かしていた風が弱まり、止まる。肩を押されて、促されるがままに体が傾いた。


 頭を支えられながらそっと枕に横たえられ、ますます体から力が抜けてゆく。

 立ち上がったアルラスが、潜めた声で囁く。

「朝になったら起こしてやるから、早く寝なさい」

 瞼ごしに、照明が絞られたのが分かった。けれど彼の気配は遠ざかることなく、ずっと枕元に佇んでいる。


 目を開いて何の用だと問いただす元気もなくて、視線を感じたまま微睡んでいた。



 かち、こちと、柱時計で振り子が揺れている。風が建物の隙間を吹き抜けて、唸りを上げる。


「なあ、リンナ――」

 もう完全に眠ったと思ったか、アルラスは掠れた声で囁いた。


「――呪術研究は、君の命を削ってまで、急がなければならないものなのか?」


 短い一言に責めるようなニュアンスがあった。リンナにはそれが理不尽なものに思えてならなかった。

(……あなたが、私に、死の呪いを作れって言ったんじゃない)


 あなたが、置いて行かれるのが怖いって、寂しいって言うから、私にできるやり方であなたを助けようとしただけなのに。


 あなたが、期待してるって、言ってくれたから。

(私が、ちっとも死の呪いに近づけなかったら、あなたに失望されると思ったから、)



 雨が降り始めたらしい。森の中に降った雨が、遠くでさあさあと音を立てている。

 アルラスの声が響く。


「俺は、君がどうしてそんなに呪術に取り憑かれているのかを、知りたい」



 ゆっくりと、大きな手が規則的に頭を撫でた。その手が頬に触れて、リンナは細く目を開ける。

 視線が重なる。彼は暗い部屋のなかで、じっとこちらを見下ろしていた。


「君のことが知りたい」

 頬を優しく撫で下ろして、彼は静かに瞬きをした。リンナは緩慢な動きで、上を向いていた顔を横に倒す。

 こちらに降り注ぐ眼差しに耐えられなかった。



 だって……と、声にならない呟きが唇をなぞる。


「……呪術がないと、誰も、私を好きになってくれないんだもの」

 舌足らずに呟くと、暗い部屋の中でアルラスが目を見張ったのが分かった。



 ふ、と息を漏らして自嘲する。

 だから、買いかぶりすぎだと言ったのだ。人のために呪術を発展させたいとか、呪術を認めてほしいとか、そんなの嘘っぱちだ。



 頭を撫でる手が止まった。遠くで雨が降っている。

「リンナ」

 呼ばれて、寝ぼけまなこで瞬きをする。


「……自分でも、分かっているんだろう? 自分で認めないから変なことになるんだ。前に君が俺に言ったことと、丸きり同じだぞ」


 何のこと、とリンナはぼんやりとアルラスの顔を見上げた。彼は一瞬たりとも視線を逸らさずに、こちらを見下ろしている。


 彼の唇が動く。

「君がもし呪術なんて使えなくても、俺は君のことが好きだよ」


 その言葉の意味を理解するより先に、目尻からぽろりと涙が零れていた。咄嗟にかぶりを振る。

「嘘です」

 強い口調で告げたのに、アルラスは「嘘なわけあるか」と呆れ顔になる。


(どうしよう、)

 凍り付いたように体が動かない。

 絶望しながら、震える唇で囁く。


「まさか私、知らないあいだに閣下に魅了の呪いをかけてしまったの?」


 だって、そうでもなきゃ、彼がこんなことを言うはずがない。呪いをかけていないのに、私を好きになってくれるひとなんて、ティムのほかにいるはずが……。


 アルラスの言葉を信じたいのに、腹の底でなにかがずっと喚くのだ。――そんな言葉、信じられるはずがない。


「そう思うなら、今すぐここで解呪を試みなさい」

 背に手を差し入れて強く抱き起こされ、リンナは震える手をそっと口元に寄せた。小指に口づける、たったそれだけの動きが、魅了の呪いを解く方法である。


 それなのに、できない。


「いやです」

 涙ながらにふるふると首を横に動かすリンナを、アルラスはずっと黙って見守っていた。

「大丈夫だから、やりなさい。このままでは君も釈然としないだろう」

「やなんです、怖いの」


 全身を震わせて泣きじゃくる。駄々をこねる子どものように否定を繰り返しても、彼は少しも動じないようだった。


「俺の、君に対する感情は、今に至るまでずっと地続きだ。君は俺に呪いなんてかけていない。魅了の呪いにかかっていたら、どこかで齟齬が生じるはずだろう」

「生じないんです。心を操っても、記憶を補間してしまえば、呪いにかかった側は気づけないんです」


 両手で顔を覆い、リンナは嗚咽する。あまりのいたたまれなさに胃が小さく縮こまって、息もできない。


 強情に言い張るリンナに、アルラスの声にも一抹の苛立ちが滲んだ。

「どうしてそう言い切れる」

「だって、やったことがあるんです!」

 悲鳴を上げて、リンナは頭を振り仰いでアルラスを睨みつけた。



 雨音も、風の吹き抜ける音も、何も耳には入らなかった。

 かつての記憶が、大波のように押し寄せる。


 もう何年も前のことなのに、まるで昨日のことのように思い出せる。




「九つのとき、呪いをかけたんです」

 リンナは唇を動かさずに囁いた。


「家族が、私のことを好きになってくれますようにって。あのときは、おまじないのつもりで」




 あの夜は激しい嵐で、荒れ狂う風が屋敷全体を強く揺さぶっていた。大きな雨粒が絶え間なく叩きつけ、滝のように窓を流れ下っていた。

 時おり雷が落ちると、暗い部屋の隅まで、一瞬だけ昼間みたいに眩しく照らされるのだ。


 分厚い雨雲が垂れ込める夜に、順に部屋を回った。握りこぶしで厚い扉を叩いて、声をかける。


 訝しげに扉を開けた父の顔が、一変する。

 不機嫌そうに腕を組んでいた兄が微笑む。

 母が笑ってわたしを抱き寄せる。



 翌朝は、嵐が過ぎて晴れ渡った青空だった。食卓に揃った家族はみんな笑っていた。


 あんなに嬉しかったことは、他にない。

 自分が、崩壊寸前の家族を救ったのだと思うと、誇らしくてたまらなかった。


 呪術には、ひとを幸せにする力があるのだと知った。





 背を撫でていた手が、はたと止まる。「……何だって?」と、アルラスが掠れた声で呟いた。


「だってそうしないと、お母様が、死んじゃうんだもの」

 あの頃、父による母への折檻は苛烈を極めていた。自分のせいで、母はいつも泣いていた。


 母はあの日、遺書を書いていた。



 次第に息が苦しくなり、喉を鳴らしてしゃくり上げていた。リンナは何度も手で目元を拭いながら、切れ切れに言う。

「わたしが悪い子だから、セラクタルタ家に相応しくないから、いつも家族みんな仲が悪くて、だから」


 でも数年もすれば、あのとき自分が何をしたのかも分かる。けれどそのときにはもう引き返せないところにいた。


 リンナは深く俯いたまま、感情のこもらない声で呟く。

「私は、立派な娘にならなきゃいけないんです。家族が誇れるくらい、良い娘に」


 それなのに、どこまで行っても足りないのだ。

 どんなに学問で優秀な成績を修めても、大きな賞金をもらっても、人から評価されても、人を助けても、駄目なのだ。


 胸のうちにぽっかりと大きな穴が空いていて、手にしたすべてが全部そこを落ちてゆく。

 どこまで歩いても、どこにも辿りつかない。


 そんな道を、もうずっと歩き続けている。





 アルラスは声も出ないまま凍り付いている。その蒼白な頬を見上げて、リンナはぎこちなく微笑んだ。

「ごめんなさい、やっぱり、言うべきじゃなかったですね」


 記憶を消してしまおうと、彼の額に手を伸ばす。その手首を掴まれる。彼はしばらく俯いたまま何も言わなかった。顔に影が落ちて、どんな表情をしているのか分からない。


 そうしているうちに、峠を越えたように、冷静さが戻ってくる。リンナは唇を引き結んだまま、掴まれた手を軽く揺すった。アルラスの手は離れない。


「……話してくれて、ありがとう」

 長い沈黙ののち、彼はそれだけ呻いた。それ以上の言葉もなく、ただ抱きしめる。背に回された腕に、強く力が込められる。


「大丈夫だ。大丈夫……」

 どういう訳か、アルラスの声も泣いているみたいに揺れていた。大丈夫、と何度も繰り返しながら、その背が波打つ。



「ティムは何も覚えていないんです。……何も言わないでやってください」

 腕の中で体を縮めて、リンナはそれだけ絞り出した。


 息を飲んで、少しして、「わかった」と彼がしわがれた声で答える。



「君が言ったことが本当なら、俺は、君のしたことを全面的に肯定してやれないよ」

 彼が肩に顔を埋めるのがわかった。体を締め付ける腕がさらに狭まり、これではどちらが縋りついているのか分からない。


「でも君が、君なりに考えてやったことだということも、わかる」

 アルラスが呻く。必死に言葉を選んでいるのが透けて見える口調だった。


「頼むから、俺には、そういうことをしないでくれ。ひとの心を、知らないうちに操るような真似を、もう二度としないで欲しい」


 そんなのは優しさじゃない、と彼が言う。間違っている、と。


「呪術なんてなくたって、君の価値はなくなりやしない。呪術を使わなくたって、君を好きな人はたくさんいる。だから……」


 ずっと、心のどこかで望んでいた言葉のはずだった。


 それなのに、心のどこかで、古い記憶がこびりついたようにうるさく主張し続けている。





 アルラスの腕の中で、リンナはそっと目を伏せた。


 彼は知らないのだ。

 呪術という手段がないと、己の居場所すら守れない子どもがいるということを。


 彼の目に触れるような場所に、自分のような子どもはいなかったのだ。




 暗い部屋、布団の中で目を閉じたわたしを見下ろして、母がささやく――「この子は、本当に私の娘なの?」

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