第17話 分水嶺に立っている



 ふっと、目が覚めた。視線だけを動かして時計を探せば、普段ならまだ寝ているような早朝である。

 白い光がカーテンの隙間から床を照らしているのを眺めながら、リンナは寝返りをうった。


「わ!」

 顔を向けた先の長椅子で、アルラスが窮屈そうに体を丸めて眠っている。その姿を見て、ここが自室ではないことを思い出す。


 思わず声を発してしまったからか、アルラスがもぞもぞと身動きをした。その拍子に、体の上から毛布がずり落ちてしまう。呻きながら手探りで毛布を探すアルラスの姿を少しの間眺めてから、リンナは緩慢な動作でベッドから身を起こした。


 床でくしゃくしゃに丸まっている毛布を拾い上げ、広げてアルラスの体にかけてやる。

 長椅子のすぐそばの床にそっと座り込んで、リンナは頬杖をついてアルラスの顔を覗き込んだ。眉間に皺を寄せて難しい顔をしていたので、手を伸ばして額を撫でてやる。


 しばらくそうしていると、アルラスの表情がふっと和らいだ。規則正しい寝息を立てている彼の顔をまた眺めながら、リンナは昨日のことに思いを馳せる。


 昨晩、膝を抱えて動けなくなった自分を、アルラスは嫌な顔一つせずにずっと宥めてくれた。

 たとえ私が呪術を使えなくても構わないと、何度も言ってくれた。

(きっと、目が覚めたら、私はもう一回叱られるんだろうな)

 馬鹿なことをした、と厳しい声を出すアルラスが目に浮かぶ。ひどく憤りながら、それでもきっと、これからどうすればいいか、一緒に考えてくれる。


 ソファの座面から投げ出された片手を握った。暖かい手の中に指先を滑り込ませて、力をこめる。

 寝ているのを良いことに勝手に手を繋いで、リンナは目を閉じた。


(私、やっぱり、自分がまともな人間だとは思えないんです。いつか、決定的に道を踏み外すって思うんです)

 胸の内でアルラスに語りかける。当然ながら返事はない。


 いつか私は、お世話になった人みんなに泥を塗る。信頼を裏切ることになる。

 いつかわたしの所業が明るみに出てしまったら、誰もが私から離れてゆく。

 いつか私は一線を越える。その一線がどこにあるのか、どれほどの距離のところにあるのかは分からない。

 そういう覚悟を決めている。


(それでも、あなたが一度でも私のことを信じてくれたんなら、私もそれに応えたい)

 越えてはならない魔法の一線を爪先で探りながら、線の向こうにいるあなたに手を伸ばすのだ。



「死の呪いをつくったら、私でもあなたのこと、救えますよね」

 彼がいったいどんな顔で喜んでくれるか、まだちょっとあまり想像ができない。


 手を抜いて立ち上がろうとしたとき、くんと腕が引かれた。手応えがあったのはほんの一瞬だけで、リンナが目を丸くして振り返ったときにはアルラスの手はすでに離れていた。

「……起きてるんですか?」


 声をかけるが、返事はない。リンナは少し首を傾げたが、椅子の背にかけてあった上着を羽織ると、そのまま部屋を出た。



 ***


 もうすぐ春が来そうな頃なのに、早朝の廊下はしんと染み渡るように冷えていた。ほのかに白い息を吐きながら、リンナは窓から中庭を見下ろした。


 少し前に、アルラスが依頼した花屋が来て、花壇にいくつかの球根を植えていった。アルラスはあまり城に人を入れたくないようだから、残りの範囲は自分でやるつもりらしい。

 園芸の本を何冊も購入していたから、あれは一旦はじめたら凝りそうな気配である。


(はやく、お花が咲かないかな)

 お試しだから、と花屋は様々な種類の球根を植えていってくれた。花が咲いたらそれらを見比べて、来年はどれをどこに植えようかって話をしよう。

 どこかの花畑に行って、この城に合いそうな品種を探してみるのも楽しいはずだ。



 庭を眺めながら笑みを零す。そのとき前方から足音がして、リンナは顔を上げた。


「あ、姉さん……」

 カーディガンの袖を引っ張りながら、ティムが目を丸くして立っている。「ティム」と声を上げると、弟は足早に駆け寄ってきてリンナの顔を覗き込んだ。


「体調は大丈夫?」

 頷くと、ティムは眉を下げて深々とため息をついた。

「心配したんだよ。本当は昨日ファランさんと一緒に帰る予定だったけど、お義兄さんのご厚意で、おれだけ泊めさせてもらったんだ」

「……ごめんなさい」


 目を合わせずに答えたリンナに、ティムは腕組みをする。長さの足りない袖から手首が覗くので、城の男性陣の誰かしらから着替えを借りたのだろう。



 それにしたって、まだ他の誰も起きてこないような早朝である。

「早いのね」と首を傾げると、「いつもの癖かな」とティムが苦笑する。騎士学校の朝はずいぶん早いらしい。

「学校は、大変?」

「まあね。でも楽しいこともあるし、もちろんやりがいだってある。昔から目指していた仕事だしね。父さんや兄さんと並べるのも嬉しいよ」

 リンナは黙って口角を上げた。


 父は、騎士団の重役を挙げれば、序盤に名が出るような役職についている。


 長兄はセラクタルタ領にある砦に在中しており、次兄は都にある騎士団本部で国内の魔術犯罪の捜査を行っているらしい。いずれも、騎士団という組織内でエリートに位置する立場である。



「……ティムは、卒業後の配属は、どこを希望するの?」

 できれば安全なところがいい。たとえば各地を巡って講演会なんかを開く広報官とか、式典を執り行う儀仗兵とか。

 祈りながら視線を向けた先で、ティムは精悍な顔立ちをしていた。


「おれは、南部戦線への配属を希望したいと思っている」


 その言葉の意味を理解した瞬間、心臓をつめたい手で一撫でされたような感覚を覚えた。

「なんぶ……」

「うん」

 咄嗟に声の出ないリンナに、ティムが頷く。

 アルラスの脅迫が脳裏をよぎり、一瞬、彼がなにか手を回したのかと思ってしまった。でも、ティムの顔を見れば分かる。この子は本気で南部戦線を目指しているのだ。


「どうしてなのか、聞いてもいい?」

「ごめん、南部戦線のことは外部の人に話してはいけないことになっていて……」

 恐る恐る問うが、ティムは困ったように答えを濁すばかりだった。少なくとも、ティムの現場実習先が件の砦だったことは無関係ではないだろう。


「魔獣を見たの? どんな姿をしているの?」

 ティムは頑として口を割ろうとはしなかった。ごめん、と首を振るばかりである。

 リンナは諦めて肩を落とした。


「我儘いってごめんなさい。言えないことがあって当然よね」

 笑顔で話を終わらせると、ティムは微妙な顔になる。けれど、結局なにも言わずに頷くに留めたようだった。



「そうだ、寒いわよね。部屋に戻ってもいいのよ」

 明るい声で話しかけるが、ティムは動こうとしない。

 彼はしばらく、言葉を選ぶようにこちらを見下ろしていた。


 ややあって、「姉さんはさ」と、躊躇いがちに端を発する。

「昔から、うちの中でも、一線を引くみたいなところが、あったよね」

「それは、」

 リンナは言葉に詰まったが、ティムの口調に責めるようなものはなかった。いつの間にか大人びた眼差しで、微笑んでいる。


「それがどうしてなのかとか、おれにできることはないのかとか、聞きたいことはたくさんあるよ。でもおれは、今の姉さんがここで楽しそうにしているのが見れて、本当に嬉しかった」

 咄嗟に、息ができなかった。胸に込み上げるものがあって、リンナは何も言えずに弟の顔を見上げていた。


「家にいたときとは全然ちがうよ。お義兄さんのこと、本当に信頼しているんだって分かった。少し寂しいけど、でも、安心したよ」


 あの子は何も知らないから、と何度も唱えてきた。幼い弟だと思っていたのに。


 見ない間に大きくなって、これからも見ないうちに大人になってゆく。

 ティムが騎士学校を出て、遠い遠い南部戦線に赴任したら、きっともう滅多に会えなくなるだろう。


 同じように思っているのか、弟の目には、なにか一種の覚悟、けじめのようなものが浮かんでいる気がしてならなかった。



 あたたかい手で柔らかく両手を包まれて、真っ直ぐに視線を重ねる。

 暗い部屋でひとりで膝を抱えていた自分に、手を伸ばしてくれたときと同じように、弟がこちらを見ている。あのときとは違って、硬くて大きな手のひらが触れていた。


「姉さん」

 ほんとうに優しい笑顔で、ティムは言ってくれた。


「幸せになってね」


 リンナはじわりと笑みを溢した。その言葉を疑うほど馬鹿ではない。

「ありがとう」

 そういって手を握り返すと、ティムは破顔した。


「ティム。私、あなたのことがずっと大好きよ」

「おれも、姉さんの弟で本当によかったって、いつも思ってる」


 晴れやかな顔で頷いた弟を、リンナはじっと見上げる。



 そのとき、すとんと、昨晩のアルラスの言葉が腑に落ちた。

『ひとの心を、知らないうちに操るような真似を、もう二度としないで欲しい』

 ティムを守るための呪いなら、いくらでも思いついた。

 心を操って、この子の意志を変えてやればいい。この子を腰抜けにしてやればいい。


 でもそれは優しさではないのだ。



「……身体には気をつけてね」

 たくさん考えて、そんな簡素な言葉が出た。

 元気でね、とその手を強く握る。


 術式を介さない素直な平文で、弟の息災を祈る。

 それでいい。



(でも、ひとつだけね)

 手を離して、リンナはその胸を指先で一度だけ突いた。不思議そうにティムが瞬きをする。

「姉さん、これは?」

「少しだけ傷の治りが早くなるかもしれない、おまじない」


 リンナは口の端をちょっと上げて小首を傾げた。

 弟の表情がぱっと輝いて、「姉さんのおまじないがあれば百人力だよ」と大きく頷く。


「ありがとう。いってきます、姉さん」



 ***


 姉をよろしくお願いします、とアルラスに深々と頭を下げて、ティムは帰っていった。

 ティムの乗った馬車が見えなくなるまで、リンナとアルラスは並んで門扉の前に立ち続けていた。


 普段どおり、しんと静まり返ってしまった木漏れ日を眺めながら、アルラスがしみじみと呟く。

「好青年だったな」

「ご自身の振る舞いの参考になりました?」

「俺の態度が悪いってことか?」

「は……いたい!」

 大きく頷こうとした瞬間に頬をつままれ、リンナは悲鳴を上げた。


「だってほら、『よろしくお願い』されて数分でこの所業ですよ!」

「いつもあんだけ優しくしてるだろうが!」

 顔を近づけて指をさされ、リンナは思わず押し黙る。言われてみると確かにアルラスは優しい気がする。気がするのだが、何だか認めたくないのも事実である。


 リンナは腕を組んだ。

「やっぱり、第一印象が悪すぎ……?」

「今更どうしようもないことを言うんじゃない。あとそれで言うと君も大概だからな」

 顔を突き合わせて睨み合う。直後、どちらともなく噴き出してしまった。



 あー面白い、とリンナは火照った顔を手で扇ぐ。

「今思うと、閣下、まるで別人みたいでしたもんね」

「君はまるで変わらないな」

「なにそれ……私の第一印象って、要は最悪ってことでしょう?」


 む、と唇を尖らせると、アルラスはつと押し黙った。思案するように遠くを見る横顔に、リンナは瞬きをする。


「君を、初めてみたとき……」とアルラスは泳ぐように頭を動かす。


「まるで、初めて会った気がしないような、不思議な思いをしたのを覚えている」


 リンナには、アルラスに会ったとき、そうした奇妙な直感は一切なかった。ただただ愛想の悪い男が来たと思っただけである。

 けれどアルラスの顔があんまり真剣なもので、居心地の悪さについ茶化してしまう。


「あは……私のこと口説いてます?」

「今さら口説く必要があるのか?」

「ん……」

 思わぬ切り返しに黙り込むと、アルラスは呆れた顔をした。そのまま腰に手を当て、こちらをまじまじと見下ろす。


「何に似ているんだろう?」と、不思議そうに眉根を寄せる。


 ざわりと湿った風が吹いて、リンナの首筋を撫でていった。ゆるく束ねた髪が揺れる。視線を重ねたまま、リンナはゆっくりと胸を上下させて息をしていた。


「気のせいじゃないですか?」

 なんだか良くない予感がして、リンナはそう声をかける。アルラスは肩を竦めた。


「そうだな。まあ、つまり、一目見たときから惹かれてたってやつなのかも知れん」

「一目惚れってこと?」

「そこまでではないが」

 肝心なところでかわされ、リンナはため息をつく。素直なんだか、そうじゃないんだか。


 やれやれ、とこれ見よがしにかぶりを振るリンナの鼻先に、人差し指が突きつけられる。真正面からこちらを指さして、アルラスは耳を赤らめて断言した。


「……俺は最初から、わりと君のことが好きだったという話だ。君に初めて対面する前――君が俺に呪いをかける余地はない頃の話だ。ちゃんと分かっているか?」


 予想外の着地地点に、リンナは目を瞬いた。

 また風が吹く。前髪をふわりと揺らした風はあたたかく、柔らかい草と土の臭いをしていた。

(本当に、敵わないわ)

 目を伏せて微笑み、リンナはこっそりと長い息を吐いた。


「城へ戻るぞ」と、逃げるようにさっさと踵を返すアルラスの袖を捕まえる。



「ねえ閣下、まって……」

 袖を指先で摘まんだまま、リンナは空いた片手をそっと口元に寄せた。




 小指に口づける。


 魅了の解呪を行う儀式である。

 そうと悟って、アルラスの目が大きく見開かれる。一瞬、身構えるように肩に力を入れて、唇を引き結ぶ。

 もしもリンナが彼に魅了の呪いをかけていれば、きっと今に顔色が変わる。


 突き飛ばされるかもしれない。追い出されるかもしれない。

 ひどく失望される。見放される。


 リンナは顎を引き、きつく目を閉じた。まだアルラスに異変は現れない。彼はまだなにも言わない。

 三秒ほど経った頃、まぶた越しにゆらりと影が落ちるのが分かった。


 ますます体を縮めた瞬間、全身が苦しいほどに強く抱き竦められた。



 目を見張ったリンナの耳元で、アルラスは特大のため息をついた。

「あー……良かった……」

 心底安堵したようにアルラスが腑抜けた声を出す。恐る恐る顔を上げ、リンナはこちらに体重を預けてくるアルラスの背に手を回した。おずおずと背を叩きながら声をかける。


「……なにも、変わりませんか?」

 呪いがかかっていなければ、解呪をしても何も起こらない。

 アルラスの顔は見えないが、少なくとも気味悪がったり激昂したりはしていない。

「何も変わっていない、なにも」

「ほんとうに?」

「本当だ」


 踵を浮かせて聞き返すと、彼は顔を上げてこちらを睨んだ。

「大丈夫だって啖呵を切ったのは俺だが、それでも怖いものは怖い」

 額に浮いた冷や汗を拭いながら、アルラスがまた深々とため息をつく。


「ちょっと死ぬかと思ったぞ」

「これで死ねるんなら、あと五十回くらいやります?」

「馬鹿。もうやるなって意味だ」

 今後は、軽い気持ちで呪術を使うもんじゃない。額を突かれて、リンナは目を逸らした。


「返事は?」

「……はい」

 厳しい口調で詰められて、リンナは素直に頷いた。


 自分でもアルラスに魅了の呪文をかけっぱなしにした記憶はなかったが、なにせ、その記憶が正確かも怪しいところがある。


(閣下の言う通りだわ。……あんまり、軽々しく使うものじゃないわね)


 心臓は未だに早鐘を打っている。胸を撫で下ろしながら、リンナは肩の力を抜いた。

(よかった……)

 へなへなとその場にしゃがみ込み、膝を抱える。城の外に蹴り出されても仕方がないと思っていた。


 一緒になって膝を折って目線を合わせ、彼は両手をこちらに伸ばす。

 風で顔にかかったリンナの髪をよけてやりながら、アルラスは「うん」と独りごちた。


「『よろしくお願い』されたもんな」

 森に飲まれた街を一瞥した横顔に、一瞬だけ寂しさが滲む。が、次にこちらへ向き直ったアルラスの表情は晴れ晴れとしているようにも見えた。


「これからも、よろしくな」

「何ですか、改まって」

 文句を言いながら、リンナは差し出された手を取った。


「私からも、よろしくお願いします」

 強く手を握ると、アルラスが握り返す。

「……前に、私が一年以内に達成すると言った目標があったの、覚えていますか?」

 その言葉が意味することが伝わったのか、アルラスが笑み崩れる。


「威勢良く殺すって言っていたな」

 面白がるように返されて、リンナは苦笑した。手を引っ込めて肩を竦める。

「……それ、もう少し延びてもいいですか?」

 上目遣いに問うと、彼は勢いよく立ち上がりながら答えた。


「いくらでも待てるから、君の無理のないペースでやりなさい」

 あと六十年くらいなら楽勝、となぜか自慢げである。差し出された手を取って、リンナは腰を浮かせた。

 手を引かれて、勢い余ってつんのめる。それを予期していたように腰を支えて、アルラスは機嫌良く「戻るぞ」と言った。


 手を引かれて門の前まで歩く。黄色い色をした小さな花が、塀の真下にまとまって咲いていた。

 もう春が近づいてきている。



 城門の認証システムに手を当て、リンナは目を細めた。

 城を見上げて明朗に告げる。


「――エディリンナ・リュヌエール。城主の妻です!」


 城門が軋みながら開き、粛然と住人を受け入れる。

 苔むした石の城は、ただ静かにこちらを見下ろしていた。


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