第15話 リンナのわくわく呪術講座・初級編
「リンナは、小さい頃から呪術漬けなのか?」
「そうですね、おれが物心ついたときには、もう……」
「ん? 何歳差だったか」
「四つです。まあ、正直小さいときの記憶なんて、まともに残っているのは六歳くらいからですけど」
「じゃあリンナは遅くとも十歳のときには呪術を?」
「はい」
「……早くないか?」
「早いですね」
ファランに渡すための資料を取りに行って戻ってきたら、アルラスが弟を質問攻めにしていた。
「そんなに気になるなら、私に直接聞けばいいじゃないですか」
後ろ手に戸を閉じながら呆れ交じりで声をかけると、アルラスが腕を組む。
「聞いてもはぐらかすじゃないか」
「だって恥ずかしいんですもん。ところで資料なんですが」
リンナは一言ではぐらかして、紐で綴じた資料をファランに手渡した。
死の呪いを再現するためのプロセスの案を、呪術に詳しくない人間にも分かるよう簡略化して列記した資料である。
人に見られる可能性を考慮して、『死の呪い』という文言は徹底して避けている。任意の呪術を再現する取り組みとしての記述だ。
「なるほど……」とファランが中身をぱらぱらと検め、顔を上げた。
「……ちょっとよく分かんないですね!」
たいへん元気に宣言され、リンナは「ええ!?」と目を剥く。
結構噛み砕いて説明したつもりなのだが、とリンナは腕を組んだ。どうやら、世間では思った以上に呪術のことが知られていないみたいだ。
「わかりました」と、大きく頷く。
「これから、授業をします!」
***
食堂の壁に大きな紙を貼り、リンナは木炭を片手に「さて」と呟く。
「まずは、呪術と魔術の違いについて……」
周囲を見回すと、「はい」と手が上がった。リピテが毅然とした顔で答える。
「生物に対するものが呪術で、無生物を対象にしたものが魔術です」
ほんのさっきまでいなかったはずの顔である。
「リピテちゃん、いつの間に来たの?」
「奥方様の呪術講座、謹んで拝聴させていただきます」
背筋を伸ばした同僚の隣で、ヘレックが申し訳なさそうに一礼する。リピテに引っ張ってこられたらしい。
二人も、まさかすぐ斜め前にいるのが王子だとは知らないのである。
(まあ良い、のか……?)
ファランを窺えば、彼は愉快そうに腕を組んでにこにことしている。アルラスも平気そうだ。この二人が大丈夫なら問題ないだろう。
ごほん、と咳払いをして、リンナは『魔術』『呪術』と並べて書き記した。
「そのとおり、魔術と呪術は、無生物・生物をそれぞれ対象にした、術式制御技術です。この二つはどちらも、かつては同じ『魔法』と呼び習わされてきたもので、時代が下るに従って別々に発展していったとされています」
この辺りは初等教育でも触る内容のはずだが、ティムなどは「へぇ」と初耳かのような反応である。
「術式制御――というように、これらの本質は言葉です。たとえば私がこの紙を貼るため四隅にピンを打ったように、何を、どの順で、どうするかなどを、明確にイメージして表現することが必要になります」
頬杖をついているアルラスに目を向けると、彼は指先をひょいと動かした。机に置かれていたティーポットが独りでに浮き上がり、空いているカップにお茶を注いで回る。器用なことだ。
「おお……」「すげぇ」とリピテとヘレックは戦々恐々とした様子で、どうやら高度な技術らしい。
どうやらリンナには魔術を使う才能がとんとなかったようで、飲み物を注ぐのはおろか、物体を浮かせられるかも怪しい程度である。
それでも、生活に不便はない。
「今でこそ魔術は誰でも使えるものですが、もともと魔術や呪術は、一部の知識階級だけが使えるものだったと聞いています。特別なものだったんですね」
「それと、血筋によるものも大きかった」
何気なくアルラスが補足する。
「だから、今のように魔道具が定着するまでは、強固な貴族政治が根付いていた。魔法を使える家系の人間は貴族階級だったし、まれに親に似ず魔術に秀でた子どもがいると、貴族の養子に取られることもあった」
「今の王家なんかも、元々は魔術に優れた家系だったと伝えられていますね」
アルラスとファランが続けざまに語る。王家ご本人の口から聞くと、何となく反応に困る話題である。何も知らないヘレックなどは素直に頷いているが、二人ともさっきから自分たちの話をしている。
「あ!」とリピテが声を上げて、ティムを振り返った。口元で手を合わせて、目を輝かせて問う。
「じゃあ、もしかして、ティムさんも呪術を?」
「いや、やってないです」
ばっさりと切り捨てられて、リピテが思わずといったように笑う。
少々申し訳なさそうにしながら、ティムはこちらを指し示した。
「うちはみんな、魔術とも呪術とも縁が薄い脳筋一家なんです。だから、こんなに頭が良くて優秀な姉さんは、一家の自慢なんですよ」
「そんなに良いものじゃないわよ……」
まさか堂々と胸を張って肯定するわけにもいかず、リンナはぎこちなく頭を振る。
「姉さんは小さな頃から本当に呪術の天才なんです。小さいときも、うっかり怖い本を読んでしまったおれに、暗闇が怖くなくなる
得意げに語るティムの口をすぐにでも塞ぎたかったが、いきなり弟に飛びかかるのは流石に奇行である。リンナは曖昧に口元に笑顔を浮かべると、「それで」と話を続けた。
「もともと魔術師たちは、紙や石版、あるいは銅板などに、術式を記録していました。それを読み込んで、術者を解することなく発動するようにした機構が、今の魔道具のはしりだったといいます」
魔道具、と紙に書き記して、前を向いたところで、リンナは息が止まるような心地がした。
傍らの机に頬杖をつき、足を組んで、アルラスがじっとこちらを見据えている。
何かを押し殺すような、底の知れない眼差しで。リンナが気付いたと分かっても、一瞬たりとも視線を逸らさない。
無理やり顔を背けて、リンナは脳天気な表情をしているリピテらに目を向けた。
「……じゅ、呪術が、魔術と比べて今の世に定着していないのは、そうした道具の有無だと言われています。あとは、イメージの問題だったり、事件が起こって、規制が進んだせいだとか。そうやって、呪術の使い手は一人もいなくなりました」
ティムが首を傾げる。
「魔術みたいに、呪術を使う道具は開発できないの?」
「呪術は、生物に干渉する術式だから……術者の強い感情やイメージ、あるいは儀式などが必要なの。だから、道具で代用できないわ」
もしその点が解決できたら、呪術の普及も一気に進むはずだ。残念、とリンナは腕を組む。
アルラスの視線が頬に突き刺さる。深く思案しているみたいな、探るみたいな目つきである。
「……なにか?」
ついに耐えかねて、リンナはアルラスに向かって眉をひそめてみせた。腰に手をあてて睨みつけると、アルラスは頬杖から顔を上げる。周囲の視線が向いていることに気付いたのか、その頬ににこりと嘘くさい笑みが浮かんだ。
「いやなに、可愛いと思っていただけだが」
予想外に白々しいごまかしに、返す言葉もなく黙り込んでしまう。しんと静まりかえってしまった室内で、「おい待て、何か言えって」とアルラスの声だけが響いていた。
「何だ、俺が悪いのか」
「はい」
人をじろじろと見ておいて、反省の色もないときた。有罪である。後ろでは声も出ないほどファランが笑い転げている。
実に不服そうにアルラスが長い息を吐いた。
「腰を折って悪かった。続けてくれ」とふて腐れた口調に、リンナは思わず笑ってしまった。
「……あとで、二人っきりのときに言ってくださいね」
せめてものフォローで片目を閉じてみせる。大真面目に頷いたアルラスの横で、弟が死んだような目をしていた。
「話が逸れてしまいましたが」とリンナは改めて一同に向き直る。
「そういう訳で、呪術はだいたい二百年ほど前に、完全に断絶したと言われています。私は学生の頃から、過去の文献等を参照して呪術を再現することを目標に研究を続けており、ゆくゆくは呪術の実用化を目指しています」
簡単な呪術、民間に広まっていた呪術であれば、詳細な情報も残っている。一方で、呪術師と名のつく者が使っていたような、複雑で強力な呪術に関する情報は、ほとんど残されていない。
そうした呪術に関する記載を片っ端から集め、実際に使われた場所、時間帯、気象条件などを確認する。
術者の持ち物、立ち位置などから、呪術を執り行う際の儀式を推定する。
呪術に使われるのは二百年前より更に昔の古語であり、辞書を引きながら呪文を組み立て、幾度となく検証を繰り返しながら術式を再現する。
膨大な手間がかかるうえに、雲を掴むような作業である。
それでも、やると決めたのだ。
「呪術は、生き物に干渉するものです。昔の呪術師は、今で言う医師と同じような役割を果たしていたとも言われています。現代の魔術や医術では救えないものが、呪術で救えるかもしれない」
呪いで人を救いたい。
そう志したのは十年以上も昔、まだ十歳にもならない幼い日だった。
「魔術と同じように、呪術が、生活のなかで誰にでも利活用できるものになってほしい。だから私は、呪術が怪しくて気味悪いものだというイメージを覆したいんです」
陽当たりのよい食堂で、平穏そのものの昼下がりだった。リンナの言葉を、みんなが感心したように聞いてくれている。
「素敵な夢ですね」
間を置いて、ヘレックが呟いた。
「僕も、支持します。技術というのは、人々を豊かにするためにあるものだと思います。偏見にこだわって技術の発展が妨げられるのは、我々誰にとっても不利益です」
はっきりとした口調で告げたヘレックに、リピテが大きく頷く。
「わたしも、そう思います! もっと呪術は注目されて然るべきだと思います。現に、わたしたちは学校で、呪術のことをほとんど習いません。どうしてなんでしょう……」
顎に手を添え、リピテが眉をひそめた。
リンナは顔を背け、アルラスが視界に入らないように目を伏せる。かつて呪術を消し去ったのが王家なら、現代における呪術教育にも王家の息がかかっているはずである。アルラスは黙っているのみで、相槌の一言さえも返さなかった。その表情を確認する度胸はない。
「でも、やはり呪術師と言えば、『死の呪い』ですよね」
リピテが前触れなく呟いた一言に、リンナはどきりとした。ファランとアルラスが同時に肩を跳ねさせる。
「昔の人が、何だか怖いと思った気持ちも、分かります。自分は理解できない技術で、いつでも人を殺せるひとが近くにいるのは、怖いです」
「そうは言うけれど」と、リンナは咄嗟に食ってかかっていた。リピテが目を丸くしてこちらを見上げる。
「魔術でも、簡単に人は殺せるわ。上から重いものを落としたり、口や鼻を水で塞いでしまったり。世の中の大半の人は、魔術の原理のことなんてよく分かっていない。それに、魔術がなくたって、人を傷つけることはいくらでもできるのよ」
確かに、とリピテが頷く。
ティムも大きく首肯した。魔術による凶悪犯罪は、主に騎士団の管轄である。騎士学校でも数々の事例を聞いているだろう。
事実、魔術で人が殺される事件は年にいくつもあるのだ。そして、それに対処するための仕組みが整備されている。
「それなのに呪術だけが、これほど禁忌のような扱いを受けるのが、私はどうしても納得できない」
ちくり、と、頭の片隅を奇妙な違和感がよぎった。以前にも抱いたことのある違和感だった。
束の間、立っている床が消えたような錯覚に陥る。足元が浮いた心地がして、自分がどこにいるのか分からなくなった。
(魔術でも、呪術でも、ひとを死なせるものはたくさんあるのに……)
思索が深く己のうちに食い込んでくる。
(どうして、呪術だけが、こんなに徹底的に隠されるようになったのだろう)
ぐるぐると、視界が大きく渦を巻くようだった。リンナは虚空を睨みつけたまま、手に持っていた木炭を強く握りしめる。
(どうして当時の施政者は、呪術を――死の呪いを、消し去らねばならなかったのだろう?)
かつて、生まれ育った屋敷を出て、馬車の中でアルラスを見たときのことを思い出した。
奇妙に感じたのを覚えている。
ごく普通の人間に見えるこの人が、正体を知ってしまえばもう二度と自由の身にはなれないような、国家機密なのだ、と。
私が正体を暴いたこの人が、優しいこの人が、権力を笠に着て、人質を取って、脅迫をちらつかせてまで守りたかった秘密。
既に死んだとされている、二百年前のひとだ。
人を遠ざけ、傍に置く人間に厳格な時間制限を課し、決してひとに心を許さないこの人の身体に巣食った、呪い。
焦点の定まらぬ視界がふらふらと動いて、アルラスの顔の上でぴたりと止まる。彼は唇を引き結んだまま、表情の抜け落ちた顔でこちらを見ていた。
(王弟ロルタナ・A・アドマリアスは、兄に放たれた死の呪いを、反転魔法で退けた)
そうして彼は不死になった。
残された史実に、明確なレシピが示されている。
顔から血の気が失せている自覚はあった。思わずよろめいて、壁に手をつく。その拍子に、ピンで留めていた紙がずるりと落ちた。壁から外れたピンが降ってきて、手の甲で跳ねて床に転がる。
針先がひっかいた小さな傷口から、目に痛い赤色がじわりと滲む。
視線を向けた先に、床に落ちた紙の記述があった。自分で書いた文字だ。
『呪術は禁忌とされた』
どうして? 魔術だって暴力だって人を傷つけるのに、どうして呪術だけが?
ずっと思い悩んできたことだった。
私には呪術しかなくて、けれど今の世界では呪術は認められなくて、だから呪術をみんなに受け入れてほしくて、……私を認めてほしくて、
手元に影が落ちて、呆然と顔を上げた。
「大丈夫か」
低い声で柔らかく手を取る彼の指先が温かい。
「アルラス」
縋るように、その手を握っていた。傷口から浮き上がった血液が、彼の手のひらを汚す。指先で彼の手首を押さえた。かっと、頭の中心が熱くなる。
生きている。二百年経っても、理を越えて今もなお生きている。
彼が何を隠したいのか、私に気付いてほしくないことは何なのか、ようやく分かった気がした。
今までずっと、薄々分かっていたのに見ないようにしていたことだった。
――死の呪いは、不老不死を実現させるのだ。
生き証人が、リンナの顔を心配そうに覗き込んでいる。
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