3章 知らなくていいこと編

第13話 死の呪いは実在する



「お姉ちゃん、遊ぼう」


 年の離れた弟が、小さな手をこちらに伸ばす。

 どうして、と問う。どうして私と遊びたいの?


「お姉ちゃんのことが、大好きだからだよ」

 真ん丸の瞳で、他意のない無邪気な笑顔で、弟が首を傾げる。



 嘘だ、と直感で思った。

 小指を唇に寄せる。口づける。

 怯えながら弟を見た。


 弟の表情は変わらない。


 短い腕でぎゅっと胸元に抱きついてくる弟を受け止めた。呆然としながら、その背に手を回して抱き寄せた。

 熱を持った体が、はち切れそうに元気な体が、腕の中にあった。


 まっすぐで真ん丸な、自分より小さくて弱い命が、心を寄せてくれている。




 ***


「…………い」

 閉じた瞼ごしに明るい光が射している。

「――なさい、ほら」


 体に乗っている布団が揺れる。せっかく寝ていたのに、不愉快である。リンナは目を閉じたまま、片腕を出して布団を押さえた。

 と、その手の甲をはたかれる。


「起きろ、こら!」

「うう……」

 鼻先まで被っていた布団をがばりと剥がされて、リンナは眉を寄せて呻いた。


「もうちょっと」

「絶対駄目だ」

「やめ……触んないでってば」

「嫌だったら早く起きるんだな」

 ろくに反応できないのを良いことに、鼻をつまんだり頬をこねたりとやりたい放題である。無作法な手の主は、目を開けて確認するまでもない。


 だいたい、こっちだって起きる意思はあるのだ。問題はどうにも目が開かないだけで……。

「旦那様……わたし、分かっちゃいました」

 廊下の方からリピテの声がした。真剣な口調で、彼女が告げる。

「いま奥方様に必要なのはひとつです! ずばり――おはようのチュ」

「絶対に駄目ッ!」


 拳三つほどは背が浮いた。勢いよくベッドから跳ね起きると、リンナは寝間着を手早く整えた。

 片手を挙げて、努めてしっかりとした口調で告げる。

「お目覚めのキッスは不要です。ご覧の通り、完璧な目覚めですからね」

(あぶない……閣下の記憶を封じるトリガーとしてうっかりキスしちゃったから、絶対に唇を許すわけにはいかないんだったわ)

 いきなり訪れた危機に、心臓がばくばくと跳ねていた。リピテにはあとで適当に言い聞かせておこう。そういうことは言っちゃ駄目なのよ。



「……まあ、起きたならそれで良い」

 腕を組んだアルラスが特大のため息をつく。改めて見てみると、普段の朝とは違って、随分とぱりっとした格好である。髪には櫛目が通っており、まるでどこかにおでかけにでも行くみたいだ。


 手早く顔を洗ってくると、リンナは顔を拭いながらアルラスを伺った。

「今日って、何か予定がありましたっけ?」

 また何か忘れていただろうか? 嫌な予感がして、へらりと媚びるような笑顔を浮かべる。

 視線を向けた先で、アルラスの顔が激昂寸前まで赤くなった。


(……まずい)



 リピテが両手で口を塞ぎ、様子を見に来たヘレックはアルラスを見つけた瞬間に耳を塞いだ。窓が震えるほどの罵声に備えて、リンナは心持ち中腰になる。

 が、一同の予想に反して、アルラスの声は静かなものだった。

「……今日は、君の弟が、うちに来る日だが」

「えっ、ティムが?」

 リンナは慌てて卓上のカレンダーを振り返った。おかしい、ティムが来るのは三日後のはず……。


 首を捻るリンナを眺めながら、アルラスが無感情な顔で告げる。

「どうして君の日付感覚が狂っているか教えてやろうか」

「知りたいです」

「君が思っている日付と、実際の日付は何日ずれていた?」

「み、みっか……くらい?」


 目を逸らして答えた瞬間、ごうっと音がするほどの強風が吹き寄せた気がした。

「じゃあ、貴様は最低でも三日間は寝ていないからだな!」

「ひぇ……」

 窓がびりびりと鳴るほどの怒声に、リンナは顔を引きつらせる。


「べ、別に珍しいことじゃないです。それくらいは、学生時代から頻繁に」

「貴様、よくこの歳まで生きてこられたな!?」

「何とかなってましたもん! 今もご覧の通り、ピンピンですよね!?」

 どん、と胸を叩いて宣言すると、アルラスは腕を組んで胸を反らした。心底呆れ果てたように見下ろされ、リンナは思わずたじろぐ。


「……それなら、食事の手配をしていたヘレックとリピテに感謝するんだな。それと、親御さんを初めとした、これまで貴様の奇行を受け入れて支えてくれた周囲の方々にもだ」


「奥方様、もう何日もずっと部屋から出てこないで調べ物をしていたんですよ」とリピテが言う。腹の前で指を絡ませ、彼女は俯きがちに呟いた。


「どんなに扉を叩いてもお返事がなくて、仕方なく旦那様に頼んでお部屋に入らせていただいて、直接声をかけても、まるで聞こえていないみたいで、……わたし、そんな鬼気迫る奥方様の姿が、心配になってしまって」

 にこ、と何とか口角を上げるが、リピテの顔はどこか不安げだった。


「わたし、奥方様に無理をしてほしくありません」

「いまロガスとヘレックは外に出ているが、二人も同じように言っていたぞ」

 腕を組んで、アルラスが高圧的に付け加える。目を伏せたまま答えないでいるのに、彼はずっと返事を待っている。


 だいぶ時間をおいてから、リンナは消え入りそうな声で「ごめんなさい」とだけ呟いた。頬が熱くて、顔が上げられなかった。

 こんなに、周りに迷惑と心配をかけていたなんて知らなかった。


「……私のこと、変だって思いましたか?」

 腹の前で、ぎゅっと両手を握り合わせる。末端から、徐々に体が冷えていくのを感じる。リピテとアルラスが顔を見合わせるのが分かった。

 ややあって、アルラスが大きなため息をつく。


「君に常識がないのは、今に始まった話ではない」

「う」

 真正面から刺されて、リンナは首を竦めた。上目遣いでそろそろと顔色を窺えば、呆れ果てたように片眉を上げている。


「体を大事にしなさいという話だ。俺は、君に長生きしてほしい」

 ぽん、と頭に一度手を置いて、寝起きで乱れた髪を何度か梳いて離れてゆく。


(なが、いき……?)

 頭を撫でられている間、リンナはアルラスの顔をぼうっと見上げていた。何も言えなかった。蝋人形のように固まってしまったリンナに、「寝ぼけているのか?」と彼が呆れ顔になる。

「早く準備して降りてきなさい」

 そう言ってアルラスが出て行くと、部屋にはリンナとリピテだけが残された。



 身支度をしてしまいましょうね、とリピテに言われて、のろのろと寝間着を脱ぐ。

「お召し物はわたしが勝手に選んでしまったのですが、よろしいですか?」

「髪型はどうされますか? 結い上げてみても華やかだと思いますよ!」

 リピテが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。それらに相槌を打ちながら、リンナの眼差しはどこか遠くを見つめていた。


 部屋の隅の暗がりの方へ視線を向けながら、その目が光る。そういえば、考えたことがなかった。


(――呪術で、ひとの寿命を延ばすことはできるのだろうか?)




 ***


「死の呪いとして記録されている事例を総当たりで確認していたんですが、恐らくは複数の呪いが一緒くたに『死の呪い』として残されているみたいなんです」

「ふむ……つまり、死の呪いは複数あるということか?」

「ううん、そういう訳でもないみたいなの」

 遅めの朝食を済ませたあと、食堂で並んで座りながらリンナはかぶりを振った。


「結局のところ、特別な呪文を使わなくたって呪術で人を殺すのは簡単です。血が止まらないよう傷口に呪いをかけたり、心臓の動きを止めたりとか」

 アルラスが顎に手を当てて考える。

「多分、それでは俺は死なないな」と、今挙げた例のふたつはどちらも挑戦済みらしい。

「そうなの。実際、そうした手段で暗殺を試みようとして失敗した記録も多かったです。別の手段で防がれたり、すぐ治療したら治ったり」

 リンナは頬杖をついて、周囲に人がいないことを改めて確認した。その仕草に気づいたか、アルラスが指先で机を叩く。


「この三日間で、『死の呪い』とされている記録を、その症状や立地から分類してみたんです。閣下が過去に収集してくださっていた二〇七件のうち、時系列順に、だいたい半分くらいまでで」

 防音魔法も相まって、しんと静まりかえった食堂に、リンナの声が淡々と響く。


「三件、みつけました。死の呪いと思われるものです」

 アルラスが息を飲んだ。リンナは指を立てて、その特徴を語る。


 他の呪いとは全く違う呪いである。一瞬にして生き物の命を奪う。前触れも、防ぐ術もない。遺体の腑分けをしても以上の一つも見当たらない。


「その呪術がみられた一件目は、北部サンキトラでの家畜の大量不審死。二件目はそれから数日後、隣街で、領主一家が死亡」


 およそ二百と五十年前、国の北部に広がる高原地帯サンキトラにおいて、囲いに入れられていた羊のうち約百四十頭と、牧羊犬三頭が一夜のうちに死んだ。囲いのすぐ隣で眠っていた羊飼いは「羊の鳴き声や犬が吠える声は聞いていない」「異変はなかった」と語り、現場に痕跡は何も残されていなかったと記録されている。


 その三日後、家畜の不審死がみられた位置から馬車で半日ほどの隣街で、領主とその妻、長男夫妻が死んだ。真昼のことであった。使用人も数名が死亡し、生き残った者は「騒ぎはなく、気がついたら全員が死亡していた」と証言している。


「同じ術者だろうか」

「場所も時期もほぼ一緒です。恐らく同一人物だと」

 アルラスの表情が曇った。眉を寄せて、言葉を選ぶようにこちらを窺う。「もしかすると」と、彼が言いづらそうに呟いた。

「死の呪いは、その一人しか使えない代物なんじゃないのか」

 アルラスの頬が青ざめている。リンナは一旦唇を閉じた。まさにその点が、リンナが三日間寝ずに調べ物を続けていた理由だった。


「先の二件から五年が経った頃、遠い南部で同じ呪術が使われた記録が残っています。術者は十三歳の少年で、五年前はまだ八歳。村を出たこともなかったそうです」

 連続した二つの事件とは別人によるものだとみて間違いないはずだ。

 アルラスも納得している様子だったが、一応というように口を開く。


「本当に、その子どもが術者だったのか?」

「はい。記録によれば……」と、リンナはその後の言葉が出てこずに言い淀む。言ってしまえば、彼がどういう反応をするかは分かっていた。


「……記録によれば?」

 怪訝そうに、アルラスが続きを促す。リンナはしばらく躊躇ってから、ちらと彼の目を見た。

「少年はひどく衰弱し、ほどなくして死んだんです。術者の身の丈に余る呪術を使うと、そうなることがあります」


 アルラスは大きく目を見開いたまま、しばらくものも言えないように硬直していた。じっとこちらを見据えている。

「それでは」と掠れた声で呟く。




 と、そのとき、門の前に人が来たことを知らせる通知音が鳴った。どうやら来客の到着らしい。

「迎えに出ましょうか」と声をかけて立ち上がるが、アルラスの反応は鈍い。こちらを見上げたまま、逡巡するように眉を下げている。


「リンナ、」

「そんな心配しないでください! 私は死の呪いを使っても大丈夫ですって」

 強めにアルラスの背を叩いて、リンナはさっさと廊下に歩いていく。

 アルラスはついてこない。振り返れば、椅子に腰かけたまま、彼は迷子の子どものように情けない顔をしていた。


「……大丈夫って、何の根拠があって?」

 不安げに呟く。

「君が死んだら、俺はかなり落ち込むぞ」

「本当に、大丈夫なんですってば!」

 リンナは小走りでアルラスに駆け寄ると、その肩に手を置いた。


「私きっと、呪術を使うために生まれてきたんです。そう思うんです。だから大丈夫なの」


 ぱちんとウインクをすると、アルラスはますます困ったような顔になる。しばらくリンナを見つめてから、彼は小さくかぶりを振った。

「わかった、行くよ」

 そう言って重たげな身のこなしで立ち上がり、こちらを振り返る。その視線がなぜか悲しげで、リンナは当惑して首を傾げた。


「君は、もっと自分を大切にすることを知った方がいい」

 どういうことだろう、とリンナは立ち尽くしてしまった。

「私、また何か変なことを言ったの……?」



 ***


 玄関と正門が見下ろせる位置に、レイテーク城の制御室がある。

「来客の認証をするから、外で待っていなさい」

「はぁい」

 よい返事をして、リンナは半開きの扉から制御室をそっと覗き込んだ。あまり広くはない部屋で、奥に置かれた椅子をぐるりと取り囲むように様々な機材が設置されている。画面がいくつも並び、何やら複雑そうな機械が無数の線で繋がれているのだ。複雑怪奇な一室に、思わず顔が歪んでしまった。



 リンナは、魔術の制御に関してはからっきしである。ずぶの素人も良いところで、魔術自体も学生時代の演習で何度か試してみた程度。才能もなかった。

 今の時代、魔術というのは魔道具などを通して使用するものである。実際の仕組みや術式を理解している必要はない。


 アルラスが雇うのはもっぱら魔術マニアばかりだという。リピテとヘレックもご多分に漏れず魔術にご執心である。

 この部屋に強い関心を示しているのはリピテで、案外ヘレックは制御室には近寄らない。時おりアルラスとリピテが制御室にこもっているのとは対照的に、ヘレックは空き時間に城内の輸送網を見て回っているようだ。

 たまに輸送網の配置や構造が変わっていることがあり、彼がアルラスに許可をもらって城のシステムの改修を試みているらしい。


(私じゃ、魔術の話で閣下の相手はできないもんなぁ……)

 たまに、そのことが寂しく思えることがある。画面に向かって呪文を打ち込んでいる背中を眺めながら、リンナはちょっとだけ眉を下げた。とはいえ、どうしたってリンナの関心は小さな頃から呪術に向きっぱなしなのだった。



(閣下が生まれた頃は魔道具なんて普及していなかったし、魔術には慣れているのね)

 リピテやヘレックの前では隠しているが、アルラスはたまに歩くのが面倒になると直立不動で浮いていることがある。横着して窓は指先ひとふりで開け閉めするし、厨房まで行くのを面倒がって空気中の水をコップに集めて飲んでいたりする。

 最後のに関しては本当に気色が悪いので、リンナは一度としてアルラスが凝縮した水を飲んだことはない。


(呪術は、魔術と違って術者の腕前やイメージ、感情が必要になるから、無生物に呪文を付与して再現することはできない)

 それができていれば、呪術は今の世でももう少し受け入れられていたのだろうか?


 結局は、大多数の人間にとって呪術は得体の知れない代物だから、昔も今も忌避されているのだ。



「リンナ」

 声をかけられて、リンナは恐る恐る制御室のなかに入った。変なスイッチでも触って城が爆発したらどうしよう。縮こまりながら入ってきたリンナを手招きし、アルラスが窓の外を指さす。

「いま門の前にいるのは、君の弟で間違いないか? 名前は?」

 リンナは首を伸ばして窓を覗き込んだ。ファランと並んで、門扉の前に茶髪の青年が立っている。

 ティム、と声を漏らして、リンナは口元を綻ばせた。しばらく会わない間に、また背が伸びたみたいだ。


「弟で間違いありません。名前はティメルツ・セラクタルタといいます」

 リンナが応えると、アルラスは小さく頷いた。傍らのキーボードに向かって素早く入力すると、画面に弟の名前が表示される。


「来客を承認した。ロックを解除したから、迎えに出よう」

 アルラスが立ち上がって、こちらに手を伸ばす。


「ところで、君の弟は勘は鋭い方か?」

「けっこう、ひとの機微にはよく気づく子だと思います」

「なるほど、それは強敵」

 差し出された手に片手を乗せて、リンナはこっそりとため息をついた。


 弟に心配をかけたくないし、今日一日、何としてでも幸せ新婚夫婦と思わせねばならない。

 拳を握り、リンナは意気揚々とアルラスを振り返った。

「頑張りますよ、ダーリン!」

「君のその、仲良し夫婦に対する貧困な想像力は何なんだ?」

 もう少し自然に振舞ったらどうだ、とアルラスが苦笑する。


「まあ、愛妻がそう言っているので」

 リンナの頭に頬擦りをしながら彼が言う。

「俺もできる限り協力する」


 リンナは眉をひそめて「あの」とアルラスを見上げた。

「まだ協力しなくても大丈夫ですよ、ティムが見てる訳じゃないし」


 間髪入れずに強めのチョップを脳天に食らい、リンナは思わず悲鳴を上げた。

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