第5話 公爵閣下の権力濫用講座・初級編


 冷たい独房には寝台がひとつきり。シーツは得体の知れない黒ずみが染みついており、触れたくもない。さっき、足の多い虫みたいな影が視界の端で動いていた。


(もう一秒だってここにいたくない……)

 独房に突っ込まれてまだ十分も経たないが、リンナは既に半泣きであった。


 鉄格子に縋り付き、見張りの警官に向かって叫ぶ。

「私、本当に何も知らないんです! お願いですから、エルウィ・トートルエを探してきてください、私、彼に言われて……!」

「今探させているところだ。見つかるかは分からないがな」

 既に街の外に出ているかもしれない、と素っ気なく返され、リンナは苛立ちのあまり地団駄を踏まんばかりだった。


「どう見たって、こんなか弱い小娘が悪事なんて働くわけないじゃないですか! 博物館にだって、侵入していません。ましてや人を傷つけるなんて、そんなことっ」

 必死に言い募るが、甲高い声が石の壁に反響するばかりである。


 誰かに呼ばれたのか、見張りは牢屋の通路から出て行ってしまった。ひとり取り残されたリンナは、へなへなとその場にへたり込む。



(どうしよう……)

 静かな独房の中にいると、あらためて血の気が引くような思いだった。

 警官らに、リンナの証言を聞こうとする様子は全くなかった。唯一話が通じそうなのは騎士団のイーニルだったが、あれはあれで生半可な言葉では意見を変えそうにない。


 明日には、自分は騎士団本部まで護送されて、『より厳しい尋問』を受けることになるらしい。

 要は、あまり公言できないような手法で行われる取り調べである。想像しただけで体が震えた。

(このまま、私、有罪になって刑が執行されるの?)


 アルラスに連行されたと思えば、数日後には縄を打たれて騎士団に拘束されるときた。厄日続きだ。


 一体私が何をしたというのだろう。打ちひしがれ項垂れながら、本当は自分でも分かっていた。

(私が、考えなしに行動をしたから……)

 両親の顔や、きょうだいの顔が次々に浮かんだ。

 厳しくも優しかった恩師を思う。古代魔術に関する知識を教えてくれた人だった。


(私が、呪術を使って人を襲ったとして逮捕されれば、今まで私を支えてくれた人たちがみんな後ろ指を指されるんだわ)

 きつく握りしめた拳が震える。あまりの悔しさと、どうしようもない己の不甲斐なさに、リンナは身悶えせんばかりだった。

 必死に自分の体を抱いて、息を整える。


(何とかして、潔白を証明しなきゃ……)

 這いずるようにして、寝台に腰掛ける。独房に暖房設備などというものはなかった。長時間の尋問を受けた体は疲弊しきっており、まともに目を開けていることも困難だった。

 天井近くに並んだ窓からは、朝焼けだろうか、赤みを帯びた光が淡く射し込んでいる。それを見ながら、リンナは崩れ落ちるようにして意識を失った。



 ***


 扉を隔てた先で、言い争う声が聞こえた。複数の人間が、声を大きくして何やら揉めている。


 細く目を開けたリンナは、一度大きく身震いした。全身が凍ったようにすっかり固まっている。体を起こそうにも、腕に力が入らず動けない。


 寝ながら泣いていたのか、頬が一度濡れたように張っていた。寒さのあまり、鼻水が出る。きっと顔や髪は酷い有様になっているだろう。シーツに頬をつけたまま、ぼんやりと独房の壁や床を眺める。

 浅い呼吸を繰り返しながら、いつのまにか朝になっていたのだと気づく。

 何時間寝ていたのかは分からないが、独房の中はすっかり明るくなっていた。



 音を立てて扉が開かれた瞬間、それまで遠く聞こえていた喧騒が、雪崩を打つように通路へ響く。何人もの足音が、ばらばらと不規則に近づいてくる。

「お待ちください! 彼女は本件の重要参考人で……」

「あれは、私の妻です。口出しをしないで頂きたい」

 いくつもの足音の中でも、一際目立つのは革靴の硬い足音だった。規則的で、強い意思を感じさせる歩調である。


 長い影が見えて、すぐにその主が姿を現した。五、六人の警官の制止をうるさそうに振り切りながら、独房の前でぴたりと足を止める。

「それとも、何だ? ここの警察は王家を敵に回したいのか」

 冷ややかな声で放たれた一言に、警官らは水を打ったように静まりかえった。



 呼びかけようとして、彼をまともに呼んだことがないことに気づく。やっとの思いで「閣下」と一言呼びかけると、声は思ったより弱々しく響いた。


 アルラスは警官を睨みつけるのをやめて、ゆっくりとこちらを振り返った。

 心配してくれているのかと思った甘い考えを、すぐに撤回する。直視するのも憚られるような恐ろしい表情であった。


「……一晩中探したぞ」

(まずい……)

 どう好意的に受け止めても、アルラスが激怒しているのは火を見るより明らかだった。一晩中探したのが嘘でないのは、彼の疲れ果てた表情を見れば分かる。


 体を起こしたいのに、腕に力が入らない。寝台の上で身動きしないリンナをしばらく見下ろしてから、アルラスは傍らの警官に向かって顎をしゃくった。

「開けろ」

 警官は咄嗟に拒否するような素振りを見せたが、アルラスに一睨みされて鍵を取り出した。


 腰を屈めて独房に入ってきたアルラスが、ちょっと考えてから外套を脱ぐ。まだ体温の残る外套でくるむように抱き上げられ、リンナは何も言えずに肩に頭を置いた。


「この馬鹿、今度は何やった」

 小声で毒づいたアルラスに、リンナは掠れた声で「ごめんなさい」とだけ答える。


「調子が狂うな」と不本意そうに呟いて、アルラスはさっさと独房を出た。



 通路へ出れば、大勢の警官がこちらを睨んでいる。しかし、誰一人として近づいて来ようとはしない。激しい怒りの渦巻く空間を、アルラスは平気の平左といった素振りで通り抜けてゆく。


「何したんですか……」

「権力の濫用だ」

 当然のように言ってのけたアルラスに、思わずため息が漏れた。


 何を言っても証言を信じてもらえない状況は、思っていた以上にリンナの矜持を傷つけていた。ここから出られるなら、どんな手段だって構わないと思うほどには。


「――お待ちください!」

 その矢先、行く手から大股で近づいてくる一団を見て、リンナは体を縮めた。

「その者は、五人の尊い人生を奪った殺人鬼の可能性があります。疑いが晴れるまでは、釈放する訳にはいきません」

 昨晩の取り調べの際にもいたイーニルである。仮眠を取っていたところを叩き起こされたか、右頭の髪が跳ねている。その背後には年の若い騎士を三人ほど帯同しており、夜間に本部から派遣されてきたのだろう。


 彼女の剣幕はただ事ではなかった。鋭い眼光がアルラスとリンナを順に射貫く。見られただけでも穴が空きそうだった。


「俺の知ったことではないな」とアルラスは悪びれる様子もなく言い放つ。

「どんな容疑がかけられていたとしても、エディリンナがそのような犯罪を犯す人間ではないと知っている。それに、彼女は俺のただ一人の伴侶で――愛する人だ」

(このひと何言ってんの?)


 にわかには信じがたい発言が耳に入ってきて、リンナは胡乱な目を向けた。見れば、アルラスは実に嘘くさい精悍な眼差しでイーニルを見つめている。

 あまりにも嘘すぎるだろうと思うが、案外まわりはアルラスの言葉自体は疑っていないらしい。



「それでは、あなたは、ご自分の奥方のために、今回の事件のことを揉み消せと仰りたいのですか」

「いかにも。上手にやってくれたまえ」

 傲岸不遜な態度で頷いたアルラスに、騎士らの表情がくしゃりと歪む。


「貴様ッ……その言葉を、今も病院で目覚めない被害者とそのご家族の前で言えるのか! 四肢に重大な後遺症の残った職員が何人もいる事件に対して、そのような……!」


 飛びかからんばかりに前のめりになった上官を、すぐ後ろに控えていた年若の騎士が咄嗟に押しとどめた。

「駄目です、イーニル隊長!」

「放せ、どんな処罰を受けても構わない! この男、一発殴らねば気が済まない……!」

(その気持ちは、正直分かるわね)

 頭を浮かせた拍子に、イーニルと目が合う。冷静さをかなぐり捨て、今にも噛みついてきそうな目つきでこちらを凝視していた。

 物申したいことは多分にあるが、彼女は彼女なりの正義感で動いている人なのだと悟る。その瞬間、何かがすとんと胸に落ちた。



「――私が、治療を試みてはいけませんか」


 考えるよりも先に言葉が出ていた。リンナは一度咳き込んでから、アルラスに合図をして床に立つ。膝からかくりと力が抜けて、咄嗟に隣の袖を掴んで立ち直った。

 背後では、アルラスが筆舌に尽くしがたい渋顔になっている。叱られる内容が増えたと思いながら、リンナはよろめきながらイーニルに歩み寄った。


「は……?」

 呆然と呟くイーニルに向かって腕を伸ばせば、彼女とその部下たちは怯えるように一歩後じさった。


『逃げないで』

 短い呪文を囁いて、リンナは薄く微笑んだ。騎士たちの足取りがぴたりと止まる。

「なッ……!」

 足が床に張り付いたまま動かない騎士たちの眼前まで歩いて、指を鳴らす。術が解けた途端、彼らは一斉にリンナから距離を取った。


 リンナは両手を肩の高さに上げ、怪しいことはしないと表明した。できるだけ賢く見えるように語る。

「病院にいる患者を、私にも見せてください。呪術によって意識が戻らないのなら、それを戻す手段もまた呪術の範疇だわ」

 肩越しにアルラスを一瞥してから、リンナはイーニルをひたと見据える。


「――私、公爵家の嫁なんです。いいから、はやく言うことを聞いてください」

 特大のため息がリンナの言葉を黙認していた。



「そういうことだ、便宜を計ってくれ」とわざとらしくリンナの肩を抱いて、アルラスが顎をしゃくる。

 五本の指がぎちぎちと肩に食い込み、正直痛い。放してくれないかと視線を向けると、アルラスが目を細めた。


「治せるのか」

「治したい、です」

 疑うようにアルラスが首を傾げた。リンナは顔を伏せて呟く。

「……呪術は、人々から迫害を受けて消えていった技術だと聞いています。現に、呪術は恐ろしいものと思われて、未だに忌避されています」

 リンナを遠巻きにする騎士らを眺めて、彼女は曖昧に微笑んだ。数々の厳しい訓練を乗り越え、誇り高き騎士という職に就いた人間でも、呪術は恐ろしいのだ。


「でもそれは、皆が、呪術のことを知らないから恐ろしいんです。呪術は、人のために作られたものです。どんな技術だって、本来は、より良い生活のために発展してきたはずです」

 リンナは指先に髪を絡めながら、厳かに呟く。

「呪術はひとを救います」

 ――私は、それを証明したい。



 決意を込めて告げたリンナに、アルラスが半目になる。

「……そういう崇高な思想は、自分の行動を見つめ直してから言え」

「いたい!」

 強めに額を弾かれ、リンナは涙目になって悲鳴をあげた。


 そのまま人差し指で何度も額を突きながら、アルラスはねちねちとした口調で語る。

「考えてもみろ、今のところ貴様がやったことと言えば、俺に自白の呪いをかけて取っ捕まり、俺に催眠かけて脱走したあげく、何だか知らんが警察に逮捕されて独房で泣いていただけだぞ。呪術の社会的地位の向上も結構だが、まずは自分の身を守る方が大事じゃないのか」


 図星すぎて耳も痛い。すっかり何も言えなくなったリンナを見下ろして、アルラスが目一杯ため息をついた。

「良いか――考えなしに、相談もなしに行動をするんじゃない。説明をしなさい。もし何か起こったとして、必要だと思えば俺の名前を出して構わないから」

「でもそれって、他人の威光を振りかざすみたいで何かイヤ、」

「この大馬鹿」

 また額を中指で弾かれて、リンナは額を押さえてのけぞった。


「貴様がどんな窮地に陥ろうと俺には関係ないがな、貴様が騎士団に捕まり拷問にでもかけられて、俺のことをぺらぺら喋りでもしたら、俺が困るんだ」

 分かるか、と耳打ちされ、リンナは首をすくめた。

 颯爽と助けに来てくれたと思ったらこれである。



 イーニルに向かって顎をしゃくり、「そういうことだ、便宜を図ってくれ」と偉そうな口調で言い放つ。

 アルラスの言葉を受けて、心底嫌そうな顔のイーニルが部下に何事か囁いた。年若の騎士が小走りで別室へ向かうのを見送ってから、彼女は実に不本意そうに通路の先を指し示す。


「……承知しました。被害者のいる病院へご案内します」

 全く疑いを解いていない目つきで睨まれ、リンナは首を竦めた。

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