第4話 呪術とは人を殺す魔法である
臨時休館、と記された看板を前に、リンナは肩を落とした。
博物館で時間を潰そうと思ったのに、やっていないらしい。
「今朝ここを通りがかったときは、こんな看板はなかったぞ」とアルラスが首を捻る。
博物館の門扉はかたく閉められており、開く様子はない。警備員に聞いても「臨時で休館しています」以外の情報は出てこなかった。
「何かトラブルでもあったのか?」
「さあ……」
客の少ない喫茶店の隅で、リンナは深々とため息をついた。
「あの博物館では、今月の頭から古代魔術の特別展が開かれているんです。見たかったんですけど」
「休館なら仕方ない、か……」
落胆を隠しきれないリンナに、アルラスは言葉に迷っている様子である。しばらく迷ってから、自身の胸を指して言う。
「……ここに世界にひとつだけの古代魔術の遺物があるから、それで満足できないか」
「あー……」
認めるのは癪だが、正直にいえば、アルラスはそんじょそこらの展示物よりよほど珍しい。だいぶ興味を引かれる存在なのは確かだった。
店主は裏の厨房で忙しなく作業をしているようで、扉ごしに食器を片付ける音が聞こえている。他にも客は二組ほどいるが、一組は遠く離れた席だし、もう一組は自分たちの会話に大盛り上がりだ。
背の高い観葉植物に隠れて、自分たちの会話や姿に注意を払う者は誰もいない。
行儀悪く頬杖をついて、じろりと相手の顔を見上げる。壁を背にして姿勢良く座っているアルラスは、やや緊張した面持ちでこちらを見返してきた。
どこからどう見ても、愛想が悪いだけの普通の人間である。
「うーん……」
試しに手を伸ばして頬に触れてみるが、はりのある若い皮膚が指を押し返してきた。二百歳という年齢を感じさせない肌つやだ。
「どういう仕組みなのかしら……」
一旦アルラスの隣に移動して、リンナはまじまじとその顔を観察する。髭の剃り跡を発見して、首を傾げた。
「髭とか、髪の毛とかは生えてくるんですか?」
「生える」
「食べたものは?」
「数時間後に出てくる……こんなこと言わせないでくれないか」
厳しめにたしなめられ、リンナは首を竦めた。
(聞いた限り、体の時間が止まっていたり、状態が固定されているわけじゃないんだわ)
考えながら、リンナは何の気なしにアルラスの手に目を留めた。手を伸ばして手のひらを下から掬い上げると、手首を上向けさせる。
親指で血管の位置を探り、指の腹を押し当ててみる。
「えっ、速い!」
皮一枚隔てた先で、血管が暴れ狂っている。全力疾走の直後くらい激しい脈拍に、リンナは仰天してアルラスの顔を見上げた。
口の脇に手のひらを立て、顔を寄せてささやく。
「こ、これが、呪いの効果なんですか……?」
アルラスはしばらく苦々しい表情で顔を背けていた。ややあって、吹っ切れたようにこちらを振り返る。
「……馬鹿者、こんなに手首サワサワされたら、誰だって脈拍の一つやふたつ速くなるだろうが!」
「ええ……」
いきなり叱りつけられ、リンナは引き気味になる。「まったく、最近の若者は」とアルラスは腕を払いのけてしまった。
「それを飲み終えたら、今日はもう大人しく宿に戻るべきだな」
そろそろ飲みやすい温度になってきた紅茶を見下ろして、リンナは素直に頷いた。
***
日が暮れて六時前。
寝室がふたつと、広々としたラウンジ、ベランダ、その他もろもろの設備が揃ったホテルの部屋は、たいそう豪華である。夕食は部屋に運んできてもらう手筈になっていた。夕食まではまだ少し時間がある。
寝室の扉を細く開けて、リンナは顔だけを覗かせて左右を確認した。アルラスの気配はなく、恐らくはもう一つの寝室で休んでいるのだろう。
(……今のうちに抜け出せそう)
移動用の小さな鞄を肩にかけて、彼女はごくりと唾を飲んだ。鞄の中に手を突っ込み、ふたたび例の銅板を取り出す。
エルウィが落としていった呪文札である。
アルラスには寝室で休むと言って、ホテルに戻ってからリンナはずっとこれを解読していた。
解読した結果、呪文札は精巧な模造品であることが分かった。文法に、当時に使われていたものとしてはあり得ないような誤りがある。
学術的に価値があるものではなく、最近になって作られた複製だろう。
(これを返すだけ返して、この機会に、エルウィとは完全に縁を切れば良いんだわ)
そう決意して、リンナはそっと寝室から抜け出した。
抜き足差し足で玄関へ向かい、扉に手を伸ばしたときだった。
「何してる?」
「うわ!」
すぐ背後から声をかけられ、リンナは拳ふたつ分ほどは飛び上がった。見れば、気づかなかったのが不思議なほど近くで、アルラスが腕を組んで立っている。
(なんでバレたのよ!)
内心で焦りながら、リンナはへらりと作り笑いを浮かべた。
「ちょっと、か、買い忘れたものがあって」
「そうか、分かった。少し待っててくれ」
即座に頷いて、アルラスは部屋の中にとって返そうとする。その袖を咄嗟に捕まえて、リンナは首を横に振る。
「えっと、あの〜……そうだ、下着を買い忘れたんです! だから、流石についてこられると、恥ずかしいというか」
「店の前で待っていればいいんだろう?」
(なんて徹底した監視!)
絶対についてくるつもりのアルラスに、リンナは内心で歯噛みした。
こうなっては仕方ない。
実用的な呪術の手順は、いくつか頭に入っている。
……一度指を鳴らして、とんとアルラスの額を人差し指で軽く突く。
「まさかっ」と物わかりのよいアルラスが目を見開いたが、彼が抵抗するより早くリンナは囁いた。
『しばしの眠りを』
がくりとアルラスの体から力が抜けた。倒れ込んできたアルラスの肩をやっとこさ受け止めて、慎重に床へ寝かせておく。
「すみません、すぐ戻るので!」
睡魔と戦っているアルラスが、必死に頭を起こした。言葉にならない呻き声とともに手を伸ばしてくるが、だいたい罵倒のニュアンスである。
寝かしつけるようにその額を何度か撫でてから、リンナは勢いよく廊下へ飛び出した。
***
(……エルウィは、まだ来ていない……?)
指定の時刻より五分ほど遅れて橋へ到着したリンナは、肩で息をしながら周囲を見回した。
小洒落たデザインの街灯が等間隔に並び、熱を発さない魔法灯の光が川面に写っては揺れている。夜の静かな街並みに、せせらぎと街路樹の葉擦れの音ばかりが聞こえていた。
慌てて出てきたせいで上着を忘れたことに気づく。リンナはふるりと身震いした。
人通りはまばらで、ときおり観光客と思しき通行人がはしゃいだ声を上げて通り過ぎるばかりである。
(早く戻りたいのにな……)
早くしないと、眠りの呪いが解けたアルラスが怒り心頭で自分を探しに来るだろう。彼が目覚める前に戻っても、どのみち叱責は免れないが。
考えながら、どうして自分があれほど頑なにアルラスの同行を拒んだのか不思議になってくる。
(事情を話せば、遠くから監視はしても口は挟まずにいてくれたかもしれない)
もし事情を話して駄目でも、状況は大して変わらなかったはずだ。
(帰ったら、ちゃんと謝らなきゃ……)
鞄の紐を握りしめながら項垂れたとき、橋の反対に立っていた男が橋を渡り始めるのが見えた。
明らかにこちらへ近づいてくる人影に、リンナは瞬きをして顔を上げる。
相手はエルウィではなかった。くたびれたジャケットをだらしなく羽織って、背を丸めながら歩いてくる姿からは、粗野な印象を受ける。
「例の呪文札を持ってくる運び屋ってのは、あんたか?」
「え?」
眼前に立つやいなや、男が不躾に問うた。戸惑い、リンナは半歩下がって距離をとる。
「あの、私、エルウィに会うために来てて……彼のお知り合いですか?」
目の前の男から漂ってくるのは、煙草とはまた異なる妙な煙の臭いだった。直感で、あまり関わるべきでない人間だと悟る。
エルウィは、今はこんな連中とつるんでいるのだろうか?
「エル……? 知らねぇよ、俺はただ、呪文札を回収しにきただけだ。姉ちゃん、例のブツを持ってるんだろ」
さっきから鞄を覗き込んでいるのは知っている、と男は片手を出したまま動こうとしない。
事情は分からないが、呪文札のことを言っているのだから、相手もエルウィに言われてここに来ているのだろう。
さっさと呪文札を渡して、この男からは離れた方が良い。
「わ……分かりました。これ、エルウィに返しておいてください」
鞄から呪文札を取り出すと、男はひったくるようにそれを回収した。目の高さでまじまじと観察し、「どうやら本物のようだな」と呟く。
(それ、模造品よ)
彼はこの呪文札を貴重なものだと勘違いしているようだが、実際にはよくできた贋作である。しかし、そんなことを教える義理もない。
リンナは「それでは」とだけ告げて踵を返そうとした。
「動くな!」
「はっ?」
黒光りする銃口を突きつけられたのは、直後のことだった。
気づけば、橋の両岸には大勢の警官が並んで道を封鎖している。彼らの表情は一様に険しく、何人もの警官が銃を構えてこちらを睨んでいた。
「な……なに?」
咄嗟に両手を上げて、リンナは後ずさる。
最も近くにいた警官が、威圧的な声で宣言した。
「博物館への侵入、および窃盗容疑で、貴様らを連行する!」
「侵入……窃盗!?」
意味がわからず悲鳴を上げたリンナの横で、呪文札を受け取った男は脱兎のごとく走り出した。
橋の上へと駆け出したかと思うと、欄干を跨いで川へと飛び込む。あっと声を上げたリンナの眼前で、男は大きな水しぶきを上げて姿を消してしまった。
男の決死の逃亡もむなしく、三秒後には彼を含んだ水の球体が川から上がってきた。
警官の真ん中に下ろされ、すぐに確保された男を眺めながら、リンナは手際の良い魔術に舌を巻く。
それから、リンナはすぐ横にいた警官に声をかけた。
「あの、すみません、何かの勘違いです。侵入とか窃盗とか知りません、私はただここに来いって言われて……なんでェ!?」
無慈悲に手錠をかけられ、リンナは声を裏返らせて叫んだ。
手錠をかけた警官が、部下に合図する。
「連行しろ」
「ちょっと待って、本当に何が何だか……」
反論を試みるが、聞き入れてもらえる様子はなかった。
あっという間に警官に取り囲まれ、乱暴に背中を押して歩かされる。
閑静な夜の街に、あっという間に野次馬が集まってくる。好奇の目がいくつも突き刺さり、いたたまれなさに顔も上げられなかった。その仕草がまるで本当の犯人のように見えると分かっていても、耳のあたりが熱くなる。
問答無用でひっ捕らえられたリンナは、ほとんど突き飛ばすように馬車へ押し込まれ、なすすべもなく連行されたのだった。
***
尋問室には、鉄格子の嵌められた小さな窓ひとつしかない。複数人の警官が周囲を取り囲み、威圧的にこちらを見下ろしている。
「……ですから、私は知人に言われて、あの橋にいたんです。その知人とは昼間にたまたま会って、少し話をしただけです。そのときに彼が呪文札を落としていったから、届けようとしました」
自分では理路整然と話しているつもりなのに、この手応えのなさは初めての経験だった。
「ふーん」と向かいに腰掛けた歳若い警官は興味のなさそうな顔でメモを取っている。その内容の曲解ぶりといったらない。
「待ってください、その記録はおかしいわ。それじゃまるで、私が共犯者みたいなっ」
メモを指さして抗議したリンナに、警官が鼻で笑う。
「そもそも、偶然巻き込まれた一般人はあれを『呪文札』とは呼ばないんだよ」
「え?」
そうなの? と周囲を見回すが、答えてくれる者はない。
「――犯人は、博物館にいくつも保管されている呪文札の中から、最も価値の高いこの品を的確に盗んでいきました。犯行グループの中には古代魔術に詳しい人間がいると、かねてから推測されていた」
それまで黙って聞いていた警官の一人が、背後で口を開いた。女の声だった。リンナは眉を上げて耳をそばだてる。
「エディリンナ・セラクタルタ。アールヴェリ大学卒業、同大学の研究院に進学して、古代魔術――特に、呪術の実用化に向けた研究を行っていたそうですね」
さらりと告げられた内容に、リンナは体ごと振り返った。
「私のこと、調べたんですか」
険しい口調で睨みつけると、相手は口の端だけをちょっと持ち上げて冷笑した。
三十路ほどの女で、麦わらのように色の薄い金髪を顎の高さで切り揃えている。面長で背が高く、厳格そうな雰囲気があった。
彼女は細い顎を持ち上げて、冷淡な表情でこちらを見下ろしていた。
その姿をよく見て、女が警官ではないことに気づく。
一人だけ異なる形をした制服と、胸の勲章、肩から垂れる飾緒。
(騎士団の上層部だわ)
リンナは密かに目を見開いた。そういえば、父から聞いたことがあった。騎士団本部に所属する少佐のなかに、実力一本でのし上がってきた叩き上げの女騎士がいるとか。
「イーニル少佐、ですね」
「おや、私もずいぶん有名人になったみたいですね」
表情を変えないまま、しかし茶目っ気のある仕草で、イーニルが両手を広げる。しみ一つない白手袋を睨みながら、リンナはじっと無言で考えこむ。
(……普通の窃盗事件で、騎士団が動くことはない)
厳密には異なるらしいが、騎士団は警察の上位組織である。
そこらのチンピラが博物館の呪文札を盗むだけで、騎士団のお偉いさんが来るはずがない。
「待ってください。この事件って、博物館に侵入した人が、呪文札を盗んだだけですよね?」
思わず腰を浮かせると、両側から肩を掴んで引き下ろされる。
「いいえ?」とイーニルは目を細めた。
「警備員が交代する昼の時間を狙って、犯人は博物館の保管庫に押し入りました。その際、犯人を止めようとした警備員六名が、業務に支障が出る程度の怪我を負いました。彼らは誰も犯人の顔を見ておらず、年齢、性別はおろか、人数さえも分からないと言っています」
静かな語り口を聞いているうちに、きぃんと耳鳴りがするような気さえする。息を止めて、リンナは女騎士の顔を見上げた。
イーニルは平坦な口調で続けた。
「加えて、三名の学芸員、二名の警備員――計五名が、今も意識不明のまま入院しています。医師は、原因は不明で、再び目覚める保証はない、と。その五人は、恐らく犯人にとって不都合な何かを見たと推測されます」
薄い表情は、彼女が怒りを必死に押し殺している裏返しなのだ。そうと気づいて、背筋に嫌な予感が走る。
「彼らの人事不省は何らかの魔術によるものです。しかし、現代魔術は人の意識を奪うことなどできません。魔導士の資格をお持ちのエディリンナ嬢なら、どういうことかお分かりでしょう」
何を言わせようとしているのかは分かった。けれど、それを口にすることは、まるで自白も同然の行いである。
イーニルは無言で、リンナに答えを迫っている。リンナが解答を出すまで、いくらでも待ち続けるような表情だった。
答えようとして、喉が乾燥で張りついたようになって声が出なかった。いちど唾を飲み、リンナはか細い声で答える。
「……生物の状態に影響を与えることができるのは、呪術だけです」
実用的な呪術の研究を専門にしているのは、この大陸でリンナくらいのものだった。
その段になってようやく、リンナは自分が大変な状況に置かれていることを悟った。
はっと息を飲んで見回せば、向けられているのはまるでおぞましいものを見るような、軽蔑の眼差しである。
気味が悪い、と誰かが吐き捨てる。
――呪術はすでに廃れた技術である。
自白の呪文、服従の呪文。死の呪い。
他人の意識や身体を術者の思うがままに操る技術を持った呪術師たちは、いつしか忌避され、嫌悪される存在になっていったのだという。
(きっと、当時の呪術師たちも……)
リンナは呆然と首を巡らせた。目が合えば、咄嗟に顔を背ける者もいる。得体の知れないものから目を逸らそうとするように。
(……きっと、こんな風に、石を投げられていたんだわ)
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