第33話 君を、君を、君を
「ああ、そうだ。君がいなければ、私は強く強くそう願った。そもそも私は
まるで今から来る嵐の前触れのように。
もう嵐は去ったはずなのに、冷たい雨が降っているかのように感じた。それは矢上の心の中に降っている雨に
矢上は抑揚のない声で答える。まるでいまから来る嵐の前触れのように。
いつの間にか僕の身体は震えだしていた。夏だというのに僕は冷え切ってしまったかのように、ただ冷たさを覚えている。
僕は未来を変えられるのだろうか。それとも変えられないのだろうか。
変えられなければ僕が死ぬ。僕は死んでしまう。
現実感はなかった。自分に死が訪れようとしているのに、僕はどこか他人事のように現実感を覚える事が出来なかった。
ただ僕は未来を変えたい。
でももしも僕が未来を変えられたとしたら、どうなるのだろうか。僕が未来を変えなければ誰かが代わりに刺される。そう思った。あの時はそれが矢上だとばかり思っていたけれど、矢上自身が襲いこようとしているのだからそれはない。
だとすれば刺されるのは桜乃という事になるのだろうか。
それでは意味がなかった。僕が未来を変えたいのは自分自身のためでもあったけれど、それ以上に桜乃に笑顔を見せて欲しかったから。彼女に未来を変えられるのだと、だから桜乃の力も悲しい事以外にも向けられるのだと。そう示したかった。
僕自身も桜乃も、どちらも助からなければ意味がない。
そして出来る事なら、矢上も一緒に救いたかった。
矢上は自分が嫉妬して
悪いのは矢上じゃない。悪いのはかつてあった戦争と、その時に起きた事件だけだ。
何とか未来を変えて、形を整えなければと思った。
僕はただ願う。
まるいかたちに。
もしも別れがくるのだとしても、せめてさよならはまるいかたちに。
僕はそう誓い、そして矢上から桜乃を遮るようにして立ちふさがる。
「どうして桜乃さんを」
訊ねはしたけれど、本当はもう答えはわかっていた。
僕は桜乃の事を気にしていた。そして次第に惹かれていた。
つまり麗奈は矢上の気持ちを知っていたのだろう。僕のことを少なからず思ってくれていることを。だからおせっかいな麗奈はこの旅行で僕と矢上をくっつけようとしていたのだろう。
なんてタイミングだよ。僕は思わず嘆きと共につぶやいていた。
麗奈がそんなことを思わなければ、きっとこんな事態にはなっていなかっただろう。僕がみた未来と重なっていなければ。響や麗奈が防空壕の中に入らなければ。たぶん僕が一人で辺りを見回りにいったりもしなかっただろう。
そうしていなければ矢上を一人で残す事もしなかった。矢上はあの時僕を呼び止めようとしていた。たぶん僕がいなくなったことで、より強く残留思念を感じてしまった。そのせいで矢上は残留思念に囚われてしまった。
そう思うと僕は自責の念に駆られていた。あの時どうして僕は矢上から離れてしまったのだろう。どうして僕は矢上の力に、矢上の気持ちに気がつかないままでいたのだろう。
もしもこのうちの一つだけでも重なり合わなければ、矢上はこんな風にならなくても済んだはずなのに。僕は矢上を救えたはずなのに。
僕のそんな気持ちに気がついているのかいないのか、矢上はゆっくりと話し始めていた。
「ずっと君は女の子には興味がないのだと思っていた。それはそうだろう、あれだけ可愛らしい妹に目が慣れていれば、他の女の子なんてそうそう目に入るものではない。なのに」
矢上の声は淡々としていた。怒りを表すのでもなく、声を荒げるのでもなく、ただ淡々と語り続けていた。
僕の身体がもういちど震えていた。強い言葉を投げかけられるよりも、涙をこぼされるよりも、複雑な感情が胸の中に伝わってきていて僕は強く寒気すら感じていた。
怖い。ここにきて初めて思う。
矢上がナイフをもっていても、まるで別人のように感じられた時にも覚えなかった恐怖が、僕の中を包み込んでいた。
ただその恐怖が矢上をとらえる残留思念に対してなのか。この先に死ぬかもしれないことに対してなのか。それとも桜乃に未来を見せられない事に対してなのか。僕にはわからなかった。
「いつの間にか、彼女が君の心を占めていたから。なぜ、なぜだ。なぜ、惹かれていく。確かに彼女はすごぶる可愛らしいと思う。あるいは井坂さんよりも可憐かもしれない。でも君はそれに惹かれるような人ではないだろう。なら、なぜ」
矢上の問いに僕は答える事は出来なかった。
どうしてかと問われれば、彼女の自分の力に対する悲しみを知ったからだろう。僕が見た消えてしまう未来を彼女が望んでいる事を知って、でも本当は未来を望んでいる事を知って、僕は自分の気持ちと彼女を重ねて、だから彼女を救いたいと願った。
でもそんな事をずっと近くにいて、同じ知りたくもない事を知ってしまう力を持つ矢上に対して言えるはずもなかった。
だけど桜乃はゆっくりと答えていた。
「それは。私にも力があるからでしょうね」
桜乃は何事もないかのように告げる。
桜乃はきっといま僕が抱いた気持ちも知っているだろう。そして矢上が同じような力を持つ事を知っていただろう。でも彼女は矢上に向けて、はっきりと答えていた。
思わず僕は振り返ってしまう。
淡緑のフレアスカートに、水色のブラウス。夏らしく淡い色の服装は、彼女を涼しげに感じさせた。
でもよく見ると桜乃も僕と同じように身体を震わせていて、彼女もどこか恐れを抱いている事に気がつく。
桜乃はおそらくは僕がいちど旅館に立ち寄った時に、僕の心を感じてここにやってきたのだろう。そして僕が響が犯人だと勘違いしていることも、そして矢上が犯人だという事もきっと知っていたはずだ。
だから彼女は何かを覚悟して話を続けているはずだった。
「私には人の心を読む力があります。貴方や
桜乃は矢上を見つめながら、自らの背負った力について語る。
桜乃にとっては認めたくない力。自分が人である事を否定してしまう力だ。
桜乃がそれを告げたのは、矢上も同じように力を持っている事を知ったからか、それとも僕にむきかけた矢上の刃を自分へと向けるためだったのだろうか。
矢上は桜乃の言葉に目を見開いて、それから口元に笑みをこぼした。いつもの矢上の見せる、優しい微笑みだったように思う。だけどその笑みの中に、よじれてしまった異なる想いが含まれている事は僕にもわかる。
それは矢上自身の想いではなくて、残留思念の引き出したものかもしれない。矢上は完全に過去の思念に囚われてしまっている。たぶんもう自分自身でも何が本当の自分の気持ちなのか、何を望んでいるのかもわからなくなっているのだろう。
「心が読める、か。なるほど、だから私が君を殺そうとした時には、もういなくなっていた訳か。井坂さんと風呂場に向かっていた時にいなくなったのも、私の心を感じ取って避けたという事か」
心が読めるという桜乃の言葉を、矢上は疑う事もなく受け入れていた。
もちろん普通であれば信じられるような事ではないだろう。だけど矢上自身も残留思念を読む力を持っていて、僕は未来を見る力を持っている事を知っている。そこにもう一人、不思議な力を持つ人間が現れたとしても受け入れられるのだろう。
そして麗奈が襲われた時に桜乃がいなかったのは、そのせいなのだろう。矢上が自分を襲うために近づいてきていた。だから顔を合わせる前に逃げ出したのだ。
「心が読める、か。それはさぞかし辛い事だろうな。強い感情、それも物に残した想いしか知る事の出来ない私ですら、吐き気がするほど人の心は醜い。それに常に触れ続けなくてはならないのであれば、いつ壊れても不思議ではない」
矢上の言葉はどこか揺れていた。桜乃に対して、きっと何か複雑な想いを抱いているのだろう。
「心が読める、か。君は私よりもずっと孤独を感じていたかもしれない。私の苦しみなんて、とるにたらないものだったかもしれない。それでも。それでも。なぜ、なぜ、君が選ばれる。私はずっと浩一をみていたのに」
矢上の言葉に僕の胸が強く締め付けられる。
僕はいつの間にか桜乃に惹かれていた。僕は無意識のうちに矢上ではなく桜乃を選んでいたのだろう。矢上にとって、それは耐えきれない事だったのかもしれない。
矢上の言葉の揺れが、少しずつ大きくなっていき、その中に悲痛なほどの痛みが含まれていく。
「私だって、同じ傷を感じていたのに」
矢上は目をつむりうつむいていた。
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