第34話 狂おしい想い

矢上やがみ。僕は」


 僕は思わず声を出して、だけどそれに続く言葉を失っていた。


 僕が何を告げるというのだろう。僕は矢上を選ばなかった。意図していた訳ではないけれど、僕は矢上ではなく桜乃を選んだんだ。


 そんな僕が矢上に何を言えるというのだろうか。

 矢上が力を持っている事なんて知らなかったから。桜乃が心を読む力を持つ事を知ってしまったから。それを伝えたとして、何の意味があるのだろうか。


 告げようとした言葉を飲み込んで、それから違う言葉を告げる。


「矢上。もうやめよう。こんな事をしても、何も変わらない。このまま身を任せても、何も動かない。ただ痛みを増していくだけだ」


 こんな言葉を投げかけても意味がない事はわかっていた。だけどそれでも言わずにはいられなかった。


 矢上は僕の言葉に少しだけ悲しげな瞳を向ける。


「わかってる。わかっている。私だってわかっている。それでも、それでも、胸の奥から何かがつぶやいてくるんだ。殺さなきゃ。殺さなきゃ。殺さなきゃ。殺さなきゃ――殺される」


 矢上の声は少しずつ遠くなっていく。


 戦争時は正気よりも狂気がまさると言うが、矢上は残された狂気に打ち勝つ事が出来なかった。いや矢上は今でも抗おうとはしているのだ。だからいまこうして僕達と話をする事が出来ている。


 だけど僕に何が出来るのだろうか。どうすれば矢上を救えるのだろう。

 わずかに視線を落とす。同時にひびきと争った時に地面に落ちたままのナイフが目に入ってきていた。


 そうだ。このナイフさえなくなってしまえば、もうあの未来は起きる事はない。矢上が誰かを刺す事も、桜乃さくのが、あるいは僕がさされる事も無くなるはずだ。


 あとにして思えば安易な考えだったかもしれない。でも今の僕はそれしか考えつく事が出来なかった。


 僕はナイフへと向かって走り出していた。


 しかし同時に矢上も顔を上げて僕を掴んでいた。そのまま僕をねじ伏せるように地面へと抑えつけていた。


「ぐぅっ」


 思わずうめき声を漏らして、僕は目を強くつむっていた。


「殺さなきゃ……殺される」


 矢上の言葉はどこか遠いところにいってしまって、矢上の心が残っていないようにも思えた。まるで機械のように、淡々とつぶやいていた。


 それと同時に倒れていた響が身体を揺らしながらも何とか立ち上がっていた。ただ身体が痛むのか、その動きはどこかぎこちなかった。


「く……真希まき、やめろ」


「殺さなきゃ」


 響の声は聞こえていないのか、矢上はただ壊れたおもちゃのように何度も同じ言葉を繰り返すだけだ。


「くそっ。桜乃さん、あんたも真希に何かいってくれ。俺にはよくわからないけれど、あんたも力とかいうのがあるっていうなら、あいつの気持ちをわかってやれるんだろ」


 いらつきを隠せない様子で響は叫ぶ。

 ただ桜乃は少しだけ寂しそうな顔を覗かせていた。


「私には何も言う資格はありませんから。私はひどい女なんです。私があの時逃げなければ、麗奈れなさんが傷つく事もなかったでしょう。楠木くすのきさんが襲われる事もなかったでしょう。でも私は自分の為に逃げた。浩一こういちさんには一緒に死のうなんて言ったのに、自分が傷つけられるのは避けたんです。彼女が狂った思念に囚われているのも知っていたのに、私がいない事に気がついた彼女が、きっと他の人に刃を向けるかもしれない事もわかっていたのに、私は逃げたんです」


 桜乃は静かに、だけどどこか揺れるような口調で一人つぶやく。

 響は初め何をいうでもなく、桜乃をじっと見つめていた。しかしすぐに矢上の方へと振り返って下唇をかむ。


「やっぱりあいくんを傷つけたのも真希くんだったんだな」


 響は矢上が楠木を襲った事を知っていたのか。だから矢上をここに誘い出したのだろうか。


 響の言葉に桜乃は無言のままうなずいていた。


「桜乃さん、君から愛くんが病院に担ぎ込まれたと聞いた時からそうじゃないかとは思っていた。いくら愛くんが少しおっとりしているからといって、まさか階段から滑り落ちて怪我をするとは思えない。真希くんが突き落としたんだろうと思っていた」


 響の声に矢上が再び口元に笑みを浮かべていた。

 だけどその笑みはどこか人の心が消えてしまったように、温もりのない自虐的な笑みだ。


「はは。そうだよ。あのときも桜乃さんをそうするつもりだった。でも彼女はどこを探してもみつからなくて、たまたま見つけた楠木さんを突き飛ばした。まさか下に飾ってあった壷にあたってあんなに傷つくとは思わなかったが」


 だけど少しだけ矢上の心がもどってきているのか、矢上は自分の起こした事件について話し続ける。


「なぜ、愛くんを。浩一の事を求めていたというなら彼女は関係ないだろう」


「理由が必要というなら見られたからだな。浩一を突き飛ばした後、私は海辺へと走った。浩一に私が犯人だとわからないように。でも楠木さんはそれを見ていた。はは、そういえばここは海が見える部屋だったよな」


 矢上は自分をあざけるかのような声で独白を続けていた。

 矢上も自分を止められるものならば止めたいと願っているのだろう。だけどそれ以上に彼女をとらえる狂気が、矢上の心を蝕んでいるんだ。


「でもそれはこじつけに過ぎなくて、本当は誰でも良かったんだ。殺したい人を殺せなくて、だけど思念は人を殺せと命じ続ける。私はそれに耐えられなかった。私は」


 矢上の心はやっぱり揺れているのだろう。本当はこんな事をしたくないのに、ただ意思がそれを許さない。自分の想いと過去の憎悪の間を行き来して、壊れかけている心を必死でつなぎ止めようとしている。


 だけどその心以上に、残された意思は強いのだろう。矢上はそれに抗う事が出来ないでいる。


「弱い人間だから」


 つぶやいた瞬間、僕を抑えつける力が弱まっていた。

 僕は隙をついて矢上を振り払うと、半ば転がるようにして距離をとっていた。

 はぁはぁと荒い息を吐き出しながら、何とか立ち上がって僕は矢上へと向き直る。


「浩一」


 矢上は僕の名前を呼んでいた。僕を求めているのだろうか。それとも何か違う気持ちを抱いているのだろうか。僕にはわからない。だけど僕は首を振るっていた。


「矢上。人は誰だって弱いものだと思う。僕だって強いばかりじゃいられない。誰しも過ちは犯す事はある。でも、まだ今なら取り返しがつくはずだ。――戻ってこい、矢上」


 手を差しのばす。

 ナイフを奪う事は出来なかった。だからせめて矢上の心をつなぎ止めたかった。


 矢上は一瞬だけ身体を震わせて、それから自分の手を見つめていた。

 そうして僕へと手を伸ばす。


 僕の想いが伝わったのだろうか。

 だけど。


「駄目だ。私は、もう帰れない」

「真希っ」


 矢上は僕の手をとることはなく、同時に響が矢上の名前を呼んでいた。


 響は矢上をにらみつけるかのように見つめて、そして怒りをぶつけるかのように声を張り上げていた。


「戻ってこい。俺はお前の痛みなんてわからないのかもしれない。俺はお前の苦しみなんて理解出来ないかもしれない。それでも、俺は受け止めてやる事が出来る。出来るはずだ。なぜなら俺は、俺は」


 響はもう自分でも止められなかったのだろう。ただひたすら言葉を紡ぎ続けていた。


 そらすことなく矢上を見つめている。もうその瞳には僕も桜乃も映っていない。


「お前の事が好きだから」

「な。」


 響の言葉に、矢上の表情がはっきりと驚きを見せていた。どこか止まっていたような矢上の心に、何かが響いたのかもしれない。


 ただその中で、驚きというよりもどこか呆れているようにも思えた。

 そしてそれも一瞬のことで、矢上は寂しげにまた笑っていた。


「はは。私の事を、月野が? 私を受け止める事が出来る? はは、もしもそんなことが出来るなら。出来るなら、私はいまこうしていない」


 矢上はまるで爆発したかのように響へと飛びかかっていた。しかし響もそれは予想の範疇だったのか、矢上が届く前にその突撃を躱していた。


 しかし矢上はそこで動きを止めなかった。そのまままっすぐに駆けだしていた。


「矢上!?」


 僕は思わず叫んでいた。でもその声が届いたのか、それとも届いていないのか。矢上は止まることなく走り続ける。


 その先には桜乃がいた。たぶん初めから桜乃が目的だったのだろう。

 僕はすぐに桜乃と矢上の間に飛び込んでいた。ほとんど考える事すらなかった。


 矢上は僕の胸元をつかもうとして手を伸ばす。僕は何とかそれを避けようとするが、しかし武道の心得がある矢上に敵うわけもなく、そのまま勢いよく投げ飛ばされる。


 地面に打ち付けられて、激しい痛みが僕を襲っていた。


 うめき声を漏らしていたが、矢上は僕には構わずにそのまま桜乃へと向かっていた。いや向かおうとした。

 僕はほとんど無意識に手をのばしていた。それは矢上の足にかかって、矢上はバランスを崩してたたらを踏む。


「浩一さん」


 桜乃が僕の名前を呼んで、それから両手で口元を押さえていた。桜乃の瞳が揺れているのが見えた。


 僕はそのまま矢上の足を掴む。だがそれはすぐに矢上にふりほどかれていた。

 しかしその前に響が立ちふさがっている。

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