第32話 独白する想い
だからどうしたらいいのかわからなかった。
例えそうだとしても、それだけで矢上がこんなことをしたという事もまだ信じられなかった。僕の知る矢上は嫉妬で誰かを殺そうとするような人間ではないはずだ。
崖に打ち付ける波音だけが、辺りを包んでいた。時折その中に風が舞う音が重なる。
時間がまるで動きを止めたかのように、誰も口を開かなかった。静寂だけが僕達を彩っていたと思う。
しかしその空白を破るかのように、
「何を言っているんだ、君達は」
響には僕と矢上の言葉が理解が出来なかったようだ。
それもそうだろう。未来が見えるだの、物に残した心が読めるだの、普通の話ではない。響に理解を求める方が間違っている。
「だから言っただろう。響、君にはわからないと。知らずにいれるはずの事を知ってしまう悲しみも苦しみも、同じ痛みを受け取っているものにしかわかるはずがない」
矢上の言葉にはどこかトゲを感じさせて、僕の心の中に抜けない痛みを差し込んでくる。
矢上は響をにらみつけるようにして、どこか隠せない怒りをぶつけていた。
矢上は自分でも何をしているのかわかっていないのかもしれない。行き過ぎた想いが暴走して、ただぶつけずにはいられなかったのかもしれない。
だけど僕に受け止めてほしかったはずの心は届かなくて、彼女の行き場のない気持ちが絶望すら覚えさせたのかもしれない。
「
矢上は言葉をため込むようにして、そして首をそむける。
「どうして君は、こんなにも遠い」
矢上と僕との間にある距離を感じて、嗚咽すら漏らしそうなほどに吐き出した声が僕の中につきささっていく。
僕は何も答える事が出来なかった。何を答えたとしても、矢上を傷つける事はわかっていた。
残留思念を読む心。たぶんそれは僕や
桜乃と同じように矢上も強すぎる感情を受け取りすぎて、心が傷ついてしまっていたのかもしれない。桜乃が心を閉ざしてしまったように、矢上も少しずつ蝕まれて、その気持ちが抑えきれなくなったのかもれしない。
だけど僕はその想いに応える事は出来なかった。
もっと早くそれを知っていたならば、もしかしたらまた違う形があったのかもしれない。でも僕達はもう出会ってしまった。
どこかつかみどころがなくて、何を考えているかもわからなくて、みるたびに空気感をかえる不思議な少女に。彼女が抱える痛みに、僕は惹きつけられていた。僕と同じで、そしてもっと強い痛みを知る、桜乃という少女に。
彼女に未来を見せてあげたい。僕はそう願ってしまっていた。
「私は
矢上はさらに一歩だけ後ずさる。少しずつ崖が近づいてきていた。
心を吐露する苦しみに、じっとしていられないのかもしれない。
声が震えていた。夏だと言うのに、まるで凍えているかのように自分の身体を抱きかかえていた。
「君はいつも井坂さんの事ばかり考えていた。私なんて目にも入っていなかった。悔しかった。いや苦しかった。君と二人になれても、君が彼女の事ばかり考えているのは辛かった。でもそれでもまだよかった。井坂さんは君の家族なのだから。それは仕方なかった。でも君はもう一人他の人を見ていた。それが私の心を乱していた」
そう告げるのは桜乃の事だろう。
「でもそれだけなら良かった。彼女とも旅行が終われば離れるのだから、嫉妬はしても、それは一時のことだ。また私を見てくれる時がくる。そう思えたはずなのに。運命っていうのは、本当に皮肉なものなんだな。私は強い心を残したものに触れることで感情を読み取る事ができる。いや読み取る事がある。私は自分の力を制御することはできない。だからもっと早く気がついておくべきだったんだ。あそこには強い、強すぎる思念が残されていたんだ」
矢上はまるで独白するかのように、一人話し続ける。まるで何かに追い詰められているかのように、ただ話し続けずにはいられなかったのだろう。
「私はそれに囚われていたいた。あまりにも強烈な感情は、それが残された思念なのか、私自身が考えていた事なのかわからなくなってしまった。私の中に混ざり込んでしまって、もう私は自分が何を考えているのかもわからなかった。あの時井坂さんが告げようとしていいそこねた言い伝え。あの防空壕は結局使われる事が無かった。なぜなら、あの防空壕に関わっていた人間は一人ずつ」
だんだんと声のトーンが狂いだしていく。何か矢上ではない人間が混ざり込んできてしまっているように。
「殺されたから」
矢上の声は震えていた。何か違う人間が話しているかのようだった。
「あの防空壕から伝わってきた思念は、殺さなきゃ。殺さなきゃ。殺さなきゃ。殺さなきゃ。殺さなきゃ――」
矢上は空を見上げる。その表情はすでにもういつもの矢上ではなくて、何か追い詰められた人間のものだった。
矢上の身体が少しずつ震えていく。大きく首をふるって目をつむる。
あぁと何か声を漏らして、それから突然に駆けだしていた。
「
響が悲痛な声で叫んでいた。
矢上はそのまま響の元に向かって、ナイフを突き出していた。
響は間一髪で避けると、矢上を取り押さえようとして手を伸ばしていた。
しかしその瞬間、矢上は逆に響をつかみ投げ飛ばしていた。同時に手放したナイフが音を立てて落ちる。
響は鈍いうめき声を漏らして苦痛に眉を寄せていた。昨日の雨に濡れて少し柔らかくなっているとはいえ、地面に叩きつけられれば相当の痛みを感じたことだろう。
「悪いな、響。私には柔道の心得もある。そう簡単にはやられないよ」
落ち着いたようでいて、どこか震えるような声で矢上はつぶやいていた。
矢上の本人の意識と、強い残留思念がからみあって、矢上は何をしているのか自分でもわかっていないのかもしれない。
止めなければいけない。
これ以上に矢上に罪を犯させる訳にはいかない。
「矢上っ、もうやめろ。それはお前の意志じゃないんだろ。残された思念なんだろ。そんな事をしても」
僕が矢上に叫ぶようにして伝えようとするが、矢上はそれを遮るようにして口を挟む。
「違う。確かに私は残された思念に侵された。だけど、やっぱり私は願っていたんだ。
つぶやくように告げていた矢上の瞳は、僕の方に向いていなかった。
僕のさらに向こう側をじっと見つめていた。
「私がいなければですか?」
その声は僕の後ろから聞こえてきていた。
振り返るまでもなく、僕にはその声の主がわかっていた。だけど振り返ってはいけない。もしも振り返ってしまえば、僕が望まない未来が訪れてしまう。そんな気がしていた。
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