三 濡れそぼる運命 三
翌日。
その日は講義がなかった。昨日から引きずる疲労が眠気を深めすぎ、起きたら正午近くになっていた。
慌ただしく顔を洗ったり歯を磨いたりしたあと、朝食か昼食かわからない食事をすませた。薬を飲んだところでスマホがメールを告げた。『たもかん』だ。
恩田の提案に応じたのは、岩瀬だけだった。恩田は、会員一同に簡潔に感謝して募集をしめきった。中止とは一言もない。
案の定というべきか、スマホが次のメールを知らせた。恩田個人からだ。
『先輩、私達だけみたいですけどどうします?』
追悼行事をするかしないかという意味だ。提案したのは恩田であるから彼女が決断すべきとできなくもない。もちろん、先輩である岩瀬に気を遣ったのは誰でもわかる。
『実行しよう。いつがいい?』
岩瀬は即断した。こういうときにぐだぐだうじうじするのを、彼はもっとも嫌う。
『じゃあ、今からどうですか?』
自分の決断と同じくらい早くやってきた返信に、うれしくもあった反面……やや不気味さをも感じた。腰が軽いといえばそこまでではある。なにかこう……なにかこう……用意周到な気配というか。年頃の男女が浮いた話をするという意味ではない。
などと感じてしまうのは、昨晩読んだ本の影響だろう。強いてそう自分にいいきかせた。
『わかった。現地で待ちあわせにするか?』
感染症の危険をできるだけ下げるのは、常に意識せねばならない。
『私はそれでいいですよ』
『よし。じゃあ、現地で』
具体的な駅の乗り降りは、昨日のメールで把握してある。あとは実行するだけだ。あとといえば、あとになって一つ気づいた。どうして自分は恩田にケガの話をしなかったのだろう。
小一時間ほどして、湯梨水門橋を前にした。
もうすぐ冬だというのに、暑いくらいだ。分厚い上着を身につけてきたものの、脱ぐほかない。
思わず天を仰ぐと、青空に一個だけ雲が浮かんでいる。どこか、車輪を連想させるような形をしていた。薬のおかげか、いつまで眺めていてもなんともない。
そういえば、岩瀬は自他ともに認める雨男だった。『たもかん』で行われた数少ない撮影会は、彼が参加する度に雨に見舞われた。いや、呪われた。
呪い。奇しくもそれは、『合理主義と新大陸の魔女』で読んだ魔女裁判につながった。他愛もない遊びから始まった悲劇。まさに呪いだ。
橋にまで視線を下げると、緑灰色をした鉄筋コンクリート製の橋梁が東西に二十メートルほど伸びていた。今は橋の東側にいる。
腰くらいまでの高さの、鈍い銀白色の欄干が両端についている。橋梁の真下は、赤い水門が川を区切っていた。いずれも昭和初期……一九三○年に完成している。海水が満潮に乗って逆流してくるのを防ぎ、塩害から水田を守るのが目的だった。現在は、減反政策でほとんど存在意義を失っている。
水門の真上に橋があるというスタイルではない。水門の裏側に橋を添えたという様子で、その意味では水門が主役だった。付近には民家らしい民家もなく、国道からも離れているから妥当な構造だろう。
水門の中央には、ちょっとした塔のような建物が空へと突きでていた。五メートルくらいだろうか。出入りのための階段がついていて、橋からそのまま上がれる。もっとも、階段の登り口には鎖が張ってあり『関係者以外立入禁止』という古びた札がぶら下がっていた。察するに、門の開閉は塔の中にある機械を操作して行うのだろう。いたずら書きの類もなく、天気さえよければ気分のいい場所であるのは間違いない。水門から河口までは十キロほどなので、それこそ塔に入れば海岸を眺められるだろう。
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