一 ホラフキさんのささやき 七

 夜中に横断歩道を歩いていて、左折してきた原付に転ばされたという話だ。岩瀬をふくめて、誰一人として現場に居あわせた者はいない。どこの病院に入院したかも知らない。


 事故の数日前、薄山とたまたま学食で話をする機会があった。他愛ない世間話で、岩瀬自身これまで忘れていた。


 薄山は、現代史の一貫としてアニメオタクの類がどう移りかわってきたのかを研究したいと語っていた。真面目な学術上の問題意識だったが、岩瀬としては興味がないので適当に相槌を打ってすませていた。


 薄山の吹いたホラは、どこまでホラだったのか。


「先輩、買い物しないんですか?」

「あ、ああ、するよ」


 結局、彼は平凡な板チョコを三枚選んだ。恩田に先に会計させ、すぐ次に自分もすませる。ビニール袋も追加で買った。


「じゃっ、先輩。お疲れ様でした」


 店をでてから、恩田は買い物を入れたビニール袋を自転車の籠に入れた。そして去った。


 ふたたび一人になり、岩瀬も回れ右して家路についた。


 恩田がいなくなると、一時的に盛り上がっていた陽気な気持ちが急に冷えこんでいった。


 さっきの命令は、明らかに見知らぬ誰かからもたらされた。いくらなんでも毎日百個なんて議論に値するはずがない。つまりホラ。


 ホラフキさんが、自分に取りついたということか? とはいえ、少なくともこれまでのところはなんともない。


 だいたい、都市伝説はなんでもそうだがどうにでも解釈できるあやふやな話ばかりだ。厳しく煎じ詰めたらたちまち矛盾があらわになる。


 ならば、あれは誰かのいたずらか。あるいは他人同士の雑談がたまたま聞こえただけか。とてもそうは思えない。


 冬が近いだけに、夜が深まりだすと加速度的に寒さが増してくる。さっさと帰宅して熱いコーヒーでも淹れたい。チョコレートをつまみながら、コーヒーを飲んで夕食について段取りをまとめたい。


 冷たい風に吹かれて、どこからか美味しそうな香りが漂ってきた。焼き鳥だ。仕事帰りの社会人を狙って屋台をだしているのだろう。


 それにしても、デレチョコ百個か。一箱十個入りとして十箱。それだけで半月分くらいの食費になる。エンゲル係数どころじゃない。恩田ならそのくらいこなしそうだ。金が続けば、だが。


 金か。恩田は岩瀬と似たような家計だろう。お洒落をそれほど意識しているのでもなし、買っているお菓子は高いが大学での昼食はいつもパン一個に牛乳だし。


 スマホが振動して、岩瀬は足を止めた。薄山からメールだ。正確には、『たもかん』のウエブサイトで利用する会員専用の個別チャットの通知だ。参加する人間をその場その場で限定できるし、履歴も簡単に削除できる。


 まさか、恩田のようにスマホをのっとられたのではなかろう。岩瀬はチャットに参加した。彼と薄山以外は参加も閲覧もできない。


『お疲れ。恩田から変なメールこなかったか?』

『ああ、きたよ。削除した』


 わざわざ問いあわわせるようなことだろうか。返信しつつ、岩瀬は首をひねった。


『俺もそうした。でもまたきた』


 仮にそうでも、岩瀬からすれば関係ない。ただ、事故にあったのは気の毒だし悪い奴ではないから辛抱強くつきあった。


『それ、乗っとりメールだろ?』

『恩田はそういってた。でも、またきたんだ』

『落ち着け。乗っとった奴が、お前のメールアドレスを確認して嫌がらせかなにかをしてるんだ』


 岩瀬としては、むしろ自分自身のスマホやアドレスを速やかに検査したいくらいだ。


『それくらいのことは俺だって想像できる。でも、ホラフキさんがきたんだ』

『そりゃこの前だろ』

『いや、ついさっききた』

『はぁっ!?』


 思わず実際に言葉が口をついてでるところだった。


『先日の件は、俺のヤラセだ。神出があんまりうっとおしいからわざと自分からホラを吹いたんだ。それから普通の格好で通学して、ホラフキさんはただのでっちあげだって証明してやるつもりだった』


 まさに岩瀬がやったことだ。

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