一 ホラフキさんのささやき 六

 むろん、恩田とは関係ない。それどころか、ドスの効いた低く太い声だ。岩瀬の近くには恩田しかいないし、耳元で囁かれるような音量だった。


「ここに誰か、別な人間はいたか?」


 冷や汗を意識する一方、冷静さを装うのは苦難でもあり苦痛でもあった。


「いませんよ」


 きょとんとした顔で恩田は答えた。


『このチョコレートを毎日百個食べるといえ』


 三度目の命令が岩瀬の鼓膜にもたらされた。


「先輩、チョコ買わないんですか?」

「い、いや……」


 SNSでの発言は、自分から意識したホラだった。今回は、素で何者かがいる。


「やっぱりやめとこう」


 やめて欲しいのは幻聴……と、いって適切かどうか……だ。岩瀬はただ、平凡だがつつましやかな幸せのある人生を送りたいだけなのに。


「えー、どうしてですか?」

「その……箱のアイドルが……」


 事実として、岩瀬は特にアイドルオタクなどではない。苦しい言い訳ながら的外れではない。


「あー、まあ先輩みたいな男子ならちょっと気が引けますよね」


 笑うような、からかうような表情で恩田は一応の理解を示した。


「なんだよ、先輩みたいなって」


 いくら岩瀬でも本気で怒ったのではもちろんなく、会話をつなげただけだ。その背景が彼にもたらす圧力たるや、叫びだしたくなるほど強くなっているのだが。


「先輩みたいなっていうのは、つまり先輩と同じかそれに似た人格だっていうことですよ」

「説明になってないぞ」

「いいんですよ。あたしが買いますから」


 恩田は岩瀬の隣にきて、くだんのチョコレートを自分の商品籠に入れた。


「神出君のいってた都市伝説、先輩は信じます?」


 いきなり恩田は話題を変えた。


「え?」

「ホラフキさんですよ」


 ついさっき、それとおぼしき声を聞いた。招かれざる客とはまさにこのことだ。


「ホ、ホラフキさん!」


 レジにいた店員が、ぎょっとした表情でこちらに注目してきた。


「先輩、急に怒鳴らないで下さいよ」

「いや、すま、すまん……とにかく眉唾だろ」

「でも先輩、SNSで宣言しちゃったじゃないですか」

「ああいうのを嫌がる奴もいるだろ? 無粋は承知で終わらせたかっただけだ」


 本当は、自分が一番嫌がっている。いくら恩田にでもそれを知られるのはなんとなく嫌だった。


「ふーん。なら、安心しました」

「安心?」


 恩田の話は、切れ目がないようであり、とりとめがないようである。


「だって、先輩が本気でホラフキさんを信じてるんじゃないかってちょっと心配でしたから」

「ま、まさか。バカバカしい」

「でもほら、薄山先輩まだ入院中なんでしょ?」


 薄山とは、ホラフキさんを無視したせいで交通事故にあった……とされる『たもかん』の会員だ。岩瀬の同期で、史学部に在籍している。おとなしくて人好きのする男子学生であり、逆にいうとそれ以上の存在ではない。


「命に別状はない。ただの偶然だ、偶然。だいたい、コスプレして通学なんてまともな神経でできやしないし」


 薄山がアニメオタクなのは大抵の会員が知っていた。同時に、世間並な良識の持主であることも。


「そうですよね。あたしも『たもかん』じゃ幽霊会員ですから、薄山先輩のことはあんまり知らないですし。ただ、神出君がやたらにみんなに振ってたからちょっとだけ気になって」

「仕切り屋になって、就活のネタにでもするんだろ」

「えーっ、面接官に都市伝説のお話するんですか?」

「まさか。都市伝説にどう対応するかで会員の特性を把握し、各自の不安に寄り添うことでリーダーシップを学びとりましたとかなんとかだろ」

「すっごーい! 先輩、面接やったことあるんですか?」


 変なところで恩田は感心した。


「ないよ」

「ちょっと参考にしちゃいますね。明日には忘れますけど」

「なんだそりゃ」


 恩田の無邪気さのお陰で、ようやく岩瀬も冷静さを取り戻せた。しかし、笑いつつも薄山の事故が思い返された。

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