一 ホラフキさんのささやき 四
岩瀬は自他ともに認める凡人である。ただ、特殊な事例のせいで他者と隔たったにすぎない。自分の境遇を絶対の機密事項にしていることは、余計な気苦労を予防する一方で別な気苦労をもたらした。
彼が本気でとっくみあっているのは、まさに自分の精神の根本だった。正確には、根本的な原因を究明することだ。
ネットはうんざりするほど検索した。医療雑誌も国内外にこだわらず漁った。なんの成果もなかった。強いていえば英語にある程度詳しくなり、受験の役にたったくらいか。
制服姿の、高校生とおぼしき男女が笑ったりはしゃいだりしながら数人連れで歩いている。無関係な他人だし、ただすれ違っただけだが、諦観しつつもやはりなにがしかのうらやましさが心の奥底にうずいてくる。
彼としては、同じ状況の人々と連携する気にもなれなかった。特に深い理由はなく、日常生活がうまく進めていられるならわざわざ話をする必要を感じなかった。それより、健常者の価値観や言動は常に把握し続ける必要があった。中学生や高校生が、孤立したくないから好きでもない雑誌や芸能人の話を知っておくのと似たような感覚だった。それはまた、うらやましさをまぎらわせるのにも役立った。
などと思索する道すがら、次から次へと自動車が行きかっては去った。闇を照らしては溶けていくライトの光を眺めるうちに、どうしても無視できない出来事を反芻せざるをえなくなった。
さっきのメールはなんだったのか。
削除は当然だろう。岩瀬はテレビや漫画にでてくるようなコンピューターの専門家ではない。メールの送信元をあれこれ詮索しても意味がない。いや、有害ですらある。恩田を質問攻めにするのも同様だ。
同時に、抑えられていたはずの症状がでてきたのは衝撃だった。いや、衝撃というなら即座に病院に電話して担当医に相談する段取りをつけるべきだ。なぜほったらかしにしたのか? 時刻がとうに病院の受付時刻をすぎていたからだ。
それはあとづけにすぎない。
やろうと思えば、スマホでネット動画を検索して簡単な実証ができたはずだ。自動車でも風車でも、とにかく回転する物体を目にして薬がどのくらい効かなくなっているかを確かめる。
こうやって歩道を踏みながら、走っている自動車のタイヤを見てもなんともない。だから薬はちゃんと力を発揮している。だが、もし効いてなかったら大惨事を起こしたかもしれない。外出する前にはっきりさせておくのが筋だろう。
気が動転していたなどと、他人事のようにすませられたらどれほど気が楽か。
回転するのが当たり前な物体を、止まっているにもかかわらず回転していると想像してしまう……? たとえば電子レンジの台。DVD。円形のロボット掃除機。岩瀬の自宅には電子レンジとDVDがある。無意識に背を向けたということか。
ふと道端に目をやると、営業時間をすぎた理髪店があった。赤青白のねじり棒がたっている。もう店がしまっているから動きはしない。たちどまって数秒ほど観察したものの、岩瀬の心身にはなんの異常もなかった。
すると、なんでもかんでも想像力が働くのではなさそうだ。これまでの人生で、材木だの回転カッターだのにかかわりがあっただろうか? 彼の父親は市役所づとめの公務員だし、母親はスーパーのパートである。兄弟姉妹はいない。生まれも育ちも人口二十万ほどの地方都市で、山や森の近くで暮らしたことはない。遠足や家族キャンプならあるが、木を切るような体験はない。小枝を集めたことすらない。
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