一 ホラフキさんのささやき 三

 もっと曲げないと。もっと。


 スマホが震えた。首の向きを元どおりにして画面を見ると、恩田からの電話だった。


「もしもし」

「あ、先輩。ひょっとして、あたしから変なメールきてませんか?」


 アニメ声、とでも表現するのだろうか。高くて可愛らしい発声だった。


「材木を二つに切る写真か?」

「あー、やっぱり。ごめんなさい。あたしのスマホ、なんか乗っとられたみたいで……。メールは削除してくださいね」

「わかった。まあ、君のせいじゃないんだし気にするな。じゃあな」


 スマホを切って、岩瀬は右手で首を揉んだ。そして気づいた。もっと細かく気を遣った言葉をかければよかった。


 恩田の姿は、おぼろげにしか思いだせない。自分より額から鼻くらいまでの長さ分背が低く、茶緑色のスラックスと黒いパンプス姿だった。髪は短め。高校時代は文学部で、大学の学部も文学部ながら特に読書好きな印象はなかった。いや、彼女とは印象らしい印象を受けるほど会話してない。しかし、少なくとも神出などよりはずっと頻繁に会いたくなる人間ではあった。神出も彼女には積極的に話しかけているが、いつも適当にいなされている。少なくとも岩瀬が判断する限りでは。


 それにしても、さっきの強迫観念めいた心理はどこから湧いてきたのだろう。今日の薬はちゃんと飲んだのに。


 岩瀬は、まずさっきのメールを削除した。次に、下書きリストから一つを選んで開いた。毎日二回、朝食後と夕食後。セルフサービスの服薬履歴だ。飲んだら必ず自分で記録する。同じ理由でスマホのタイマーもセットしてある。もちろん、滞りは一つもない。


回転体眩惑症かいてんたいげんわくしょうですね』


 三年前、病院で診察した医師は結論を述べた。あのときは、付き添いに母親も同席していた。


 高校からの帰り道、自転車を漕いでいた彼は突然倒れた。たまたまトラックとすれ違ったのが、原因などとは考えられない原因だった。トラックは彼にかすりもしていない。それ以来、車とすれ違う度に彼は一人で勝手に転んだり倒れたりした。心配した母親が精神病院に連れていき、病名がついた。


 回転体眩惑症……ある一定時間、回転する物体を目にし続けると自分の身体を無意識に回転させるようになる。頭がくらくらするというのとは異なる。症状が進むと、ただ転ぶだけでなく路上だろうと室内だろうとごろごろ転がりだす。世界でも稀な精神病だが、症状がでないようにする薬はある。


 原因は全く不明だった。世界中で三桁にもならない罹患者にはなんの共通点もない。反面、薬で簡単に抑えられるのでたいした話題にならない。なって欲しくもない。


 当然ながら、岩瀬は家族以外の誰にもこの病気を伏せている。また、薬のお陰で日常生活には全く支障ない。障がい手帳もあえて申請しなかった。


 乗っ取られた恩田のスマホが送りつけたのは、写真であって動画ではない。これまで、止まった車輪かなにかを目にしてさっきのような状況になったことは一回もない。


 これはつまり……疲れている。半ば無理矢理そう結論づけた岩瀬は、気晴らしかたがた外出することにした。コンビニで甘いものでも買ってくるつもりだ。


 マスクをつけて外にでると、日没を終えた路上が街灯や商店のネオンサインの光を浴びていた。目指すコンビニのそれも直に目にできる。


 岩瀬にとって、自宅の取り柄はコンビニまで歩いて三分という点にあった。


 三分間。即席麺ができる時間。往復六分。ただひたすら歩くときもあれば、あれこれ考えながら歩くときもある。


 考えることといえば、きまって自分が抱える状況だった。日常生活に障りがないとはいえ、自分からほどほどに他人と距離を取らざるを得ない。なにかあったら偏見にさらされたり、『善意の』助言……甘えがどうした、根性が云々などといった類から素人療法まで……の相手をせねばならなくなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る