昔のアーカイブ:有り得ない取引

二〇〇四年六月


「頼む。一度で良いんだ。負けてくれ」

「それが人に物を頼む態度か?」


 大地の首に、内海羽矢人うつみはやとの長い腕が巻き付いた。締め上げるという感じではない。ゆるくだ。呼吸は出来るが、大地は極めてうざいと心の中で強く思った。


「なあ。弟の誕生日会なんだ。兄貴としては、応援してやることしかできないのが歯痒いんだよ。でも対戦相手は学年一キャラコンの上手い大地くん。毎日毎日、対戦相手を申し込まれて無双連敗。連勝続きで本当に凄いと思うよ。でも、そろそろさぁ。世代交代と行こうじゃないか。ねぇ?」


 何が、ねぇ、なのだろうか。

 大地は、盛大に深い溜め息を吐いた。


「もしお願いを聞いてくれたら、この先面倒な宿題は卒業まで俺が引き受けるからさ。な?」


「卒業までの、あと九ヶ月を?」


 内海は頭を縦に振りながら「そうそう」と頷いた。


「聞かなければ?」


「えーと、そうだね。もしお願いを聞いてくれなきゃ、お前の弟さ。俺の弟と同じクラスじゃん。苛めの標的になっちゃうかもよ?」


 ニヤニヤと笑いながら歯茎を見せる。

 大地は正直に思った。気持ち悪い奴だと。


「それ脅しか?」


「やだな。なっちゃうかもっていう仮の話じゃん。仮のな?」


 大地は、揺れ動く影を見つけた。呼び出された校舎裏にはもう一人いた。明らかに隠れ切れてない。小さな体でも、黄色いシャツの生地が大木から少しはみ出している。


「そこに隠れてる、君。見えてるぞ?」


 大地に指摘されて、びっくりしたのだろう。そっと大木の陰から顔がチラリと覗いた。


「君の誕生日会なのに、良いのか?」


 観念して出てきたのは、羽矢人の弟――瞬平しゅんぺいだ。


「言ってたよ。お兄ちゃんが強すぎるから全然勝てないって。誰か無敗記録を止めてくれって。迷惑してんじゃん」


 大地をキッと睨んだ瞬平が小さな体で訴えた。


「僕に勝たせてくれたら、彼は喜んでくれる。お兄さんだって大人気ない勝ち方を、ずっとしてるんだから、そういうの、もうやめなよ?」


 大地は思わず舌打ちをしたくなった。兄弟揃って、八百長の強要や脅迫行為を指摘しても話が通じないらしい。


「そうだよ。弟くんが迷惑してるって言ってるんだぞ?」


「たとえ、お前の話を聞こうが聞くまいが、お前が約束を守るという保証はどこにあるんだ?」


 大地は巻き付いた内海の腕を払い、自分の体から引き剥がした。


「あー。そうくると思った」


 内海は右脚のジャージのポケットに手を突っ込むと直ぐに何かを取り出した。握り締めたてのひらを広げて、ソレを見せた。


「ICレコーダーか」


「そう。親父が仕事で使ってたやつ。もっと高くて良いやつを買ったから、お古のこれを貰ったんだ。塾の先生が早口で、いつもコレ使ってんだよね」


「ふーん。それを脅迫に使うのかよ。お父さん泣くぞ?」


「まさか。俺の親父は、大物議員の汚いスキャンダルとか、醜悪な有名人の裏の顔を暴いて稼いでる記者なんだ。記事のネタひとつで、それに関わってる人の人生が変わることだってある。場合によって命を狙われかねないこともな。だからこれは、そもそも立派な取引材料であって、上手く盗聴するのも必須スキルの一つなんだ。一般的な仕事とは違うからなぁ。理解できないかもしんないけど」


 命を狙われるというのは、少し大袈裟ではないか。なにより記者の仕事を何か特殊な仕事だと思っているようだが、本当に危ない仕事なら逆に不安にならないだろうか。


 自分の父親が、ごく普通の営業部のサラリーマンで良かったと大地は思った。


「マウントか。やめてくれよ」


「やだな。親の自慢話に聞こえたちゃった? ちょっと心が狭いんじゃない?」


 いちいちかんさわる奴だ。


 どうしてこんな奴の言うことを聞かなければならないのか。もはや意味不明である。


 いつまでも付き合っていられないと大地は、立ち去ろうとした。


「なぁ。あとで音声データをメールで送るから考えといてくれよ?」


「そんなもんいらねぇよ!」


 約束なんかどうでも良い。

 もし来たとしても速攻削除ものである。


 ノリでヘラヘラした態度で八百長を要求する内海に、フェアなプレイを考えてないことが大地には許せなかった。そんな奴と自分が今まで友達だったことも、それだけで、ショックなのに。


 有り得ない取引に、大地は乗ずるつもりなどはなからなかった。

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