第83話 聖女⑧
考える力をなくしていた私は、命じられるがまま、エリスと暮らしていた自室に戻る。
エリスとの思い出に溢れた部屋。
思い浮かぶのは、いつも優しく色々なことを教えてくれたエリスの笑顔。
着替えを探そうと寝室に入ると、嫌でもベットが目に入る。
時折エリスと一緒に寝ていたベッド。
一緒に寝ている時は全く気付かなかったけど、エリスは私と寝ることでドキドキしていたのだろうか。
エリスのことを思い出すと、凍りついていた心が溶けて、涙となって溢れてくる。
何もできなかった。
何をする間もなく、エリスを殺されてしまった。
そして私もこの後、聖女様に乗り移られる。
体は生き残るのだろうけど、意識を奪われるのであれば、それは実質、死と変わらない。
死んだら心は、エリスと同じ場所に行けるのだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
何もかもどうでも良くなった。
このまま聖女様の元にこの体を捧げに行こう。
そのために、体を洗い流しに行こうとした時、ふとエリスの机が目に入る。
死ぬ前に、エリスともう少しだけ近づきたい。
そう思った私は、故人のものを探るのは悪いとは思いながら、エリスの机の引き出しを開けた。
そこには、一通の手紙だけが入っていた。
宛名は私。
私は焦るようにその手紙を手に取り、中身を見た。
ーーこの手紙を読んでいるということは、私はもう死んでいると思います。
きちんと気持ちを伝えられているか分かりませんが、私は貴女が好きでした。
恋愛対象として好きでした。
女神様の教えでは同性愛は悪なので、私は悪で、聖女には相応しくないということです。
だから、私が死ぬことで貴女が気に病む必要は全くございません。
私は貴女と共に過ごせて幸せでした。
そのためにこの世に生まれてきたのだと思えるほどに。
貴女と出会うために私の人生はあったのだと思えるほどに。
だから、例えそのために死ぬことになったとしても、全く後悔はございません。
一つ心残りなのは、私が死んだ後の貴女です。
優しい貴女は、貴女のせいで私が死んだと、自分を責めないか心配です。
勝手に死んだ私がこんなことを言って申し訳ございませんが、私は貴女に幸せになって欲しい。
私のことは気にせず、自分の幸せを掴んでください。
聖女という立場では難しいことは承知の上ですが、それが私の願いです。
お願い、幸せになってーー
エリスとの思い出が蘇り、ポロポロと涙が溢れてくる。
恋愛として誰かを好きになるという気持ちは分からないけど、エリスがどれだけ自分のことを思ってくれていたかは分かる。
そんなエリスの願いを無視して、私は死ぬわけにはいかない。
私は涙を拭い、覚悟を決めた。
まず私はエリスの血が付いた体を洗う。
エリスの血だから汚いとは思わないが、外見上どうしても目立ってしまうから。
血を洗い流した私は、エリスの服に手を通す。
純白のその服は、エリス同様、とても綺麗だ。
私のアドバンテージは、私がまだ操られていると思われていること。
本当はここで身支度を整えたいけど、この部屋の中は聖女様に見張られている。
ここで怪しいそぶりを見せると、アドバンテージが崩れてしまう。
私の選択肢は二つ。
戦うか。
逃げるか。
操られたままでいるふりをして、不意を突いて聖女様を殺すという手もある。
ただ、恐らく膨大な魔力を秘めているだろう聖女様がそれで死ぬかは分からないし、聖女様を倒せたとしても、その後教会全体と戦うしかない。
でも、逃げるのも簡単じゃなかった。
監視の目を潜り抜け、神国中を敵に回しながら他国へ逃げるしかない。
どちらも茨の道だけど、可能性を考えた結果、私は後者を選ぶことにした。
時間をかけすぎると、怪しまれる。
私は少ない私物と服を鞄に押し込み、部屋の扉を開けた。
二階にある部屋から、先に荷物を下に投げた後、私は外へ飛び出そうとして、部屋の中に戻り、エリスの手紙を手に持つ。
そのまま再度窓の近くまで行き、外へ飛び出した。
魔力を使って衝撃を吸収したいところだけど、魔力を使うと居場所を感知される。
何らかの手段で監視されているのなら、逃げ出したことはもうバレたかもしれないし、そうでないかもしれない。
居場所がバレるリスクは最低限に抑えたかった私は、魔力を使わずに着地する。
強い衝撃が足にあったが、行動できなくなるほどではない。
すぐに鞄を拾い、手紙を鞄にしまった私は、大聖堂の外へ向かって駆け出す。
大聖堂の広い庭を駆け抜けた先は、高い壁で囲まれ、門には門番がいる。
門番に負けるつもりはなかったけど、戦えば確実に居場所がバレてしまうし、手間取ってしまうと教会の人たちに捕まってしまう。
私は、足に魔力を込めて跳躍する。
私は何なく壁を乗り越えることができた。
ただ、今この瞬間に、私の居場所はバレたと仮定して動くことにする。
多少は距離を稼げたが、それだけではきっと逃げきれない。
私はそのまま魔力を弱めず、神都の外へ向かって駆け出した。
神都の真ん中に位置する大聖堂の周りは、高位の神官や街の有力者が暮らす高級住宅街。
そこを抜ければ商業施設があり、その外は一般の信者が暮らす街。
そのさらにその外は、大聖堂の周りと同じ高い壁で囲われていた。
修道服を着ながら魔力を込めて走る私。
教会からの急ぎの使いに見えて欲しいと期待薄な願いを抱きながら、広い神都を駆け抜ける。
二年間鍛えられた肉体と魔力のおかげで、大した疲れもなく一番外の壁まで辿り着いた私は、再度跳躍し、壁の外に出た。
神都の外は畑の広がるのどかな景色だった。
向かう先は東の王国。
二千年に渡り神国と敵対関係にある王国なら、私を匿ってくれるかもしれない。
そう思って再度駆け出そうとする私。
ーージュッーー
何かが焼けるような音がするのと同時に、私の右足に激痛が走る。
あまりの痛みに膝をつく私。
「いたぞ、魔女だ!」
声のした方を振り向くと、数十人の人たちが、私の方へ向かってきている。
「聖女候補者を皆殺しにした凶悪な魔女だ。皆油断するなよ」
私に罪をなすりつけたのか。
聖女様……いや。
あの女は聖女なんかではない。
悪魔だ。
あの悪魔はこの場にいない。
二年間鍛えた私は、一対多数でも負けないだけの実力を身につけた。
あの悪魔さえいなければ、私は戦える。
『ヒール』
まず私は、焼け爛れた右足を治癒した。
そして右手を、私を追いかけてきた人たちの方へ向ける。
この人たちは悪ではないのかもしれない。
……でも、私は死ぬわけにはいかない。
そして私は、生まれて初めて、訓練以外で全力の戦闘を行うことになった。
「うっ……」
私は、疲労による眩暈で倒れそうになる。
『ヒール』
そんな疲労を魔法で誤魔化しつつ、私は森の中を進む。
私は、追っ手との戦闘には勝った。
ただ、無傷というわけにはいかず、魔力も枯渇した。
何より、生きるためとはいえ、もしかしたらあの悪魔の命令を聞いているだけの悪ではない人たちを大勢殺傷した罪悪感が辛かった。
神都を離れた私は、東の王国との境にある森をひたすら東へと進んでいた。
少しでも神都から離れたい一心で、最低限の魔力が回復したら、すぐに出発し、魔力が枯渇してきたら少しだけ休憩するということを繰り返していた。
水は魔法で生み出せるから問題なかったが、食べ物はなかなか得られない。
時折毒のない野草を見つけては口にしていたが、それだけでは空腹は紛れなかった。
そして、頻繁に襲ってくる魔物たち。
異形のものから動物の姿に似たものまで。
最初のうちは恐怖のあまりうまく戦えなかったけど、慣れてきたら作業と一緒だ。
淡々と殺していく。
姿が動物に近いものは毒見をしながら食料にした。
幸い、少し臭いを嗅いだり、舌で触れたりするだけで大抵の毒は分かる。
たまに失敗するけど、魔法で治癒すれば問題なかった。
エリスのものを拝借した純白の服は、いつの間にか血と汗で変色していた。
魔法で洗濯してみるが、うまく汚れが落ちない。
汚れはどんどん蓄積していった。
どれくらい森を彷徨ったか分からないけど、かなりの日数が経ったことは間違いなかった。
疲れと傷は魔法で癒せていたけど、摩耗していく精神は癒せない。
いつ魔物に襲われるか分からないので、満足に寝ることのできない日々。
誰とも接するとなく、いつまで続くか分からない逃避行を続ける日々。
そんな時に現れたのは、今まで見たことのない異形の魔物だった。
巨大で爛れた顔に、ぬるぬるとした気持ち悪い無数の触手。
悍ましい臭いとともに感じる不吉な気配。
そして、感じる魔力量は今まで出会ったどの魔物よりも多かった。
逃げよう。
そう決めて、足に魔力を込めた瞬間だった。
ーーネチョッーー
嫌な音を立てて、私の左足の足首に巻き付く触手。
魔力を消して下から忍び寄っていた触手に気付かなかった。
「い、いやっ!」
私は右手に魔力を込めて、足に巻き付く触手を切り落とそうとする。
ーーネチョッーー
でも、その手も背後から忍び寄っていた触手に絡め取られる。
半狂乱になった私は、左手と右足に魔力を込めて暴れようとした。
ただ、その左手と右足もあっけなく触手に囚われる。
なす術のなくなった私。
触手に両手両足を取られた私は、ゆっくりと魔物の方へと引き寄せられていく。
こんな最後は嫌だ。
でも、森には誰も助けてくれる人なんていない。
まだ恋もしていないのに。
エリスの遺書の通り、幸せになろうと思ったのに。
せっかく悪魔の女ら教会から逃げられたのに、私の人生はこんなところで終わってしまう。
鼻が曲がるような腐臭のする魔物のすぐ側まで引き寄せられた私。
抵抗しようと体に魔力を巡らせようとしたけど、魔力が上手く体に満ちない。
それどころか、どんどん魔力が抜けていく。
触手から魔力が吸い取られているようだった。
このままだとまずい。
この二年でかなり鍛えられてはいるが、それでも、魔力が使えない私では、強力な魔物から逃げ出すことはできない。
どんどん魔力が抜けていく私の体に、両手両足に絡んでいるもの以外の触手が伸びてくる。
まるで涎でも垂らすかのように滴り落ちてくる粘液。
死にたくない。
そう思っても何もできない私。
ごめん、エリス。
心の中でそう謝って、私は目を閉じた。
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