第76話 聖女①
神国の北の外れ。
神都から遠く離れた極寒の地が私の生まれた土地だ。
あまりの寒さに、冬を越せない者も多い。
毎年冬は、家族全員が年を越せるよう女神様に祈る。
ただ、私が生まれてから、ただの一度も村人全員が無事に年を越せたことはない。
こんなことを口にしたら、宗教裁判で間違いなく死刑だが、もし本当に女神様がいるのなら、毎日心の底から祈る村人たちを救わないのはなぜなのか。
力がないのか、慈悲がないのか分からないが、私はそんな神を心の底からは信じることができなかった。
ただ、村人たちはそうではない。
信心が足りないのかと、祈りの時間を増やし、少ない収入から絞り出してお布施を行う。
そんな村人たちを、私は冷めた目で見ていた。
こんな国で生まれたくなかった。
鉄の掟で縛られた軍事大国である帝国や、お金が全ての商国に行きたいとは思わないが、自由と平等の国である王国には憧れていた。
飢える人もなく、好きな職に就き、好きな相手と結婚する。
豊かであたたかい国。
飢えに怯え、生きるために割り振られた仕事を行い、神の名の下に教会に決められた相手の子を産む。
……その前に、神と近づくため、聖職者の汚い中年に処女を捧げるという最低な儀式もあるのだが。
教会は他国の情報を規制していて、神都に近づくほどその規制は厳しかったが、北の帝国や西の王国との国境が近いこの村では、他国の情報も入ってくる。
自給自足では立ち行かないこの村では、国境を越えた帝国や王国での出稼ぎも貴重な収入源だからだ。
教会にバレたら処刑されるが、背に腹は変えられない。
飢えて死ぬか、殺されて死ぬかの違いでしかなかったからだ。
信心深い村人も、この件ばかりは教会に密告したりはしない。
それでは他国に移住すればいいかといえばそんなことはなかった。
国を逃げ出した神国民には、神都からの刺客が差し向けられ確実に殺される。
この村からも過去には逃げ出した人もいるらしいが、家族すら連絡がつかなかったその人は、惨殺体となって家の前に転がされていたそうだ。
そんな閉塞した国の中での楽しみは、出稼ぎに出かけた村人から聞く、王国の物語だ。
特に約二千年前の王国設立時の物語が好きだ。
神国では禁書扱いで絶対に持ち込めない話を聞く。
出稼ぎの人からの又聞きだから、多少はオリジナルとは違うのかもしれないが、そんなことは問題にならないくらい面白かった。
その中でも一番興味があるのは王国を設立し、二千年続く平和な国の礎を築いた、伝説の勇者だ。
神国から見れば女神様を封印した大悪だけど、王国から見たら大英雄。
そんな勇者には、九人の王妃がいたという。
千年不敗だったと言う魔王も。
王国の歴史に変革をもたらした大賢者も。
旧王国の気高いお姫様も。
数千年を生きた龍の女王も。
全ての獣人を従える白き獣人の王も。
みんなが勇者を愛し、幸せに暮らしたという。
神国の汚い聖職者たちとは違い、自分の魅力で名だたる女性たちを虜にした勇者。
九股をされるのは嫌だけど、それだけの魅力がある男性がいるなら出会ってみたい、というのが私の夢だ。
この狭い村や、宗教で頭が硬くなった神国の人には、そんな男性はいないだろうから、夢は夢のまま終わるのだろうけど。
教会に決められた伴侶が、運良くマシな男性であることを祈るばかりだ。
短い夏の間に最低限の食料を蓄えるため、農作業に従事する村人たち。
子どもの私も例外ではない。
日が登り始めてから沈むまで、ずっと畑で作業する。
その農作業期間が、出稼ぎに行っていた人たちから話を聞く少ない機会の一つだ。
「ねえねえ。また新しい話聞かせて」
私にせがまれた隣の家のおじさんが考えるそぶりを見せる。
「もう大体話したからなぁ。俺も出稼ぎで疲れてる中、物語ばっかり仕入れてるわけじゃないんだけど。あとは神国じゃとても話せないような話しかないからな」
私はおじさんの言葉に目を輝かせる。
「それ聞きたい!」
私の反応に困った表情のおじさん。
「いや、だから話せないって。『聖女の恋』なんて、女神様だけに全てを捧げる聖女様が、他の誰かに恋する話なんてこの国で話せるわけないだろ」
おじさんの言葉に私はますます興味を惹かれる。
「聖女ってあの聖女様? すごく聞きたい!」
私の言葉にしまったという顔をするおじさん。
私のしつこさを知っているおじさんは、しばらく考えた後、諦めた顔をして、小さな声で私に耳打ちする。
「聖女様って言っても二千年前、王国の大悪に女神様を封印された時の聖女様の話だ。傷心の聖女様は、共に大悪と戦った同郷の男と駆け落ちしたらしい。その時の聖女様は、女神様のために命を捧げる覚悟だったっていうのが、神国で語られてる内容だから矛盾してる。王国が聖女様のことを面白おかしく語ってるだけだろう」
それでもその話には夢がある。
この国で一番女神様のことを信仰しているはずの聖女様が、その信仰を捨てるほどに誰かに恋するなんて。
私も誰かにそんな恋をしてみたいという気持ちがさらに強くなる。
「まあ、そんな話だから多分適当な話だと思うが、駆け落ちした聖女様は、北の外れの静かな村で暮らして、子どもを育てたって話だ。もしかすると俺たちの祖先が聖女様かもしれないな」
おじさんは冗談のようにそう語ったが、私は真剣に考えた。
もしそうだとするとなんて素敵な話なんだろう。
私の中にも聖女様の血が流れていて、燃えるような恋をしてみたいと思うのが、その血のせいだとしたら。
そんな想像をしてしまうほどに、簡単に語られたその話は、私の心に響いた。
「あんたたち! サボってないで働きな!」
こそこそ話しをする私たちへ、おじさんの奥さんが叱る言葉を投げかけてきた。
「話は終わりだ。これ以上女房を怒らせられないからな」
おじさんはそう言うと、私から離れて自分の作業に戻り、私もそれにならうことにした。
作業の後、夕陽が沈みかけ、黄昏に染まりつつある道を家に帰ると、家の前にこの村担当の聖職者がいた。
私の処女を奪うことになる、汚らしい中年男性。
最低な男ではあるが、出稼ぎの件を教会に黙ってもらっているため、誰も逆らえないこの村一番の権力者。
清貧を尊ぶべき聖職者の彼は、食べ物が少ないはずのこの村でぶくぶくと太り、ひたいに汗を浮かべ、少し離れていても伝わってくる汗臭い体臭を撒き散らしていた。
私は嫌な予感がした。
この汚らしい中年は、若い女性を好むと聞いた。
私はまだ初潮を迎えていないが、この男は、そんなことはお構いなしだと聞いたことがある。
王国のように、初めては好きな相手に捧げたいというのはこの国では無理だろうが、せめて、人並みの相手が良かった。
落胆で足取りが重くなる私に、聖職者の男が告げる。
「さっさと歩け。お前に神都から来客だ」
聖職者の男の言葉で気付いたが、彼の横には、確かに見慣れない女性が立っていた。
よく注意してみなければ気配が消えてしまうような朧げな存在感の女性は、私と目が合うと、急にその存在感を増した。
「お前。この娘に手は出してないだろうな?」
聖職者の男は怯えるように首をブンブンと縦に振る。
「も、ももももちろんです」
それを聞いた女性は、フンッと鼻を鳴らす。
「よかったな。お前の悪評は聞いている。辺境だから放置しているが、この娘に手を出していたら、二度と女を抱けない体になるだけじゃ済まなかったからな」
女性がそう言って聖職者の股間を見ると、聖職者は怯えたように股間を両手で隠した。
女性はそんな聖職者の男には興味がなさそうに視線を離し、私の方を向く。
今まで感じたことのない威圧感に、私は背筋が凍る。
「おい、娘」
私は女性の言葉に、ピンと真っ直ぐ立ち返事をする。
「は、はい! 何でしょうか?」
そう答える私に、女性は決定事項のように告げる。
「今からお前を神都へ連れて行く。三十分以内に支度しろ」
……そうしてこの日。
平和だった私の生活は終わり、血と呪にまとわりつかれる生活が始まった。
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