第71話 王の息子②
「何だ、小僧?」
少女の髪を掴んでいる男が、僕を睨みながらそう言った。
僕の胴より太い腕。
ボサボサの髭が生えた赤ら顔。
お城の中で大事に育てられている僕は、このような男に会ったことはなかった。
恐怖に膝が震えるが、僕は何とか言葉を絞り出す。
「そ、そんな子どもに暴力はいけないよ」
僕の言葉を聞いた男はボサボサの頭をかく。
「いいか、小僧。このガキは俺の店のものを盗んだ。腹を空かせたんだろうな。孤児で、親もいなくて、金を払えない。盗みを働いて、金も払えない奴は、この国ではどう扱ってもいいことになってる。だから正しいのは俺だ。分かったらとっとと失せろ」
ガリガリに痩せた腕。
荒れた肌。
少女はしばらく何も食べていないのだろう。
王国なら国の保護制度があるから、親がいなくても食べ物には困らない。
だから、こんな子どもと接する機会はなかった。
商国の理屈では、正しいのは、この男の方。
それは僕でも分かった。
それでも僕は譲れない。
「それなら、代わりに僕を殴ってよ。それ以上殴れば、その子は死んでしまう」
僕の言葉を聞いた男はニヤリと笑い、少女の髪を離す。
どさりと地面に座り込む少女。
「かっこつけの小僧が。いいだろう。世の中ってもんを教えてやる」
不思議そうな目で僕を見る少女に微笑みかけた後、僕は男の方へ歩み寄る。
僕には何もない。
男を倒す力も。
この場を切り抜ける頭も。
でも、少女の代わりに殴られることならできる。
僕が殴られる決意をし、さらに一歩踏み出した時だった。
「待ちなさい」
そう声を上げたのは遅れてやってきたお母様だった。
「この小僧の母親か? この小僧がそのガキの代わりに殴られるって言い出したんだ。今度はお前が代わりに殴られるとでも言い出すのか?」
そう言いながら、男は下卑た目でお母様を上から下まで舐め回すように見る。
「まあ、お前が相手してくれるっていうなら、小僧もそのガキも見逃してやってもいいぞ?」
何の相手かは分からなかったが、良くないことであるのは分かった。
僕が勝手をしたせいで、お母様が良くない目に遭う。
そう思った時、お母様は男にずしりと重たそうな袋を渡した。
「それだけあれば足りるでしょう? この子達を解放しなさい」
男は袋の中を見て、ゲヘヘと笑う。
「しょうがないな。この国では金が全てだからな」
男はそう言うと、ご機嫌そうな様子で、あまりにもあっけなく、僕たちに背を向けて去っていった。
揉め事が解決したのが分かった人々も、この場を去っていく。
三人だけになった後、お母様がじっと僕を見る。
「ごめんなさい、お母様」
そう言って頭を下げる僕にお母様は言う。
「謝るのは後。それよりこの子よ」
お母様はそう言って、地面にへたり込んだままの少女の近くに寄る。
「これは酷いわ……。ルークが助けに入らなければ死んでたかもしれないわね」
お母様はそう言うと、右手を少女に向ける。
お母様の手が光ると、少女の怪我がみるみる治っていく。
それでも、痩せこけた頬と虚な瞳は治らない。
「栄養が足りてないわね。魔族用の食事はないから、私の血をあげるわ」
そう言って懐から出した短剣で、自分の手を切ろうとするお母様。
目の前の少女が魔族なのは、瞳の色と口から覗く牙で分かっていた。
王国に戻れば大賢者様が開発したと伝わる魔族用の食事があるが、他の国では流通が少ない。
王国以外の魔族の主食は、人間の血だ。
混血の血でも大丈夫だというのも勉強で習っていた。
「お母様。僕の血をあげる」
そんなボクを見て驚いた顔をするお母様。
「痛いのがが嫌いなルークがそう言うなんて……。分かったわ」
お母様が短剣でボクの手のひらを切った。
ーープスッーー
痛みに泣きそうになる。
いつもの僕なら間違いなく泣いていた。
でも、自分以上に痛い目にあった少女の前で、僕は泣くわけにはいかない。
少女の口の前に僕は手のひらを出す。
少女は僕の顔を見た後、恐る恐ると言った様子で手のひらの血を舐める。
生暖かい舌が手のひらを這う、不思議な感触。
それを感じていたら、少女の肌が瑞々しさを増し、虚な目が大きく開く。
それを見たお母様が少女に尋ねる。
「貴女、お名前は?」
お母様の言葉に少女は首を横に振る。
「ナマエ、ナイ」
カタコトの言葉で話す少女。
「お家はどこ?」
続く質問にも、首を横に振って答えてきた。
お母様は肩をすくめた後、僕の方を向く。
「ルーク。なぜ貴方が急にこの子を助けに行ったのかは分からないわ。でも、一つ言えるのは、今回助けたのはその場しのぎに過ぎない。またすぐにお腹を空かせ、同じ目に遭うのは目に見えてるわ」
僕自身もなぜあんなことをしたのか分からない。
でも、この子の目を見た瞬間、ボクはこの子を助けなきゃと思った。
まともに言葉も話せない小さな女の子。
綺麗な目をしたこの子を、僕は見殺しになんてできなかった。
「この子をお城に連れて帰ったらダメかな?」
ボクの言葉に、お母様は今までに見たことないくらい厳しい顔をする。
「ルークはちゃんと考えて言ってる? 人はベッドじゃない。この子の人生に責任を持てるの? それに私たちは王族。王族が城に人を招き入れるのに、意味を見出す人たちもいるかもしれない。この子のように酷い境遇の子はたくさんいる。その中でこの子だけを特別扱いする意味は何かしら?」
お母様は強い口調でそう言った。
いつもなら泣いていたかもしれない。
でも僕は真っ直ぐお母様の方を向いて答える。
「僕だって知らない子どもをお城に連れて帰ることが、どれだけ難しかは分かる。お母様の質問にも全部は答えられない。でも!」
僕はお母様の目を見て訴える。
「この子のことは僕が責任を持つ。今は無理だけど、うんと勉強して、お父様にも負けないちゃんとした大人になって、責任を持てるようになる。この子を連れて帰ってくれる意味は、ボクが立派な王になることじゃダメかな?」
僕の言葉にお母様が微笑む。
「いいわ。ルークからそんな言葉が聞けるなんて思ってなかった。それなら意味がちゃんとある。お父様も周りも私が説得する」
お母様はそう言うと、少女の方を向く。
「貴女もそれでいい?」
少女はじっと僕を見た後、ゆっくりと頷く。
それを見たお母様が、イタズラっぽい顔でボクを見た。
「やっぱり恋の力は凄いわね。ルークがここまで変わるなんて」
お母様の言葉に僕は慌てる。
「こ、恋?」
お母様はそんなボクを見てニヤニヤしながら頷く。
「そうでしょう? そうじゃなきゃ、お父様の言いつけを無視して、戦う力もないのに助けになんて行かないわ。一目惚れでそこまでさせるなんて、この女の子が大人になるのが怖いわ」
僕は激しく首を横に振る。
「そ、そんなんじゃないよ!」
そう答える僕にお母様は首を傾げる。
「じゃあ何なのかしら?」
お母様の問いに僕は答えられない。
あの時の自分の行動が分からない。
とにかく、この子の目を見た瞬間、自分が自分じゃないみたいに体が動き出した。
「……運命?」
その言葉を聞いた瞬間、お母様が噂好きのメイドの女の子みたいな目をして声を上げる。
「きゃー! 運命なんて、なんてこと!」
お母様はそう言ってはしゃいだ後、頭を下げる。
「ごめんなさい、ルーク。恋なんてそんな半端なものじゃなかったのね。運命の相手。何てロマンティックなのかしら。私もお父様と会った時には……」
そう言って妄想の世界に入りそうになるお母様をボクは止める。
「ち、違うよ! そういうんじゃなくて……」
妄想の世界に入ったお母様には僕の言葉が届かない。
代わりに少女が首を傾げる。
「ウンメイ?」
慌てて否定しようとして、僕は考え直す。
曇りのない純粋な目をしたこの子に、その場しのぎの否定はよくないと思ったからだ。
「うん。今日ここで君と出会って、僕が君を助けることができたのは、きっと運命なんだ」
それ以外考えられなかった。
自分が自分らしくない行動をとった理由は、他に説明できない。
「それはプロポーズかしら?」
横でお母様がニヤニヤしながら尋ねてくる。
「そ、そんなんじゃないってば」
そんなやりとりをしながら、僕たちは少女を連れてお城へ戻った。
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