第9話 鬼神の娘①
「お父様、お帰りなさいませ。早速稽古しましょう」
私のお父様は、鬼神だ。
数いる鬼の中で最も強い鬼。
鬼の中の頂点に立ち、尊敬を集める存在。
そんな自慢の父親だ。
「今日はやめないか? 仕事で疲れているのだが……」
「またまたご冗談を。鬼神であるお父様が、たかだか一日の事務仕事程度で疲れるわけがないでしょう? 早く表に出ましょう」
「いや、悪い。確かに仕事に関してはそうだが、花との稽古は本当に疲れて……」
「何をごちゃごちゃおっしゃっているのですか? 時間がもったいないので早く!」
お父様は強い。
本気で戦えば、私なんて息をつく間もなく倒されてしまうだろう。
でも、物心ついた頃から、そんなお父様に毎日時間の許す限り鍛えてもらっている私も、鬼の世界で上位に入れそうなくらいには強くなっていた。
「今日は何をいたしましょう?」
お父様には、純粋な肉体の強化から、人間の武術、金棒術、その他実戦のコツや、毒への耐性のつけ方まで、様々なことを教えてもらっていた。
「花に教えることはもうないのだが……」
「またまたご冗談を。私はまだまだお父様には敵いません。きっとまだ教えていただいていないことがあるからです」
「それは経験の差だ。経験さえ積めば、花は私よりも強くなる」
「分かりました。それでは経験を積むために、今日は実戦形式でお願いします」
「ぐっ……」
返す言葉を失ったお父様は、ふーっと溜息をついた。
「仕方ないな……」
お父様はしぶしぶ私の申し出を受け入れた。
今日に限らず、お父様が私のお願いを断ることはほとんどない。最初は抵抗するのだが、最後は必ずうんと言ってくれる。
私にお乳を与えてくれていた乳母のおば様の話では、昔のお父様は泣く子も黙る恐ろしい鬼だったらしい。でも、今ではそのような面影はなく、ただの優しい鬼だ。
お祖父様も同様だ。
非道な鬼として有名だったらしいが、今は孫の私から見ても、孫を甘やかす、優しいお祖父様だ。
鬼という生き物は人間と違い、ものすごく単純だ。
自分が間違っていたと気付けば、すぐにその間違いを直す。
一つのきっかけで、ころっと人が変わったようになる。
だから他の種族には騙されやすいのだが、鬼の世界に相手を騙すようなものはいない。
よく相手を騙すという人間とはそこが決定的に違う。
戦闘の際には、鬼も、相手の裏をかくために、当然牽制を入れて、ある意味相手を騙すのだが、それはまた別の話だろう。
上位者同士の闘いは、牽制の応酬だ。
牽制のうまさ、それに対する判断が、強さを分けると言っても過言ではない。
私とお父様では、そこに決定的な差がある。
その差を埋めるには実戦をこなすしかない。
同じ相手とばかり戦うのは、本当は良くないのだが、もはや村には、お父様以外で私とそれなりに闘える鬼は数少なくなってしまった。
他の村にはまだまだ私より強い鬼がいるのだが、そうそう頻繁に他の村へ行けるものでもない。
必然的にお父様との稽古が増える。
「今日はこの辺にしようか」
二十回程私が敗れた後、お父様はそう言った。
その言葉に私は項垂れる。
「今日もお父様には一度も勝てませんでした……」
そんな私の肩を叩きながら、お父様は笑う。
「そう気を落とすな。三回ほどはヒヤリとする場面があった。花は着実に強くなっている」
私は自分の表情がパッと明るくなるのを感じる。
「では、私も鬼神になれますか?」
私の夢は鬼神になることだ。
誰よりも強くて、誰よりも優しく、鬼のみんなから慕われる、お父様のような鬼になることが私の夢だ。
「花ならきっとなれる。強さだけじゃなく、優しさと責任感と周りの鬼への感謝の気持ちを忘れなければな」
「はい! お父様を見ているので、それは大丈夫です!」
私がそう答えるとお父様はとても嬉しそうな顔をした。
「その為には、まずは身内贔屓だと思われないよう、誰よりも強くならなければな」
「はい! それではもう少しだけ稽古を……」
私がそう言うと、お父様は焦った素振りを見せる。
「い、いや。今日は遅いし、腹も減った。また明日にしよう」
「分かりました……」
私はしぶしぶ頷く。
お父様はほっとしたように胸をなで下ろす。
「今日の夕飯は?」
「お父様の大好きな肉じゃがです」
私はそう答えながら、皮膚の硬化を解き、お父様の腕に抱きついた。
抱きつかれたお父様が顔を赤らめる。
「こ、こら。花もいい歳なのだからやめなさい」
私は今年で十六歳になった。
早い鬼なら嫁に行ってもいい歳だ。
「お父様、実の娘相手に照れているのですか?」
「い、いや、そんなことは……」
タジタジになるお父様は、可愛らしい。
からかっているわけではないが、そんなお父様を見るのは、私の楽しみの一つだ。
私はお父様が好きだ。
世界一好きだ。
この好きは、恐らく、普通の家族としての好きを超えている。
異性としての好きかと言われるとよく分からないし、お父様も、絶対に私を異性として見ることはないだろう。
それでも好きだった。
お父様を超える男が現れない限り、私は独り身のままだろう。
幸せな家庭は築きたいが、半端な男と結婚したくはなかった。
お父様以上の男がいるとは思えないが、とりあえずそのことを考えるのはやめにした。
今はお父様と一緒に過ごすこの時間を大切にしたい。
もちろん、好きだからという理由だけじゃない。
感謝を伝えたいという気持ちもあるからだ。
男手一つで私を育ててくれたお父様には、感謝しても感謝しきれない。
近所で子育ての手伝いをしたことのある私は、男親だけでの子育てがどれほど大変か分かっている。
オシメの交換なんて楽な方。
食事の準備に夜泣き。
頑張って作った食事を食べないこともあれば、全く寝付かないこともある。
泣いている原因が分からず途方にくれることもあれば、熱を出して焦ることもある。
鬼神という、鬼の社会で最も重要な立場について激務をこなしながらの一人での子育ては、想像を絶する大変さだろう。
反抗期になる子供がいるというが、それは親の大変さを知らないからだ。
自分の存在が誰のおかげであるのかを知らないからだ。もし知っていれば、頭が上がらないどころではない。
私は知っている。
お父様の大変さも偉大さも。
鬼神である以上に、一人の鬼として、お父様のことは尊敬できる。
そんなお父様の娘に生まれた私は幸せだ。
私が物心ついた頃には、お母様はすでに亡くなっていた。それで寂しい思いをしたことがないと言えば嘘になる。
でも、寂しさを補って余りある愛を、お父様は私に注いでくれた。
いずれ私が結婚するとしたら、あと何年一緒に過ごせるか分からない。
だから一緒にいられる間は、精一杯の感謝の気持ちを伝えたい。
『親孝行、したいときには親はなし』などという諺が人間の世界にはあるようだが、もしそんなことになってしまっては目も当てられない。
「お父様」
「何だ?」
「今日もお背中お流ししましょうか?」
私の問いに、お父様は再び顔を赤らめる。
「こ、こら! 家の外でそんな誤解を招くことを言うんじゃない。風呂などここ数年一緒に入っていないではないか。今日もなどと言うと、私が普段から花と風呂に入っているようではないか」
「親子で風呂に入ることに何か問題でも? それともまさかお父様、娘である私の裸を見て欲情するとでもおっしゃるのですか? 鬼神であるお父様が欲情したとおっしゃるなら、私としては受け入れざるを得ませんが……」
お父様はさらに焦る。
「よ、欲情などするわけがない!」
「それなら問題ございませんね」
「い、いや、それは……」
お父様がごにょごにょと言葉を濁す。
「あれ? 鬼神であるお父様が自分の言葉に責任が持てないとおっしゃるのですか?」
「そ、そんなことはない。」
「やった。では決まりですね。お父様とお風呂だ!」
「だから声が大きい!」
「お父様のほうが大きいですよ」
お父様が本当に欲情したらどうしようと少しドキドキしながらも、お父様と過ごす時間に幸せを感じながら、お父様と私は家に向かった。
これではお父様へ感謝を伝えようとしているのか、私が楽しみにしているだけなのか分からない。今後、このお父様への気持ちをどうすべきかは、明日以降考えることにして、今夜はお父様との時間を目いっぱい楽しもう、そう心に決めた私は、お父様の腕に抱きつく力をキュッと強めた。
「花、何かいいことあったの?」
翌日、親友である紅葉から、会うなり突然そう言われた。
紅葉は非常に美しい鬼だ。鬼は私も含めてみんな基本的に整った外見をしているが、その中でも紅葉は特に美しい。女の私から見てもそうなのだから、男の鬼から見れば特にそうだろう。
強さばかりが優先される鬼の世界でも、紅葉の美しさは特別だった。
「べ、別に何もないよ」
私は目をそらしながらそう答えた。
「そんなバレバレの嘘はいいから、早く答えなさい。いくら鬼でも、そんな嘘には騙されません」
紅葉は大きな目で私を睨んだ。紅葉みたいに美しい鬼になら、睨まれるのも悪くないなと思いつつ、私はしぶしぶ答えた。
「昨日お父様と一緒にお風呂に入っただけだよ」
「な、何ですって!」
大声で叫んだ紅葉の表情がみるみる歪んでいく。
やばい。これが女の鬼の怒りや嫉妬が限界を超えたときに現れるという、般若というやつか、と思った時、紅葉の表情が元に戻った。どうやら自分で冷静になってくれたようだ。
「ごめん、あまりにも衝撃的だったから、抑えがきかなくなりそうになった」
「だ、大丈夫だよ」
お父様と対峙した時のような寒気を感じたが、そのことは黙っておくことにした。
「花はいいな。私だって鬼神様と仲良くなりたい」
紅葉は、鬼神であるお父様に惚れていた。
お父様は鬼の世界の独身女性のあこがれの的だった。
強さが魅力である鬼の世界で頂点に立つ鬼神。
それだけでも十分過ぎるのに、優しくて責任感があり、年齢的にもまだまだ老いてはいない。
紅葉は私の目をじーっと見つめると、急に大声をあげた。
「やっぱり花だけずるい! 私だって鬼神様とお風呂入りたい!」
「しーっ! 他の誰かに聞かれたらどうするの!」
私は慌てて口に人差し指をあてる。
紅葉は冷たい目を私に向ける。
紅葉のファンならそんな冷たい目線でも嬉しいのかもしれないが、あいにく私は親友であってもファンではない。
「バレて引き離されればいいのに」
「百歩譲って私に対してはそれでいいとしても、お父様の評価まで落ちるでしょ!」
私の話を聞いた紅葉は目を輝かせる。
「それは一石二鳥だわ。ライバルが減ってちょうどいい」
お父様の評価を気にもかけない紅葉に、私はカチンときて構えをとった。
「お父様の名誉を傷つけようというのなら、紅葉でも許さないよ」
それを見た紅葉も構えをとる。
「望むところよ。いつまでもあなたの方が強いままだと思わないことね」
紅葉は強い。
この村で私と渡り合える数少ない鬼の一人だ。
同年代では唯一と言ってもいい。
今のところはまだ私の方が強い。
だが、あくまで今のところは、だ。
私は毎日お父様に鍛えていただいてもらって、自分一人でも一日のほとんどの時間を鍛錬に使っている。
私だってどんどん強くなっているはずなのに、二人の差は一向に広がらない。
この村にお父様以上に教えるのがうまい鬼はいないから、紅葉は私以上に努力していることになる。
友達ながら尊敬に値する鬼だ。
「喧嘩か?」
拳を交えようとしたその時、突然お父様の声がした。
私と紅葉は揃って両手を引っ込める。
「い、いえ、これは……」
忙しいはずのお父様のいきなりの帰宅に私は焦る。
若者が喧嘩すること自体は鬼の世界では悪いことではない。
闘いは己を磨くことに繋がる。
素手で一対一である限り、問題ではない。
だが、今回は理由が理由だ。
お父様と一緒にお風呂に入ったことを自慢したのが原因だと知られたら、さすがのお父様でも怒るかもしれない。
そんな私の気持ちを察したのか、紅葉がニヤッと笑った。
まずい!
紅葉の口を塞がなきゃ!
そう思うより早く、紅葉が口を開いた。
「実は花が、昨日鬼神様とお風呂に入ったことを自慢してきたのです。他にも言いふらそうとする花を止めるために喧嘩になりました」
「よくもぬけぬけと!」
声をあげる私に対し、紅葉はお父様に見えないよう、こっそりと舌を出す。
お父様は私を見た。
「本当か、花?」
表面上は怒っているようには見えないが、内心は分からない。
「いえ、言いふらそうとは……」
私はしどろもどろに答える。
「でも風呂に入ったのは言ったのだな?」
私は俯く。
「はい……」
「あれほど誰にも言うなと言ったのに……」
私は返す言葉がなく、ますます俯いてしまう。
「鬼神様」
俯く私を尻目に、紅葉が口を開く。
「安心してください。花がこれ以上広めない限り、私は誰にも言いませんから」
紅葉のやつ!
自分の点数稼ぎをしようとする紅葉のことを怒鳴りつけたいところだが、立場上、今の私は何も言えない。
「本当か? それは助かる。世間体などそれほど気にはしないが、流石にこんな話が広まるのは困るからな」
お父様はホッとしたように紅葉に笑顔を向ける。
「その代わりお願いがあります」
「何だ? 私にできることなら何でも言ってみなさい」
紅葉はニコッと笑う。
「私とも一緒にお風呂に入ってください」
「……えっ?」
お父様と私は同時に声を上げる。
「いや、流石にそれは……」
お父様は断ろうとする。
「なるほど。鬼神様は娘の花に特別な感情をお持ちなのですね。鬼の社会では鬼神様がルールです。鬼神様が実の娘とそういう関係だとしても誰も何も言わないでしょう。」
お父様は焦る。
「いや、そういうわけでは……」
「では十六にもなる娘と一緒にお風呂に入る理由は何でしょうか?」
お父様は焦りながらも必死で考えるが、答えが出てこないようだ。冷や汗をかくお父様を初めて見る。
困ったお父様を見て、紅葉は満面の笑みを浮かべる。
「ということで、特別な感情などなくとも、十六の女性とお風呂に入れるということなら、私とも入れますよね?」
これは非常によくない。
紅葉のこの勢いに押されてしまっては、最悪、既成事実を作るところまで持って行かれかねない。
仕方なく私は口を挟む。
「そうです。お父様くらいにもなれば、十六の小娘とお風呂に入ったくらいじゃ何とも思いません。だから……」
そこで私はお父様のほうを向く。
「次は三人で入りましょう」
紅葉が私を睨む。
私が側にいる間は、紅葉の好きにはさせない。
だが、そんな私の覚悟を知ってか知らずか、お父様は汗をかきながら頭をかいた。
「えーと、その、そう言えば急ぎの仕事があるんだった! お前たち、見慣れない男を見なかったか?」
私と紅葉はそろって首を横に振る。
「いいえ」
「そ、そうか。とりあえず見慣れない男がいたら、絶対に近づかずに私に知らせること。それじゃあ他を探してくる」
お父様はそう言うと、その場を走り去って行った。
結局お父様が何をしに戻ってきたか分からなかったが、紅葉と私は最初と同じように二人になった。
「何で邪魔するの? 花はどうせ結婚できないんだから早く諦めなさい。ファザコンもそこまで行くとキモいわよ」
紅葉が、悪戯する娘をたしなめる母親のような口調と、人間の間で最近流行っていると言う若者言葉で私に言う。
その口調が、さらに私の感情を逆なでする。
「友達がお母さんなんてやだもん。例え諦めたって紅葉には譲らないから」
紅葉と私の間で火花が飛ぶ。
「私より強くて綺麗な女の鬼はいないのに?」
「紅葉より強い女の鬼はいない? 私に勝ったこともくせのに?」
綺麗なという言葉には触れないで、私は紅葉を睨みつけた。
「それはこの間までの話。今日、花を倒して、私は鬼神様に娶ってもらう!」
紅葉が再び構えをとった。
「何度やっても同じだよ。お父様は誰にも渡さない」
そもそもお父様は常々、お母様以外の鬼とは今後結婚しないと言っているのだが、ここでそんな水を差すようなことは言わない。
私がここで紅葉を倒せばいいだけの話だ。
紅葉というライバルがいてくれたおかげで、私がここまで強くなれたのは間違いない。その意味では感謝している。だがそれとこれとは別の話だ。
紅葉には悪いが、これからももっと私が強くなるための糧となり続けてもらう。
そのためにも負けられない。
一度でも負けたら終わりという重圧。
だが、その程度の重圧、簡単に打ち勝たなければ、お父様のような鬼神には、到底なれない。
私と紅葉の闘気が渦巻く。
喧嘩で闘気を使うのは危ないから、本当は禁止されている。
でも、私と紅葉は暗黙の了解で、より強くなるため、お互いの強さを正しく測るため、闘気を用いて戦っていた。
肌を刺す心地よい紅葉の闘気。
鬼の親友は仲良しこよしのことではない。
本気でぶつかり合える、生涯のライバルのことだ。
二人の闘気が高まり、頂点に達しようとしたときだ。
またもや邪魔が入った。
――ドテッーー
私の斜め後ろで、何かが倒れる音がした。
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