第8話 鬼神⑧
翌日の通夜には、桜の村から、義父と義姉も駆け付けた。
少し離れた人間の村にいる魔術師に知り合いの鬼経由で頼んで連絡を取ると、午前中のうちに来てくれた。
放心して何もできない私の代わりに、義姉は全ての段取りを整えてくれた。
花は朝から私の腕の中で泣きっぱなしだった。
この子のためにも、私がしっかりしなければならない。
……そう思うものの、力が入らなかった。
このままではいけないということは分かっていた。
……でも、どうしようもなかった。
傍では、冷たくなった桜を見た義父がずっと泣きながら謝っていた。
「すまない、桜。儂がおかしかった。こうなる前に、ちゃんと謝りたかった。でも、会わせる顔がないからと躊躇しているうちに……」
その後はずっと「すまない」の繰り返しだった。
こんなに変わるものなんだな、と私は他人事のように思った。
私もまわりから見たら同じようなものなのかな、とも思った。
……別の誰かが見ているのかと思うくらい、客観的に思った。
翌日の葬儀後、桜が荼毘に付され、灰の中の骨を拾う時でさえ、感情が動かなかった。
二千年前に大賢者が記したという本で読んだことがある。
これは心の防衛本能らしい。
耐えられないくらいの精神的ダメージを負うと、精神を守るためにこうなるらしい。
桜の存在は、私の全てだった。
そんな桜が死んでしまったのだ。
仕方ないことかもしれない。
今日はすっきりと晴れたいい天気だった。空では太陽が輝いている。
でも、私の太陽はなくなってしまった。
世界から輝きが消えてしまった。
桜と出会ってからの世界は輝いていた。それまで気付かなかった輝きを、桜は教えてくれた。何より、桜自身が朝日のように輝いていた。
本物の太陽が輝いていても、桜がいない世界に輝きはない。
「この後はどうされますか?」
突然、義姉が私に尋ねてきた。
気付くと火葬も終わり、辺りは暗くなっていた。
何を……と尋ねようとして、義姉の目線の先に、泣き疲れて眠る花の姿があった。
「母親なしで育てるのも大変でしょう。差し出がましい申し入れですが、私達が引き取りましょうか?」
確かに母親なしで子育てするというのは楽な話ではない。
私は乳すら与えることができない。
昨日今日は大賢者が生み出したとされる粉ミルクなる物を使ったが、鬼の世界での流動は少なく、値段も高いため、いつまでもというわけにはいかない。
私は花の寝顔を見た。
桜の面影がある、可愛い寝顔だった。
そうだ。
私には花がいる。
桜が残してくれた、もう一つの太陽。
私を照らす、もう一つの輝き。
真っ暗な世界に光が差す。
すでに薄暗くなっていたにも関わらず、景色まで明るくなったように感じる。
桜のことは身が引き裂かれるよりも辛い。
だが、花のためには、そんなことも言っていられない。
私は立ち上がった。
「申し出はありがたい。だが、花の面倒は俺が見る。それが桜との約束だ」
生気を取り戻した私の目を見た義姉が頷く。
「分かりました。困ったことがあれば、いつでも申し付け下さい。すぐに駆けつけます」
「ああ。その時はお願いする」
私はもう一度花を見た。
どんなことをしてでも、私は花を守ってみせる。
義父と義姉を送り出した後、私はまず乳母を探すことにした。
幸いなことに、金なら義父にもらったものがある。
私の家からそう遠くない範囲に花と同じくらいの年齢の子を持つ親は数人いた。
だが、母親はみんな、私がかつて、欲望のはけ口にしていた女ばかりだった。
今さらどんな顔をしてお願いしに行けばいいというのだろうか。
自分のためだったら、きっと会いに行くことはできない。
だが、花のためなら、自分の面目などどうでもいい。
私は、桜に出会う前、一番荒れていた時も離れずにいてくれた女の家に、花を背負って向かった。
出てきたのは夫の鬼だった。
「お前は……」
夫の反応を見る限り、私のことは知っているようだった。他の村ではともかく、私が住むこの村では、鬼神の次に強い私の顔は売れている。
「あんたの奥さんに用があってきた」
「誰がお前なんかに……」
夫の鬼は、女から私のことを聞いているのかもしれない。それでなくとも、私の悪い噂は広まっている。
険悪な空気になりかけた時、奥から声がした。
「待ちな。私に用があって来たんだろ?」
中から子供を抱えた女が出て来る。
かつて私が弄んだ女だ。自分の過去の仕打ちを考えると、とても許してはもらえないだろう。それでも、背中の花のため、逃げ出すわけにはいかない。
「今さら何の用? ご覧の通り、私はもう結婚したから、あんたの相手はできないんだけど」
私は花を背負ったまま、膝をつき、地面に額を擦り付けた。
「こんなこと頼めた義理じゃないのは分かっている。だが頼む。金なら払うから、この子に乳を分けてくれ」
女の代わりに夫の鬼が答えようとする。
「そんな都合のいい話あるわけ……」
「あんたは黙ってな。この人は私に話をしにきたんだ」
だが、そんな夫の鬼を女が遮る。
「でも……」
「いつからあんたは私に意見できるようになったんだ? 文句があるなら一度でも私に勝ってから言いなさい。」
「ぐっ……」
夫の鬼は黙り込む。
「顔を上げて」
私は膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「あんたさ、今さら私にお願いなんてできると思っているの? あんたに弄ばれるだけ弄ばれて、別の女ができた瞬間、何も言わずに捨てられる。そんな女の気持ちを考えたことあるかい?」
女の言うことはもっともだった。昔の私は相手のことを考えない、自己中心的な最低の鬼だった。
だが、今なら分かる。この女の気持ちも、私がどれだけダメだったかも。
「すまない。相手のことを考えられていなかった。俺は腐った鬼だった」
謝る私を見て、夫の鬼が笑う。
「クククッ。いいザマだ。」
そんな夫を見て、女が恐ろしい形相で睨む。
「お前は黙れ」
強者が発する威圧感が突如夫の鬼を襲う。
鬼神や私程ではないにしろ、この女は村でもトップクラスの実力の持ち主だ。だからこそ私が相手に選んでいた。
「ひ……」
夫の鬼は恐怖で縮み上がっているようだった。
女は視線を私に戻す。
そして、花を背中に背負った私を見て微笑んだ。
「あのあんたが、子供のために、他人に土下座するなんてね」
蔑んだ笑みではなかった。
だが、少しだけ寂しそうな笑みだった。
「いい人に出会ったんだね」
女の言葉に、私は桜のことを思い出す。思い出すだけで涙が出そうになるが、それを何とかこらえる。
「ああ。俺には勿体無い、最高の嫁だった」
私の言葉に女は苦笑する。
「捨てた女相手に、そんなことを言う?」
「すまない……」
項垂れる私を見て、女は微笑む。
「いいよ。私が乳母になってあげる」
「本当か?」
私はパッと顔を上げた。
正直、期待してはいなかった。
私は、自分がそれだけひどいことをしたと自覚していたからだ。
「ええ」
女は笑顔で頷いた。
ありがたい話ではあるのだが、理由が分からなかった。女自身が先ほど口にした通り、私は最低なことをこの女にした。
「なぜって顔しているね?」
女が尋ねてきた。
「あ、ああ」
私は素直に頷いた。
「私、あんたのこと本気で好きだったんだよ。強いか強くないかに関係なく。じゃないと、あんな仕打ち耐えられないわ。」
女の言葉に私は俯向くしかない。
「私があんたを変えてやる。そう思っていた。……結局ダメだったんだけど」
女は少し寂しそうな顔をする。
「でも、そんなあんたが再び現れた。娘の為に恥も外聞も捨てられるようになって」
女は真剣な目で私を見る。
私も姿勢を正し、女の目を見返した。
「私が惚れた時よりもっといい男になっていた。あんたと比べればクズみたいな男が相手だけど、今は私も結婚したから、あんたと結ばれることはできない。それでも、いい男の役に立ちたいって思うのが女心ってもんなのよ」
私は再び頭を下げた。
「恩にきる」
「いいってことだよ」
女は微笑んだ。
「でも悔しいな。私じゃどうにもできなかったあんたを、こんなに変えられるなんて。亡くなる前に奥さんに会ってみたかった。いい奥さんだったんだろうな」
私は頷いた。
「ああ。最高の妻だった」
「何度も言うけど、捨てた女の前で、のろけ話ばっかりしないの!」
女はそう言った後、再度微笑んだ。
今さらになって気付いたが、この女の笑顔もいい笑顔だった。桜と出会ってなければ惚れてしまいそうなくらい、優しく美しい微笑みだった。
昔の私は本当にダメな鬼だったようだ。本当の良さに何も気付いていなかった。
乳母は見つかった。
だが、やらなければならないことは山ほどある。
まずは先ほどから少しだけ臭ってきている、花のおしめを替えることからだ。
桜がこの世を去ってから、数週間が経った。
子育ては今のところ順調だった。
食事も寝かしつけも夜泣きも大変ではある。いや、大変どころの騒ぎではない。たかが子育てと舐めていたが、想像を超える大変さだ。桜のことを思い出して感傷に浸る時間すらほとんどない。
だが、乳母を務めてくれている女が、助言をくれたり、私にも飯を用意してくれたりして助けてくれた。義姉も、週に一度は自分の村から遠路、私の家まで様子を見に来てくれる。近所の家の人達も、何かと面倒を見てくれる。
そのおかげで順調にいっていた。
桜がいなくなってからの私は、より一層、周りの人達の支えを感じていた。
強くなりさえすれば一人で生きていけると思っていた。誰にも負けない強さがあれば、それ以外何もいらないと思っていた。
だが、それは間違いだった。
まず、花のいない生活など考えられない。今の私の人生は花のためにあると言っても過言ではない。そして、その花は、私一人だけでは育てることができない。
桜と結婚して以来、闘いを挑まれることもなくなり、肌のひりつくような緊張感は感じなくなった。かつてはその緊張感と、相手を倒した後の高揚感、そしてまわりの鬼たちからの尊敬を集める優越感が人生の全てだった。
だが、それ以上の幸福感と、周りの人への感謝の気持ちが、私の人生を充実したものへと変えてくれた。
そして何より花自身が可愛くて仕方がない。どれだけ子育てが大変でも、花の笑顔一つで、疲れが吹き飛んでしまう。どんなことでも頑張れるようになる。
幸せと感謝を感じて過ごしていたそんなある日、突然鬼神が私の家を訪れた。
「お久しぶりです、鬼神様」
キャッキャと笑う花を抱きながら、私は深く頭を下げた。
「奥方の件は残念だった。葬儀にも行けず申し訳ない」
鬼神もまた、深く頭を下げた。
私は首を横に振る。
全ての鬼を束ねる鬼神が、全ての鬼の葬儀に出るのは不可能だ。
そんなことより、鬼神がここに来た理由の方が気になった。
忙しい鬼神が、わざわざお悔やみだけ言いに来た訳はないだろう。
「今日はどのようなご用件で?」
私は単刀直入に切り出した。
鬼神は無言で私の目を見る。
「次の鬼神を決めるのは、先代の鬼神の役目だということは知っているな?」
私は頷く。
だからこそ鬼神に、今のままではお前は鬼神になれないと言われて、私は荒れたのだ。今では、その鬼神の判断が間違っていなかったことを、私自身が一番よく分かっているが。
私は鬼の上に立てる器ではない。
ましてや鬼神など尚更だ。
戦闘なら誰にも負けない自信があるが、心が弱い。周りの支えがないと生きていくことすらできない。
「私は、次の鬼神をお前に任せたいと思っている」
予想外の言葉に、私は一瞬意味が分からなかった。
だが、すぐに理解が追い付く。
なりたくて、なりたくて、仕方がなかった鬼神になれるというのだ。
だが、私は受け入れなれなかった。
「お言葉ですが、鬼神様。俺は鬼神の器ではありません」
私の返答に、鬼神は眉をひそめる。
「私の判断が間違っていると?」
私は慌てて首を横に振る。
「そういう訳ではございません。ただ、俺は弱い鬼です。周りの支えがなければ生きていけない程に。だからこそ、以前鬼神様ご自身が、俺は鬼神になれないとおっしゃられたのでは?」
鬼神は首を横に振る。
「あの時、お前を鬼神にできないと言ったのは、まわりの鬼の大事さに気付いていなかったからだ。一人で何でもできると、まわりの鬼など必要ないと思い込んでいたからだ。一人でできることになど限界がある。それに、まわりにいるほかの鬼を大事に思い、守るものができることで、さらに強くなることもできる。私も鬼神などと呼ばれてはいるが、所詮は本物の神ではない。完璧でもなければ、間違うこともある。そんな時助けてくれるのがまわりの鬼だ」
鬼神がそんなことを思っていたとは思ってもみなかった。
最強で完璧な存在。
それが鬼神だと思っていた。
「大事なのは、そのことに気付いているかどうかだ。今のお前ならしっかり気付いている」
鬼神は真っ直ぐに私の目を見た。
「亡き妻のおかげです。妻が俺をまともな鬼にしてくれました」
鬼神は頷く。
「そうか。亡くなる前にぜひ一度お会いしたかった」
私も頷く。
「はい。最高の鬼でした」
桜のことを思い出すと、未だに涙が溢れそうになる。
だが、一人前の鬼が、いくら相手が鬼神とはいえ、涙を見せる訳にはいかない。
「もし鬼神になることを受け入れてくれるなら、これから先、全ての鬼を自分の家族のように守らなければならない。それができるか?」
私は少しだけ考えて返事をする。
「正直申し上げると、それは難しいと思います。俺にとっての一番は娘の花です。自分の身より、鬼全体を優先することはできます。でも、娘の花より他の鬼を優先することはできないでしょう」
鬼神は頷いた。
「分かった。鬼神の名の下に娘を最優先に考えることを許可しよう」
私は驚いた。
私の返事は鬼神の役目の軽視に等しい。それを鬼神自身が認めたのだ。
「よろしいのですか?」
鬼神は再度頷く。
「お前が、自分の娘を犠牲にしなければ守れないような部族なら、きっとその時が部族の最後の時だろう。その時は、娘を一番に守ってやれ」
私は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
鬼神は無言で頷く。
「それでは改めて任ずる。只今この時をもって、鬼神の座をお前に引き継ぐ」
私は花を床に寝せ、地面に膝をつき、額も床につけた。
「謹んで拝命いたします。以後私は、鬼神として、全ての鬼のために、この命を捧げます」
最後に私は、先代の鬼神から、金棒を受け取った。
初代刀神が鍛えたとされる、鬼族の宝だ。
鬼の筋力をもってしても、ずっしりと感じる重みに、この重役の重みを感じた。これから私が着こうとしている役割は、この金棒の重さなど比じゃないほどに重い。
この重みは、桜と出会う前なら、きっと感じていなかった重みだ。
父親として、鬼神として、命の限り頑張っていきたい。
だから桜。
私と花のことを天国から見守って欲しい。
桜が見ていてくれるなら、きっと私はどんなことでも頑張れるから。
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