第7話 鬼神⑦
出産の話は、一応桜の実家にも手紙で伝えた。
すると数日後、桜から姉と呼ばれていた女と、私と戦った門番の一人が、私達の家を訪れてきた。
「これは父より、出産祝いとのことです」
そう言って渡された包みは、後で開けてみると人間の金で百万円あった。
鬼の社会なら、数年何もせずとも暮らせる額だ。
私と桜が夫婦になった日、あの初老の男にも、何かしら心境の変化があったのかもしれない。
金は素直にありがたかった。働かなくとも桜と花の側にずっといられるからだ。一分一秒でも長く、桜と花と三人で過ごしたかった。
時間は永遠ではない。特に私たちの場合は。
「その子が私の姪ですか?」
桜の胸に抱かれた花を見て、女が尋ねてきた。
「はい」
桜が胸の子を女へ渡そうとする。
女は驚いた表情を見せる。
「私なんかが抱いても……?」
「もちろんです」
桜はそう言って笑顔を見せる。
女は恐る恐る花を受け取った。
「……可愛い」
花を受け取った女の顔が少しだけ緩んだ。
桜の実家で会った時より優しい表情だった。
女は花をしばらく見つめた後、そっと桜へ返す。
その後すぐに思い詰めたような表情になった女は、突然桜へ向かって土下座した。
「ごめんなさい、桜。私はお父様が怖くて、あなたを守ってあげられなかった。むしろ積極的にあなたへひどい仕打ちを行ってきた」
女は額を畳につけたまま、話を続ける。
「今さら許して欲しいとは思わない。本来ならこうして会いに来ることも、その子を抱くことも許されないと分かっている。でも、過去の自分を後悔していることだけは分かって欲しいの」
そんな女を見た桜は、花を私へ預けると、女の肩に手をかけた。
「お姉様、顔を上げてください」
女は桜に引き起こされるように体を起こす。
女の目は腫れ、畳には濡れた後が残っていた。
「お姉様が謝ることなどありません。私がお姉様の立場でも間違いなく同じことをしていました。そうしなければ自分の身にも害が及びますから。だから許さなければならないことは何もありませんし、恨んでなどもいません。気になさらないでください。それよりこうして会いに来ていただけることが嬉しいです」
桜の言葉と笑顔に、義姉は戸惑っているようだった。
「でもそれでは……」
義姉の様子に、桜は少しだけ考えるそぶりを見せた。
「分かりました。それでは一つだけお願いを聞いてください」
「分かった。何でも言って」
義姉は真剣な眼差しで答える。
そんな義姉に対し、桜は子供のような表情をした。
「私をギュッと抱きしめてください。お姉様にそうしてもらうことが、小さい頃からの夢だったんです」
義姉は、少しだけ驚いた後、再び涙を流した。
そのまま桜を抱きしめる。
「お姉様、皮膚が硬いままです」
「ごめん、桜。あまり慣れていなくて。これでいい?」
「はい。柔らかくていい匂い。私が思い描いていた通りです」
二人はしばらく抱き合っていた。
失われた時間を取り戻すには足りないだろうが、これからの一歩を踏み出すには必要な時間だろう。
「オギャー!」
花が泣き出したところで、二人は離れる。
「また会いに来てもいい?」
恐る恐る尋ねる義姉に、桜は花を抱きかかえながら笑顔で答える。
「もちろんです」
義姉と、義姉の警護で付いてきていたらしい門番は、その日のうちに帰った。
泊まっていけばいいと言ったのだが、断られた。
「お父様に早く、花の様子を伝えたいので」
「お父様は……」
尋ねようとしたものの、桜は続きの言葉が出てこないようだった。
「お父様も、あの日以来、変わられたの。少なくとも家族を人間に売るというようなことはしなくなった。桜と花ちゃんにも会いたい様子だったわ。でも、これまでのことを考えると、会わせる顔がないって……」
義姉はそう言って少し俯いた。
すると後ろで控えていた門番が口を開いた。
「あの時は失礼しました」
まず私に向かって頭を下げる。
「いや。あれは仕事だろうからな。こちらこそあまり加減せずに申し訳なかった」
「いえ」
それだけ言うと桜の方へ視線を向ける。
「村長は確かに変わりました。前は威圧感と金で支配する感じでしたが、今では、村民を第一に考える素晴らしい村長です」
二人の話を聞いた桜は考え込んだ後、義姉と門番を交互に見た後、私の方を見た。私は無言でうなずく。
「お父様にも是非いらしてくださいとお伝えください」
桜ははっきりとそう言った。
義姉は驚いた表情を見せる。
「……いいの?」
桜は微笑む。
「はい。花もおじいちゃんに会ってみたいと思いますから」
桜の言葉に、義姉は涙を流しながら微笑んだ。
「お父様もきっと喜ぶわ」
「はい」
桜にとって、父親は忌むべき存在だったはずだ。人生を台無しにした存在だったはずだ。
私が桜なら、こんなにあっさり会うと言えるだろうか。
いや、難しいだろう。
多少は鬼として成長したかと思っていたが、まだまだ桜には敵わない。
また会う約束をして、義姉と門番が帰った後、桜は私に寄り掛かってきた。
花は子供用の寝台の上ですやすやと寝息を立てている。
「まさかお姉様とこんな風に接することができる日が来るなんて、思いませんでした……」
私は桜の肩に腕を回す。
「血の繋がった実の姉妹なんだ。今までがおかしかっただけだ」
桜は無言でうなずく。
「お父様とも仲良くなれる日が来るでしょうか……」
「来る。きっとあの人も、金に狂わされておかしくなっていただけだ。誰だって完璧ではない。桜に出会う前の俺だって、鬼のクズだった。義姉さんや門番が言っていた通り、あの人だって、変わることができたはずだ。きっと仲良くなれる」
桜は優しい笑顔を作る。
「そうなるといいな……」
「そうなるさ」
そのまま私と桜は、黙ったまま寄り添い合った。
この時間がそう長く続かないのはお互い分かっていた。
それでもこの時間が永遠に続けばいいのに、そう思わずにはいられなかった。
花が産まれてから半年が経った。
花は順調に成長を続けていた。
寝返りができるようになり、母乳以外の柔らかい食べ物も食べられるようになった。
顔が整っている鬼の中でも、際立って整った顔立ちに見える。絶世の美女になるに違いなかった。
ただ、桜にその話をすると、それはただの親バカです、と毎回呆れた顔をされた。
そんな桜は、花の出産後、目に見えて弱っていった。
それでも桜は、花に乳をやるのをやめなかった。
私は何度もやめさせようとした。乳母を雇おうと提案した。
だが、やめさせることはできなかった。
「花にお乳をあげることができるのは、私の最高の幸せなんです。私の幸せを奪わないでください」
桜にそこまで言われると、私はそれ以上何も言えなかった。
それでも、桜の寿命のことだけ考えれば、無理やりにでもやめさせた方がよかったのかもしれない。
だが、やめさせたところで、桜がそれほど長く生きられないのは、明らかだった。
それなら思ったように生きさせてやるのが桜のためだと思った。
いや、何とか思おうとした。
さらに一月が経った頃、すでに布団から立ち上がることすらできなくなっていた桜は、私の支えで上半身だけ起こして花に乳をやった後、息も絶え絶えに横になった。
満腹になった花は、そのまま眠ってしまったようだ。
そんな花の寝顔を優しい笑顔で見つめた後、桜は真面目な顔で私を見た。
「……あなた」
「……どうした?」
改まった桜の態度を見た私は、これから桜が何を言おうとしているのかを察した。
「私、もうそんなに長くは生きられそうにないです」
「……そうか」
改めて言われなくても分かっていたことではある。
桜のここ数日の衰えようは、尋常ではなかった。
「死ぬ前にどうしてもあなたに伝えなければならないことがあります」
「……何だ?」
桜は痩せてしまった頬で笑顔を作った。
「私を救っていただいてありがとうございました」
救われたのは私の方だ。
桜がいなければ、今も私は最低な鬼のままだ。
「私を妻にしていただいて本当にありがとうございました」
桜という最高の鬼が妻になってくれて、感謝しているのは私の方だ。
他のどんな鬼でも桜には敵わない。
「私に子供を産ませてくれてありがとうございました」
命を削ってまで花を産んでくれたのは桜だ。
私は桜の決意に、首を縦に振っただけだ。
「私に幸せをくれてありがとうございました」
幸せをもらったのは私の方だ。
桜と花。
二人と過ごす幸せは、私の人生を大きく変えた。
人生に、強さを求めること以外の意味があることを教えてくれた。
桜の言葉に、私の視界がぼやける。
「……礼を言うのは俺の方だ。」
私は桜の手を握った。
「桜のおかげで自分の愚かさを知ることができた」
最低のクズだった私が、最低から一歩抜け出せた。
「桜のおかげで強くなれた」
腕力以外の強さがあるということを知ることができた。
何のために強さが必要か知ることができた。
二人を守るためにもっと強くなりたいと思うことができた。
「桜のおかげで愛を知ることができた」
桜と花。
二人への感情が愛だと断言できる。
桜と出会うまで、そんな感情、存在すら感じたことがなかった。
「桜のおかげで幸せになることができた」
私は自分の頬を涙が伝うのを感じた。
嫌だ。
桜がいなくなるのは絶対に嫌だ。
桜がいない世界なんて想像さえできない。
嗚咽を漏らす私の頬に、桜は力が入らず震える手を伸ばしてきた。
「あなたみたいに強い鬼が、人前で涙を見せてはいけませんよ」
私の頬の涙を拭いながら、桜が微笑みかけた。
「桜は他人じゃない。だからいいんだ」
私は強がりながら言った。
「そうでした。私はあなたの妻でした」
桜はそう言うと、目を閉じた。
「あなたと出会ってからの時間は、毎日夢のようでした。弱く産まれた私が、鬼として出来損ないの私が、あなたのような素敵な男性と結婚して、花みたいな可愛い子供の親になれるなんて、夢でも想像できませんでした」
桜はゆっくりと目を開く。
「幸せで。幸せ過ぎて。あなたには感謝しても感謝しきれません。これで悔いなくこの世を去れる……はずでした」
桜の顔が歪む。
「でも……ダメです。今の幸せを失いたくない。大好きなあなたと一緒に、大好きな花の成長を見守りたい。家族三人で、もっとずっと一緒に暮らして行きたい」
桜の瞳から涙が溢れる。
私の瞳から流れる涙も、止まる様子が見られない。
桜の痩せた手が、私の手を弱々しく握る。
「私、死にたくない」
涙で煌めく目で、私を見る。
「死にたくないよ……」
私は何も声をかけてやることができなかった。
自分の無力さを噛み締め、俯くことしかできなかった。
強さが何だ。
愛する妻一人も救えない強さに何の意味がある?
こんなときにどんな言葉をかければいいのだろうか。
それすら分からない。
強いと思っていた桜が、最期に弱みを見せてくれた。そんな妻にかけてあげられる言葉は何だろうか。
考えた末に、私は皮膚の硬化を解き、桜を抱き締めた。
ガリガリに痩せた桜を折れないように抱き締めた。
伝えられる言葉がないなら、想いを伝えればいい。
肌を通じて、温もりを伝えればいい。
想いが少しは伝わったのだろうか。
桜の涙は止まったようだった。
「花のこと、ちゃんと育つまで見てあげられなくてごめんなさい」
私は首を横に振る。
「大丈夫だ。花は、何があっても俺が守る。桜にも負けないくらい、強くて優しい鬼に育ててみせる」
桜が微笑む。
「あなたが言うなら安心です」
私も桜に合わせて微笑む。
「ああ。なにせ私は世界で三番目の鬼だからな」
「三番目?」
桜が首をかしげる。
「ああ。二番目が鬼神。一番目が桜だ」
私は胸を張って答えた。
桜は苦笑する。
「親バカだけじゃなくて、夫バカでもあるんですね」
私は頭をかく。返す言葉がない。
「でも私は、そんなあなたが大好きです」
私にしがみつく桜の手に少しだけ力が入る。
「あなたと出会えてよかった」
私も桜を抱き締める手に少しだけ力を込める。
「俺もだ。桜と出会えて本当によかった」
桜の顔が笑顔になる。もう一度恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。
「あなたのことが大好きです」
私も笑顔を作る。
「俺も、桜のことが大好きだ」
それが桜と交わした最後の言葉となった。
腕の中の桜が冷えていくのを、私は泣きながら感じていた。
すぐに消えていく温もりだとしても、一秒でも長く感じていたかった。
隣で花が泣き出した。
すぐにでも抱いてあげたいところだが、もう少しだけ待って欲しい。
心の中で花に謝りながら、私は最愛の人の最後の温もりを感じていた。
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