第6話 鬼神⑥
助産師の家に着くと、すぐに私は、桜に陣痛がきた旨を告げた。
「それでは向かいましょう」
助産師はあらかじめ用意してあったらしい荷物を持つと、小走りで走り出した。
全力疾走でないのがもどかしかったが、出産は長丁場だと聞く。ここで助産師に無理されて、肝心な時に働けなくなっても困るので、焦れた気持ちを押さえながら、我が家へ向かった。
家へ着くと、一時的に陣痛が落ち着いているのか、先ほどよりも元気そうな桜が待っていた。
「よろしくお願いします」
「はい」
礼儀正しく頭を下げてお願いする桜に、助産師は笑顔で答えたが、すぐに真顔になる。
「脅すわけではありませんが、今回のお産は大変なものになるでしょう」
そこで言葉を切ると、桜と私の目を交互に見詰めた。
「もしもの時はお母様とお子様、どちらを優先させますか?」
「子供を優先でお願いします」
桜が間をおかずに即答した。覚悟に満ちた目だった。私が惚れた強い目だった。
助産師はうなずくと、確認するように私の方を向く。
桜を優先して欲しい、と言いたい気持ちを我慢して、私は頷いた。
「分かりました。もうしばらくすると、手伝いの者が二名参ります。私は準備には入りますので、奥様は気持ちを落ち着かせてお待ちください」
「はい」
桜は落ち着いて返事した。
「俺は何をすれば?」
私は助産師にたずねた。自分にできることなら何でもしてあげたかった。
「旦那様は奥様の手を握ってあげてください。それだけで力になるはずです」
「分かった」
私は桜の手を握り、微笑みかけた。
「大丈夫だ。俺がついている」
桜も微笑んだ。
「神様がついてくださるより安心できます」
「当然だ。俺は鬼神より強いからな」
「はい」
助産師の手伝いが到着し、陣痛の周期が短くなってきたところで、お産が始まった。
「あーっ! あーーっ!」
桜が大声で何度も叫んだ。
私の手を握る力も凄まじかった。華奢で弱弱しい桜とは思えないほどの力だった。
私は己の無力を痛感する。愛する妻が、命をかけて苦しんでいる時に何もすることが出来ない。
「あっ、あーっ!」
叫び続ける妻の手を握ってあげることしか出来ない。
お産が始まってからかなりの時間が経過したように感じたが、まだ赤ん坊の頭すら出てこない。
桜の力が弱いから出てくることができないのだろうか。
私は少しだけ不安になる。
「不安そうな顔はしないでください。奥様に不安が伝わります」
妻を励ましていた助産師が、顔はこちらに向けないまま私へそう言った。
こちらには目も向けていなかったから、顔を見ずとも、私からの不安を感じ取ったのだろう。
さすがは村一番と言われるだけのことはある。
私は助産師の言葉に従い、何とか不安を押さえようとした。助産師に伝わるくらいだから、本当に桜にも伝わっているかもしれない。
だが、苦しそうな桜の顔を見るとどうしても良くない想像をしてしまう。
すると、突然桜がこちらに顔を向けて口を開いた。
「だ……大丈夫です。例え死んでもあなたの子は産んで見せます」
それだけ告げると桜は再び叫び出した。
子供ももちろん心配だが、それ以上に桜が死んでしまうことが心配なのだが。
私はこの土壇場での食い違いに苦笑してしまう。
だが、すぐに気を入れなおした。
本来支える立場であるはずの私の方が気を遣われてしまった。
ここで不安を断ち切れなければ、昔より強くなったなどとは言えない。
桜と、産まれてくる子供の前で胸を張って暮らせない。
私は決めたはずだ。強くなると。
鬼神になるためではない。桜と、生まれてくる子供のためにだ。
私は、私の右手を握る桜の手に、左手も添えた。
自分が死ぬかもしれない時に、私などのことまで考えられる、優しくも強い桜が、死んでしまうわけがない。
「桜。お前なら大丈夫だ」
先ほどよりも、更に苦しそうな桜から返事はない。
だが、苦痛に歪んでいた顔が一瞬だけ和らいだ気がした。
大丈夫。
大丈夫。
桜なら大丈夫。
私は桜の手を握りながら、祈るように心の中でつぶやいた。
祈る神は持たないが、気持ちはきっと届くと信じて。
「頭が見えてきました。ここからが正念場です!」
助産師の声が部屋に響いた。
私は視線を桜の脚の付け根に向ける。
そこからは髪の毛が見えていた。
桜と私の子供。
その子が頭だけとはいえ、この世に出てきている。
あと少し。
あと少しだけ頑張れば私たちの子供に会える。
私は、両手を通じて桜へ声援を送った。
伝わっているかは分からない。
だが、気持ちの限り声援を送った。できることがそれしかないなら、その限られたできることを全力でやるだけだ。
頑張れ。
心の中で桜へ語りかけた。
頑張れ。
もうすぐこの世に産まれてこようとしている我が子へも語りかけた。頑張っている者にさらに頑張れと言うことほど無駄なことはないかもしれない。それでも声をかけずにはいられなかった。
愛する妻と、その子供を、応援せずにはいられなかった。
鬼の出産は、角が引っかからないようにすることが重要だ。角がうまく出ないと、母体はもちろん、子供への負担も大きい。ただでさえ体力的に不安のある桜にとっては致命的になりかねない。
子供も桜の血を引いているため、体が弱い可能性がある。
不安は尽きない。
そんな不安を吹き飛ばすように、私は心の中で頑張れと叫び続けた。
頑張れ!
どれだけの時間が経っただろうか。
何もしていないはずの私は疲れ切っていた。
肉体労働では感じない疲れだ。
十里走ったとしてもこれほどは疲れない。
ずっと頑張り続けている桜はどれほど疲れていることだろうか。
髪の毛だけ出てきたきり、一向に外に出てこない、子供も大丈夫だろうか。
隠していたはずの不安が顔をちらつかせて来る。
もし桜と子供に何かあったら……
せっかく桜がまともにしてくれた自分自身を、維持し続ける自信はない。きっと元の……いや、元以上にダメだ鬼になってしまうだろう。
そんな時、桜の中から小さな角が出てきた。
小さな小さな角。
一本目の角が出てくると、続けて2本目の角も出てきた。
そこから先はあっと言う間だった。
すぐに真っ赤に染まった赤ん坊が全身を現した。
さすが村一番の助産師だ。
素晴らしい手際だった。
だが、真っ赤に染まり、全く声をあげない赤ん坊を見ると再び不安になる。
狼狽えて助産師に話しかけようとした時、赤ん坊が声をあげた。
「オギャ、オギャー!」
たどたどしくも力のある声だった。
しわくちゃな顔で髪の毛が頭皮に張り付いた姿はお世辞にも綺麗とは言えない。
それでも愛しく見えた。
たった今、この子はこの世に生を受けたのだ。
私は親になったのだ。
赤ん坊は泣き続けていた。
この様子ならまず無事だろう。
私は桜の顔に目を向けた。
命を懸けた仕事をやり遂げた桜の顔は疲弊しきっていた。
だが、目はちゃんと開いている。
呼吸によって体も上下している。
桜もまた、無事生きている。
「……あなた」
私は声に出して返事することができず、ただ首だけで頷いた。
子供が無事に産まれた喜びと、桜が生きている安堵で、口を開くと感情が溢れ出してしまいそうだった。
鬼の男が、妻とはいえ人前で涙を見せるわけにはいかない。
桜が愛してくれた私は、そんな弱い鬼ではないはずだ。
「赤ちゃんは?」
私は無理やり笑顔を作って答えた。
「……無事だ」
私は何とかそれだけ答えた。
伝えたいことはたくさんある。
少なくとも喜びと感謝の気持ちは、桜に伝えたかった。
だが、どんな言葉でもこの思いを伝えきることはできないだろう。
それなら今、無理に伝える必要はない。
これから暮らしていく中で、ゆっくり伝えていけばいい。
「本当に良かった……」
安心しきったような顔で桜は微笑みを浮かべた。
疲れ切ってはいるのだが、慈愛に満ちた美しい笑顔だった。
母親になった桜の笑顔からは、眩しさを超えて神々しさ感じた。
母親は本当に偉大だ。
私は頷きながら、必死に涙を堪えた。
人生で今この瞬間ほど心を動かされたことはない。
最高の出来事だった。
私もこうして産まれ、桜もこうして産まれて来たのだ。
桜のためとはいえ、一瞬でもこの子のことを諦めようとしたことを、心の中で、心の底から謝った。
臍の緒を切られ、取り上げられた赤ん坊は、何度も体を拭かれ、暖かそうな布ですぐに包まれた。
体の小さい赤ん坊は、体が冷えやすい。
体が小さいために体積に対する表面積が、大人に比べて大きいので、熱が逃げて行きやすいためだ。
水分が皮膚についているとさらに熱が逃げるため、すぐに水分を拭き取られる。昔は産まれてすぐに羊水を落とすために体を洗ったようだが、今はしばらく時間を置く。
これらは鬼が人間から学んだ知識だ。
人間から学ぶことは多い。
私もここ数週間で多くのことを学んだ。
最低限の読み書きくらいしかできなかったが、少しでも役に立ちたくて、桜と子供のためになりたくて、産まれて初めて戦闘以外の勉強ということをやってみた。
基本的に人間と鬼の構造は同じだ。違いは角の有無、体の強度・硬度、筋力の絶対値、そして非常時の形態変化等くらいだ。
結局今回に関してはほとんど役には立たなかったが、産まれてきた子供には勉強させてやりたいとは思う。
人間の本は値段が高いので、かなり仕事を頑張らなければならないが。
しばらくして、体を洗われた子供が私と桜の元へ帰ってきた。
顔はしわくちゃなままだったが、体が綺麗になった赤ん坊は、とても可愛いかった。
子供は好きではなかったはずなのだが、自分の子は可愛いくて仕方がなかった。
「元気な女の子です」
赤ん坊を抱いた助産師はそう言った。
「桜の言った通りだったな」
「ええ。花ちゃんです」
私の言葉に笑みを浮かべた後、桜は助産師へ顔を向ける。
「抱いてもいいですか?」
桜が助産師へ問いかける。
「もちろんです。お乳もあげてください」
助産師も笑顔で答えると、横になり、少しだけ体を起こしたままの桜の胸へ赤ん坊を置いた。
「花ちゃん……」
桜は胸の我が子を見つめながらそうつぶやいた。
浴衣を広げ、白く透き通った胸を出すと、赤ん坊に乳首を吸わせた。
産まれたばかりの我が子は、愛する妻の胸に元気よく吸い付く。
桜の目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
「乳が塩味になるぞ」
私はそう言って桜の涙を拭ってやった。
「はい……」
返事はしたものの、桜の涙が止まる気配はなかった。
「あなた」
桜は涙を流しながら私の顔を見た。
「本当にありがとうございます」
涙で目を腫らし、数時間に及ぶ過酷な仕事を終えた妻は、それでもなお美しかった。
「礼を言うのはこちらのほうだ。よく頑張ってくれたな」
桜は顔をくしゃくしゃにしながら微笑んだ。
「はい。人生で一番頑張りました」
私は、そんな桜から目を背けた。
「……用を足してくる」
男の鬼が人前で涙を流してはいけない。
私は早歩きで厠に向かった。
目から塩分を含んだ液体が溢れてくる。
二人とも無事で本当に良かった。
私は服の袖で目を拭う。
泣いているわけじゃない。
汲み取り式の厠の空気が、目にしみただけだ。
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