第5話 鬼神⑤

 その日はもう遅かったので、私の村へ帰るのは翌日にすることにした。


 泊まる部屋は初老の男が用意してくれた。まさかそんなことをしてくれるとは思わなかった。さすがに思うところがあったのだろうか。


 寝込みを襲われるという可能性もゼロではないが、鬼の感覚は人間とは違い、寝ている間も鋭い。よほどの馬鹿ではない限り、あれほどの実力差を見せた私を襲うような真似はしないだろう。


 私と女は、用意された寝室に足を運んだ。


 襖を開けた私と女は、部屋の中を見て衝撃を受けた。


 畳の上に仲良くピタリとくっつけて並べられた布団と枕。


 さっきまで反対していたのが、まるでなかったかのような気の遣いようだ。


 私は布団を離そうと腰を下ろした。


 だが、女が私の隣にしゃがみ、布団を押さえる。


「どうした?」


 私が問いかけると、女は顔を真っ赤にして答えた。


「……一緒に寝てはダメですか?」


「もちろんダメではないが、移動で疲れているんじゃないのか?」


 女は首を横に振る。


「さっきまで疲れていましたが、疲れは吹き飛びました」


 女は恥ずかしそうに私の目を見た。


「……幸せ過ぎて」


 私は女を抱き寄せた。


「これからもっと幸せにする。この程度で幸せ過ぎるなどと言うな」


「今よりもっとだなんて……想像がつきません。私の人生でこんなに幸せなことがあるなんて思いませんでしたから」


 私は女を抱き締める手に少しだけ力を込める。


 鬼とは思えないほど華奢な体が折れないように、優しく力を込めた。


 抱きしめながら女の浴衣の帯を解く。


 白くきめ細かい肌が露わになる。


「……恥ずかしいです」


「そんなことはない。こんなに綺麗な肌は見たことがない」


「いえ、そうではなくて……あっ」


 口を開こうとした女の首筋に舌を這わせた。


 鬼の皮膚は、本人の意思で硬さを変えることができる。特に性的な興奮が高まっている時は、普段は金剛石並みの硬度を誇る鬼の皮膚も、人間並みに柔らかくなる。


 女の首筋は柔らかくなっていた。


 首筋から唇を離し、女の唇に自分の唇を重ねた。

 舌を絡ませ、女の温かさと柔らかさを感じた。


 唇を離すと、女の息はすでに荒くなっていた。


 私は再度女を抱き締めた。


「必ず幸せにする」


「……はい」





 ことが終わると、女はすぐに眠りについた。

 私の腕の中でぐっすりと眠っている。


 初めてで、しかも体が弱いということで、いつもの何倍も、優しく、慎重に女の体を扱った。


 これまでの私は、欲望のはけ口としてしか女を扱ってこなかった。欲望の赴くまま、自分の快楽を求めて女を抱いていた。


 今晩は、これまでと比べると、不満が残ってもいいはずだった。発散されきれなかった欲望が残っていてもいいはずだ。


 だが今は、これまでにない満足感を感じていた。


 愛。


 形のないそれを、これまで信じてはこなかった。だが、今はその形のないそれを確かに実感している。

 傍で眠る体の弱い女がそれを教えてくれた。


 本当の強さに近づく糸口と愛。


 その二つを教えてくれたこの女には感謝しても感謝しきれない。


 まだ出会ってから二日だ。


 体の弱いこの女と過ごせる時間はそれほど長くはないだろう。


 一日一日を大切にしなければならない。


 すやすやと寝息を立てる女の頬にそっと口付けをし、小さく名前を囁こうとして私は気付いた。


 そういえばこの女の名前を知らない。


 名前も知らない女を嫁にした自分自身に対して苦笑してしまう。


 もちろん後悔はしていない。

 この女以上の女がいないのは間違いない。


 とりあえず明日の朝、一番初めに名前を聞こう。そう思いながら、私も目を閉じた。






「あなた。ごはんできましたよ」


「ありがとう、桜。すぐに行く」


 桜と結婚して一年が経った。


 今やもう、桜なしの生活は考えられなかった。


 桜と結婚して私の生活は一変した。


 それまでのように、好き放題酒を飲んで女を抱き、金が減ってきたらしばらく働くという生活は送らなくなった。


 私の生活の中心が、自分から桜に変わった。


 規則正しく働き、仕事がない時間や休みの日は、体を鍛える時間を除き、常に桜と一緒に過ごした。


 一緒にいても特別に何かをするわけではない。

 散歩をしたり、畑を耕したり、料理をしたり、お茶を飲みながら話をしたり、時には旅に出かけたり。


 ただ桜と一緒にいるだけで、幸せな気分になれた。


 自由気ままに過ごしていた頃に比べれば、時間の制約ができた分、間違いなく生活は窮屈になった。


 だが、全く不快ではなかった。

 生きている実感があった。


 私の人生は桜のためにある。

 この女を幸せにするためにあるんだと思えた。


 桜の心のこもった料理と、朝日のような笑顔に癒されようと食卓に向かうと、少し様子のおかしい桜が座っていた。


 無理に笑顔を作っていたが、表情通りの状態でないことは、一目で分かった。


「どうした?」


 桜は笑顔のまま答えた。


「……子供ができたようです」


 その笑顔が、いつもの眩しい笑顔ではないのが、桜自身の複雑な感情を表していた。


「そうか」


 私も笑顔で返した。


 おそらく、桜同様不自然な笑顔だったろうが、桜はその点に関し、何も触れなかった。


 愛する桜と自分の間にできた子供。

 本来なら飛び上がるほど嬉しいことだ。


 だが、手放しでは喜べない事情があった。


 桜は心の臓が悪く、体が弱い。出産は桜の命に関わるだろう。


 子供は欲しい。

 でも、桜は失いたくない。


 たとえ短い命だとしても一分一秒でも長く一緒にいたい。


 桜がいない人生なんて考えられない。


「桜……」


 私が決意して桜の名前を呼ぶと、桜は首を横に振った。


「その先は言わないでください。たとえあなたがなんと言おうと、私はこの子を産みます。たとえその結果、私が死ぬことになったとしても」


 桜は決意に満ちた目で私を見つめていた。


 確かに私が何か言ったところで、意志の強い桜が意見を変えるようなことはないだろう。

 それでも私は、言わずにはいられなかった。


「桜。桜は俺にとっての全てだ。もし桜が子供を産んで、それが原因で桜が死んだとしたら、俺は自分の子供を愛せないかもしれない。桜の命を奪った相手として恨んでしまうかもしれない」


 私は俯いた。


「今はまだ冷静だから子供に罪がないのは分かる。だが、桜がいなくなった時、自分が自分でいられる自信がないんだ……」


 桜は私の両手を優しく握った。


「私だって死ぬのは嫌です。あなたと出会う前はいつ死んでも構わないと思っていました。でも、あなたと出会って、あなたに愛してもらって、もっと生きたくなりました。死ぬのが怖くなりました」


 桜は優しい目で私を見つめる。


「でも、それ以上にあなたとの子供が欲しい。たとえ私が死んだとしても。あなたとの子供を、産まれる前に殺すことなんて私にはできない」


 強い口調でそう言った後、桜は笑顔を作った。


 いつものような眩しさはないが、優しい綺麗な笑顔だった。


「それに、私だって死ぬと決まったわけじゃないですからね。私も子供も両方とも無事という可能性だってありますから」


 私は桜の目を見つめ返した。


 覚悟を決めた妻に、私からこれ以上言うことはなかった。


 何も言わずに桜を抱き寄せた。


 愛しくてたまらない妻。

 私を変えてくれた妻。


 桜を失うことなんて考えたくなかった。


 桜がいなくなってしまったら、自暴自棄のあまり、昔の自分に戻ってしまうかもしれない。先ほど桜に言った通り、本当に自分の子どもを恨んでしまうかもしれない。


 怖い。

 桜がいなくなることが怖い。


 桜の寿命が短いことは、分かっていたことではあるが、いざ実感するような出来事があると、覚悟が甘かったことを思い知らされる。


 昔よりは強くなった気がしていたが、まだまだ桜の覚悟には及ばない。


「あなたなら大丈夫です」


 そんな心の内を見透かすように、桜が私に声をかける。


 私は返事の代わりに、桜を抱き締める手に少しだけ力を入れた。


 私にできることはほとんどない。

 せめて桜の負担を少しでも減らせるように、家事は私がやり、精神的な負担もかけないようにしよう。


 桜の信頼にこたえられるような強い鬼になろう。


 もちろん、これまで同様、誰にも負けない愛を注ぎ続けるのは当然として。





 妊娠の発覚から数カ月経ち、桜のお腹が目に見えて膨らんできた。


 力を緩めて皮膚を柔らかくすると、外からでも中の赤ん坊が動いているのが分かることがあるらしい。


「あなた、ちょっと触ってみてください」


 私は桜のお腹に手を触れた。


 桜のお腹は柔らかくて暖かかった。


 できる限り優しく触れていると、突然桜のお腹が尖ったように内側から膨らんできた。

 外から見ても、明らかに分かる変化だった。


「今の分かりました?」


「あ、ああ」


「たぶん、中から蹴ってきたんだと思います。あなたに似て元気みたいですね」


 桜はそう言うとお腹を見ながら笑みを作った。

 お腹を見る桜の目は優しく、母親そのものの目だった。


「そんなに中から突き出してきて、腹の中は痛くはないのか?」


「全然痛くはありません」


 桜は笑顔で答えた。そのまま私の手ごとお腹を包むと、桜は視線を私に向けた。


「もうすぐこの子に会えます」


 私は黙って頷く。


「私に何かあっても、必ず笑顔で迎えてあげてください」


 私は返事をせずに、桜を抱き寄せた。


 出産には危険が伴う。

 体が丈夫な鬼でも命を落とすことがある。


 まして心の臓が悪く、体も弱い桜の場合は、無事に済む可能性の方が少ない。


 人間の世界では、技術が進歩し、出産時の危険は昔と比べてかなり低くなっているらしい。

 だが、それでも危険は零ではない。


 鬼の世界の出産は、日々目まぐるしい進歩を遂げる人間の社会からすると、数十年前の古いやり方だ。

 助産師の力量がものを言う。


 桜のために村一番の助産師に手伝いを依頼してあるが、その助産師からは、桜の死を覚悟しておくよう言われた。


 心の臓が悪い鬼の出産に、これまで六度立ち会ったらしいが、内三回は子供は無事だったが母親が死に、一回は母子ともに死んだらしい。


 桜もその話は聞いていたが、安心して胸を撫で下ろした。


「子供は無事なことが多いんですね。私の体が弱いせいでこの子を殺してしまうなんて、死んでも死にきれませんから」


 笑顔でお腹をさする桜とは対照的に、私は笑えなかった。


 母数は少ないが、半分以上の確率で桜が死ぬ。


 覚悟していたことではあるが、数字で聞くとその事実が重くのしかかってくる。


 やはり私はまだまだ弱い。強くなったと思ったのは錯覚だった。桜を失った時に平静でいられる自信など、全くなかった。


「あなたなら大丈夫です」


 私の不安が伝わったのだろう。


 桜を元気付けなければならないはずの私の方が気を遣われてしまった。


「ああ……」


 返事をする声がかすれてしまう。


 これで鬼の社会で二番目に強い?

 こんなに心が弱いのに?


 鬼神にも見捨てられるわけだ。


 私は弱い。

 桜なしでは生きていけない程に。


 昔は一人で生きていけると思っていた。


 弱くなったわけではない。

 自分の弱さにようやく気付いたのだ。


「あなたは強い。鬼神様にも負けないくらい。だから大丈夫です」


「俺は……」


 弱い。


 そう答えようとして、腕の中の桜が震えているのに気付いた。


 桜だって死にたくないと言っていたじゃないか。

 死ぬのは怖いに決まっている。


 自分の恐怖を胸に押し込め、私を気遣ってくれているのだ。


 やはり桜は強い。私などとは比べ物にならないほどに。

 そんな桜の前で、私が弱さを見せるわけにはいかない。


「俺は強い。鬼神よりもな。そんな俺がついている。だから安心しろ」


「はい」


 桜はいつもの朝日のような笑顔で微笑んだ。


 本当に桜がいなくなってしまった時にどうなるかは分からない。

 だが、桜が息を引き取るその日まで、いや、それ以降も、私は強くければならない。


 強く。

 誰よりも強く。

 鬼神よりも強く。

 桜が思う私よりも強く。





 桜が臨月を迎えた。


 私は仕事を休み、常に桜の側にいた。


「それくらい自分でできますよ」

「適度に動いた方が赤ちゃんのためにいいんです」


 桜はそう言ったが、私は受け入れなかった。


 桜の身の回りのことは、家事を含めて全て私がやった。


 それ以外の時間は手を握ったり、腰をさすってやったりした。


 華奢な桜の体に不釣り合いな大きいお腹に手を置いたりもした。


 一分一秒無駄にしないよう、全ての時間を桜のために過ごした。


「陣痛はまだですが、そろそろ産まれそうな気がします」


 突然、桜がそう告げた。


 女には男にはない直感があるという。


 きっとその直感がそう告げたのだろう。


「そうか」


 私が返事をすると、隣に座っていた桜が私の肩に寄りかかってきた。


 桜がこんな風に甘えてくるのは珍しい。いつもどこか遠慮がちだった。私に助けてもらったと感謝しているからのようだが、私は感謝されるようなことをしたつもりはない。自分が惚れた女を嫁にするために、障害を排除しただけだ。


 だから、今のように素直に甘えてもらえると本当にうれしい。


「私、あなたと出会えて本当に幸せでした」


 私は桜を抱き寄せ、頭を撫でながら返事をする。


「俺も幸せだ。だが、過去系で話すな。これから子供が産まれて、三人でもっと幸せに暮らすんだ」


 桜が目に涙を浮かべながら微笑む。


「……はい」


 私たちは無言のまましばらく寄り添い合った。

 静寂すらも愛おしかった。


「赤ちゃん、名前どうしましょう?」


 桜が口を開いた。


「男か女か分からないからな。産まれてから考えよう」


 私がそう答えると、桜が首を横に振った。


「女の子な気がします。女の子の名前を考えましょう。顔を見てから決めたい気持ちもありますが、産まれてからだと……一緒に考えられないかもしれませんから」


 私は返事はせずに、頭を撫でていた手を肩に回し、ぎゅっと抱きしめた。


「花という名前はどうだ? 桜に咲いた花だ」


 私は密かに前々から考えていた名前を答えた。


 桜は嬉しそうに微笑む。

 私が惚れた、眩しい笑顔だ。


「可愛いですね。私もその名前、いいと思います」


 桜は自分のお腹に手を置いた。


「花ちゃん。早く会いたいなぁ」


「もうすぐ会えるさ」


 必ず会える、という言葉を言おうとして、飲み込んだ。

 そこまで言うと桜が変に意識してしまうかもしれない。


「あなた」


 桜が強めの口調で私を呼んだ。


「どうした?」


「きたかもしれません」


 若干顔を歪めながら桜はそう言った。


 何がきた? とは聞かない。


 陣痛がきたのだろう。


「分かった。手伝いを呼んでくる。少しだけ一人で大丈夫か?」


「はい」


 苦しそうにうなずく桜を置いて、私は助産師の家へ向かった。一人で残すのは不安だったが、魔法が使えない鬼には遠隔での連絡手段がない以上、仕方がない。


 私は、夕暮れの道を全力で走った。


 陣痛が始まったからといって、すぐに産まれるわけではない。だが、少しでも早く桜のもとへ戻りたいという思いが私を急がせた。

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