第3話 鬼神③
山を降り、ようやく姿の見えてきた村に向かって、夕日を背に歩いている間、女は無言だった。
緊張しているのは明らかだった。
私は女の手を握った。
女はハッと顔を上げる。
「大丈夫だ。俺が付いている」
私の頬は赤く染まっているに違いなかった。
だがそれは、夕日のせいだと思いたい。
「はい……」
そんな私とは裏腹に、女は力なく答えた。
女がなぜそこまで不安なのか、私には分からなかった。
繰り返すが、自分の娘を進んで酷い目に合わせようとする親なんているはずがない。
しかしそれは考えても分からないことだ。親に会えば、何か分かるかもしれない。
しばらく歩くと、女が一軒の家を指差した。
いや。家というより、城や御殿と言った方が正確かもしれない。
「あれが私の家です」
「えっ?」
私は驚きが隠せなかった。
鬼神の屋敷ですらここまで立派ではない。こんな家に暮らすこの女は何者なのか。
家に近づくと、砦にあるような頑丈な門の脇に、ニ人の屈強そうな鬼が立っていた。
「ただいま帰りました」
挨拶をした女に対し、二人の鬼は無言で頭を下げた後、怪訝そうな目で私を見た。
「この方はお客様です。失礼のないようにお願いいたします」
女がそう言うと、二人は私に対しても頭を下げる。
このやりとりからすると、この家が女の家であることは間違いないようだ。
「申しあげていませんでしたが、私の父はこの村の村長なんです」
村長なら確かにある程度は裕福なのかもしれない。
それにしてもこの家は豪華すぎる気はするが。
門を通された私は、先を進む女の後ろを付いて歩いた。
屋敷の玄関をくぐると、私と同年代くらいの女性が無表情で立っていた。
その女性を見た女の表情がさらに曇る。
「お姉様……」
女の言葉に対し、姉と呼ばれた女性は露骨に嫌な顔を見せる。
まるで汚物でも見るような目で女を見下す。
「お前に姉と呼ばれる筋合いはない。お父様がお待ちだ。さっさと付いて来い」
姉と呼ばれた女性は私を一瞥だけした後、女を睨んだ。
「なぜ見ず知らずの男がここにいる?」
問いに対し、女は毅然と答える。
「体の弱い私の身を案じ、わざわざここまで送っていただいたお礼をするためです。何のお礼もせずに返したとあっては、村長であるお父様の顔に泥を塗ることになるかと」
女の答えに、姉と呼ばれた女性は益々苦々しげな表情をする。
私の方を向き、今にも「余計なことをしてくれたな」とでも言い出しそうだ。
だが、体面を気にしてか、さすがにそこまでは言ってこなかった。
「……こちらへ」
それだけ言うと女性は足早に廊下を進んでいった。
わらじを脱いで屋敷に上がった我々は、無言で女性の後を付いて歩いた。
女は小刻みに震えていた。
私は、女の肩に回そうとして伸ばしかけた手を、途中で引っ込めた。
震えながらも前を見据える力強い目を見たからだ。
私たち二人が通された部屋は、真新しい畳が貼られた見事な部屋だった。
名のある書道家が書いたものであろう掛け軸に、素人目にも生き生きとした命が感じられる生花。
鬼神の客間に通された時もここまで立派ではなかった。
その客間の奥には威風堂々と胡座をかく、初老の鬼の姿があった。
鬼神には遠く及ばないものの、それなりの存在感がある。
隣に立つ女の震えが、より大きくなった。
「座れ」
初老の男の言葉を聞いた女は反射のようにすぐ座った。
正座をするその横顔は真っ青を通り越して白くなっている。
客人であるはずの私に対する無礼な物言いに、若干苛立ちを覚えながらも、そんなことでもめても仕方ないので、言われるがままに腰を下ろし、胡座をかいた。
私が座るなり、初老の男は口を開く。
「いくら欲しい?」
私は質問の意味がわからなかった。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。見返りが欲しくてこいつに付き添ってきたのだろう? そうでなければこんなやつ、相手にする訳がない」
さも当然とばかりに言う初老の男に対し、私は頭に血が昇るのを感じた。
自分が安い男に見られたことに対してではない。
この女をこんなやつ呼ばわりしたことに対してだ。
父親が娘に言っていいことではない。
だが、私が掴みかかるより早く、女が口を開いた。
「お父様。この方はその様な目的で来られた訳ではありません。心からの善意で私に付き添ってくれたのです」
私は女を見た。
相変わらず手は震えているし、顔は蒼白だった。
だが、目だけは真っ直ぐに初老の男を見据えていた。
「誰がお前に発言を許可したか!」
雷鳴の様な怒鳴り声の後、初老の男は手元にあった湯飲みを女へ投げつけた。
女は避けることなく、湯飲みを額で受ける。
湯飲みはバリンと音を立てて砕け散った。
弱いとはいえ、鬼である女の額には傷一つつきはしない。
だが、精神的には堪えるはずだ。
今の出来事だけで、女が家でどういう待遇を受けてきたかは分かった。
村長ということは、村で一番強いのであろう。
この女一人で立ち向える訳もない。
普段からこのような仕打ちを受けているのであれば、震えるのも当然だ。
「この女の母親は?」
私は尋ねた。
この場にいない母親まで同じなら、もはやこの家庭に救いはない。
「母親?」
私の問いかけに、初老の男はフッと笑った。
「こんな出来損ないを産むような女は、人間に売ってやったわ」
「自分が愛した女を人間なんかに売ったのか?」
私は思わず立ち上がっていた。
鬼の世界では、結婚は重要だ。
結婚するということは、全てを相手に捧げ、生涯その相手とだけ添い遂げることを誓うということだ。死別した時以外、離婚も許されない。人間の結婚とは重みが違う。不倫をした場合、鬼神の判断次第では死刑になることすらある。
「愛した? 愛などという不確かなものは存在しない。女はより強い子孫を残す為の道具に過ぎない」
そこまで話した後、初老の男はふっと表情を緩める。
「まあ、売った女が死ぬまでの間、他の女と子作りできないのは確かに難点だ。だが、そこは自分の見る目がなかったのだから仕方ない」
初老の男が話す間、女は唇を噛み締めていた。
母親をものとして扱われたことに対する怒りか、自分のせいで母親が売られたことに対する自分への怒りかは分からない。
だが、物静かな女が間違いなく怒っているのは分かった。
刀で切っても傷つかないはずの下唇の舌の皮膚から、血が流れている。
私は鬼神が私を次の鬼神に指名しなかった理由を改めて認識する。
腐った鬼が頂点に立てば、下の者たちには地獄が待ち受けることになる。
この村はきっと地獄だろう。
鬼の社会全てを地獄にするわけにはいかない。
だから、心の弱い私を鬼神にするわけにはいかなかった。
この女のように、不幸な運命に遭うものを増やしてはいけないから。
私は懐から札束を取り出した。
私の全財産である五十万円だった。
「ここに五十万ある。この金はあんたに渡す。だからこの女を自由にしろ」
私はその金を叩きつけるように置いた。
女は私の顔を見た。
「こんな大金……」
私は女に笑顔を向けた。
「これでお前の自由が買えるなら安いものだ」
私の言葉に女は泣きそうな顔をした。
「でも……」
そんな私たちを、初老の男はばかにしたような目で見た。
「ふっ。買えるならな」
初老の鬼はその金を見て鼻で笑った。
「一千万で売れるとわかっているものを五十万で売る馬鹿がどこにいる?」
「確かに額は少ない。だが、娘を人間なんかの玩具にしなくて済む。俺がこの女を慰みものにするわけでもない。自由にしてやってほしいと言っているだけだ」
「ククク」
初老の男はさらに笑う。
「娘が何だ? 娘なんていくらでもいる」
初老の鬼は、私たちをこの部屋に案内した女性の鬼を見る。隣の女がお姉さまと呼んでいた鬼だ。
見られた女性は、黙ったまま下を向く。膝が少し震えていた。
「それに、足りなくなればまた作ればいいしな」
私は、カッとなって殴りかかりそうになる自分を何とか抑えた。
私の家は裕福ではなかったし、親も特別立派な人物だったという訳ではない。
それでも私を大事にしてくれていたのは間違いない。
若い頃は煩わしくてしかたなかったが、今ではそれが分かる。
私は女を見た。
女は寂しげな目で私を見て、そして笑顔を作った。
「私なんかのために本当にありがとうございます。ただ、心の臓の弱い私は、恐らく何もせずとも数年で死にます。心の臓が弱い鬼はみんなそうですから。それに、自由になったとしても、私には行く場所も生きる目的もありません。このままここで死んだように生きるのも、人間の元で玩具のように生きるのも大差ないでしょう。それなら人間の元へ行き、お父様のお役に立てた方がいいというものです」
女の言葉を聞いた初老の鬼はニッと笑った。
「…ということだ。部外者には帰って貰え。ただまあ、大事な商ひ……娘を送ってもらったんだ。手間賃くらいは包んでやれ」
初老の鬼は、私たちを案内した鬼へそう指示した。
私はもう一度、女の顔を見た。
女はもう一度、寂しげな笑顔を作った。
「本当にありがとうございました。この御恩は生涯忘れません」
女は深く頭を下げる。
私は、艶のあるきれいな髪を上から見下ろした。
女は下を向いたまま、聞こえるか聞こえないかギリギリなくらい小さな声で、泣きそうなかすれた声で、つぶやいた。
「最後にあなたに出会えてよかったです」
女を見下ろしながら、私は自分の拳を握りしめていた。そして心が決まった。
そんな私たちを横目に初老の鬼は立ち上がった。
「それではな」
初老の男はそれだけ言うと私たちに背を向けた。
「待て」
そのままこの場を立ち去ろうとする初老の鬼を、私は呼び止めた。
「話は終わっていない」
初老の鬼は不快そうな顔をする。
「これ以上何を話す?」
頭を下げていた女も、私のほうを不思議そうな表情で見ている。
私は女の目を見つめた。澄んだ美しい目だった。
「俺と結婚しろ」
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