第2話 鬼神②
翌朝、包丁がまな板を叩く、トントンという音で目を覚ました。
起き上がり、台所に目を向けると、昨日の女が朝食を作っているようだった。
浴衣の上からでも分かる、スラリと伸びた細い手足。料理をするために上げた髪の下に覗く真っ白なうなじ。
私は唾を飲み込んだ。
そしてすぐに頭を横に振る。
私の好みは強い女だ。今にも折れそうな華奢な体をした弱い女ではない。
私が見ていることに気付いた女は、私の方を振り返った。
窓の外で光る朝日のように、振り返った女は眩しい笑顔をしていた。
「おはようございます。勝手に台所を使わせていただいております」
「あ、ああ」
私はそれだけ言うと女から目を背けた。
自分がどんな顔をしているか想像がつかなかった。
普段の私なら「出過ぎた真似をするな」と怒鳴りつけているところだが、この女には全く怒りが湧かなかった。
私が目を背けると女は再び料理に取り掛かった。
女が背中を向けたので、私は視線を女の背中に戻した。
なぜか見ていて心が休まる背中だった。
暫くすると、女が盆に食事を乗せて持ってくる。
畳の上の丸い小さな食卓に食事を乗せ、私と女は向かいあった。
私はなぜか、女の顔を直視できなかった。
食事はご飯と白菜の味噌汁に焼き魚という簡単なものだった。
私は女の顔を見ないまま、食事に箸をつける。
食事は自分でも普段からしっかり作っている。強い体を作るには、栄養は不可欠だからだ。だから、女が作った食事に特段感じるところはないはずだった。
だが、女が作る食事には、普段自分が作る食事にはない温かさがあった。
久しく忘れていた温かさだ。
私はふと、自分を見つめる女の視線に気付く。
私が目をやると、女は慌てて目をそらす。
「どうした?」
私に問われた女は取り乱す。
「いえ、その、お口に合ったかなと思いまして……」
私は頷く。
「ああ。美味いぞ」
私の言葉に、女は笑顔を見せる。今朝見たものと同じ眩しい笑顔だ。
「お口に合って何よりです」
女の笑顔を見るたびに、私の気持ちがざわめく。ざわめきの正体は自分でも全く分からない。
食事が終わると、私は女に問いかけた。
「この後はどうするつもりだ?」
純粋な疑問からの問いかけだったが、女は顔を曇らせた。
「何も当てはございません。これ以上この村にいても何もないと思いますので、自分の村に帰ろうと思います」
このまま何もせずに帰る理由が分からなかった。近くには他の鬼の村はない。わざわざこの村まで来たからには何か理由があるはずだ。にもかかわらずず、この女はこのまま帰るという。
私は女の暗い顔は見たくなかった。力になれるなら、何かしてやりたかった。
「差し支えなければ、この村に来た理由を話せ」
「はい……」
女は小さく深呼吸をして話し始めた。
「ご存知の通り、鬼の世界では強さが全てです。ですが私は村の中で一番弱かったのです。生まれながらに心の臓が弱く、体を鍛えることもできませんでした。鬼としては出来損ないです。当然仕事もなく、嫁の貰い手もなく、家では邪魔もの扱いでした」
そうだろう、と私は思った。
かわいそうではあるが、弱い者には存在価値がない。それが鬼の社会だ。
「そんな私に貰い手がつきました。……人間です。人間の慰み者として、私は売られることになりました」
女は俯いた。
人間の間で、鬼の女が慰み者として人気だという話は聞いたことがある。胸糞悪い話だが、仕方がないことだとも思う。
王国の東の外れとはいえ、鬼の社会も人間の社会と関わりはあった。
村の中では手に入らない物を、人間に売ってもらったりもしている。だが、鬼が人間の社会で、人間の金を稼ぐ手段は少ない。
その少ない手段のうちの一つが娘を売ることだ。
鬼の容姿は人間からすると抜群に美しい。そんな美しい鬼の娘は、驚くほどの高値で人間に売れる。
さすがによくある話ではないが、全くないわけではない。
「人間の慰み者になる前に、同じ鬼の男性に抱かれてみたい。そう思って村を出ました。私の村では、誰も私を相手にしてくれませんから」
女はそう言って寂しそうな笑顔を見せた。
「でも、それはこの村でも同じみたいですね。鬼であれば強い相手に惹かれるのが当然ですから。きっと貴方も強くて有名な方なのでしょう。親の手によって社会から離されていたので、名前は存じあげませんが、一目見た瞬間から、相当強い方なのは分かりました。こんな強い方に抱かれてみたいと思いました」
女は私を見つめる。
「昨晩、貴方の家に泊めていただけることになった時は、天にも舞い上がるような気持でした。貴方みたいに素敵な方に抱いていただける、人間に売られる前に最高の思い出ができる、と」
それだけ言うと、女は少しだけ俯く。
「でも、 貴方にとっても、私は抱いてみる価値すらなかったようです。貴方ほど強そうな方なら、いくらでもお相手をされる方はいらっしゃるでしょうから。慈悲で家に泊めていただいただけでも、本当にありがたく思います。強くて優しい貴方みたいな最高の男性に」
女は再度笑顔を見せた。先ほどのような眩しさはないが、儚げで美しい笑顔だった。
そんなことはない、と言ってやりたかった。確かに強さは感じなかったが、何だかよくは分からないが、魅力はあると言ってやりたかった。抱かなかったのは、魅力がないからではない。体を気遣っただけだと。
だが、私の口から出たのは別の言葉だった。もっと踏み込んだ言葉だった。
「どうすればやめさせられる?」
私の口からは自分でも信じられない言葉が飛び出していた。
「えっ? 何をですか?」
女は疑問を口にする。
「お前が人間に売られるのを、だ」
なぜそんなことを言ったのか。
この女は確かに可哀想ではある。だが、一晩泊めてやっただけの、なんのつながりもない女だ。私が何かしてやる義理はない。
女は寂しげに微笑んだ。
「お気持ちはありがたく思います。でも、やめさせることは無理でしょう」
「なぜだ? いくら強くないとはいえ、親だって好きで愛する娘を人間に売るわけではないだろう?」
女は微笑みをやめ、俯いた。
「親の気持ちは分かりません。ただ、人間は、私をもらえれば、一千万円渡すと言っていました。きっと売るのをやめることはないでしょう」
「一千万円……」
私は絶句した。
鬼の社会は基本的に自給自足と物々交換で成り立っている。だが、人間が作る便利な物を入手するためには、人間の金がいる。
そこで鬼の中でも屈強な者を選りすぐって、人間の社会へ出稼ぎに出すことがある。
人間ではとても耐えられないような現場で、厳しい肉体労働をするのだが、その場合、一ヶ月ほど休まず働いてもらえるのが、多くて十万円ほどだ。
人間はもっともらっているようだが、鬼にとってはそれが相場だ。単純計算で、屈強な鬼が百ヶ月休まず働いてやっと稼げる金額を渡されるというのだ。
人間に売られた鬼の娘は、その屈強な力で人間に反抗できないよう、毎日毒を飲まされると聞く。
その結果、多くの場合、二、三年後には売られた鬼は死ぬ。二、三年後に死ぬ者にそんな金額を出す。
……それだけ酷い扱いを受けるということだ。
「だから無理なんです」
女はもう一度微笑んだ。
過酷な運命を受け入れた笑顔だ。
私は自分の胸が締め付けられるのを感じた。
私も何度か出稼ぎに出かけたことはある。確か五十万円程は蓄えがあったはずだ。
鬼の社会なら、五十万でも十分な大金だ。
一千万にはほど遠いが、この金でどうにかならないか。
ここでふと私は思った。
なぜこの女を助けること前提で考えているのだろうか。
知り合ったばかりの弱い鬼であるこの女を。
存在価値のないはずのこの女を。
女は立ち上がった。
「それではありがとうございました。最後に貴方のような素敵な方に出会えて、本当に幸せです」
この程度のことが幸せ?
私程度の男と出会っただけのことが?
腕っぷしだけが取り柄の、鬼神にもなれない、飲んだくれの私と出会ったことだけが。
私はこの女を抱いてやってすらいない。世の中にもっと幸せなことなんていくらでもある。それだけこの女が恵まれない環境にいたということだ。
「それでは」
頭を下げて家を出ようとする女を、私は慌てて引き留めた。
「待て!」
女は歩みを止めて振り返る。
「何でしょうか?」
……何も考えていなかった。
ただ、このままこの女を帰したくはなかった。
私は必死に考え、答えを出した。
「家へ帰るなら俺も連れて行け」
女は驚いた顔を見せた。
「な、なぜでしょうか?」
私は女の目を見据えた。
美しい金色の瞳に戸惑いが浮かんでいる。
「俺がお前の親を説得する」
少ないながらも金はある。
最悪の場合、鬼神にも負けないだろう腕力もある。
おそらく何かできると思う。
いや、鬼神への道は断たれたとはいえ、私は鬼の社会で二番目に強い。その立場も利用すれば、何とかできるはずだ。
だが、私の言葉を聞いた女は表情を険しくした。
「同情ならば結構です。たとえ弱くとも鬼の端くれ。己の身可愛さに、無関係の方の慈悲にすがる程、腐ってはおりません」
華奢な女からは想像もできないほど力強い言葉だった。
女の瞳は嘘や強がりを言っているようには見えない。
「確かに昨晩は貴方に抱いていただこうと思いました。ただ、それは純粋に、貴方のように強くて素敵な男性に惹かれたからです。同情が欲しかったからではございません」
毅然としたその表情は掛け値なしに美しかった。
顔の造詣が美しいということではない。
心の底から滲み出る輝きが、この女を美しくしているのだ。
「同情ではない。俺がそうしたいから付いていくだけだ」
女は相変わらずの強い瞳で私を見据える。
「同情ではないのなら、なぜ私なんかを助けようとしてくれるのですか?」
なぜ?
それは……
「鬼神にはなれずとも、俺は鬼の社会の二番手だ。上位者には上位者の義務がある。大事な同胞が人間なんかの慰み者にされようとしているのを止めるのに、それ以上の理由が必要か?」
話しながら、私は自分が鬼神になれない理由が分かった。
私はこれまで己の力を振りかざし誇示するだけで、上に立つ者の義務を果たすことをやってこなかった。そんな鬼が鬼神になれば、鬼の社会は崩壊するだろう。
今更分かったところで、鬼神にはなれない。
だが、今は鬼神になることなどどうでもよかった。
この女を救うことさえできれば。
女の瞳から一筋の涙が流れた。朝日の光を浴びて、涙は金色に光る。まるで女の瞳のような美しい色だ。
私は親指で優しく女の涙をぬぐった。
「……ありがとうございます」
「礼はお前の親の説得がうまくいってからにしろ」
「……はい」
笑ったように見える女の表情が、なぜか暗くなった気がしたが、私はそこには触れなかった。
女は親の説得に何かしらの不安を覚えているのかもしれない。
それなら私がその不安を拭ってやればいい。
女が住む村は五十キロほど離れたところにある村だった。
強力な魔物こそ出ないが、険しい山を越えなければならない遠い村だ。
いくら人間よりははるかに体力があるとはいえ、体の弱いこの女にしてみれば、この村までの一人旅は決死の旅だったに違いない。
そんな旅を乗り越え、この村に来たのだ。
なんとしても力になってやらなければ。
山を超え、村へ向かうまでの間、女は何度も苦しそうな顔をした。
だが、一度も自分からは休みたいとは言わず、「疲れた」の一言も言わなかった。
私が全力で駆ければ、村まで二時間もかからない道のりだ。
だが、女の脚力は弱く、山を登り終えた頃には昼を過ぎていた。
それでも女なりにかなり無理をしていたので、女は疲弊しきっていた。青鬼の様な顔色をした女は、俯き、今にも倒れそうな様子だった。
私の村に来るときも同じ道を超えてきたはずだが、微塵も疲れを感じさせなかったこの女の精神力は見事だ。
「大丈夫か?」
差し伸べた手を女は拒んだ。
「大丈夫です。貴方のお手を煩わせる方が大丈夫ではありません」
女は無理に体を起こすと、何とか笑顔を作った。
「私のせいで遅くなってしまいましたが、今日のうちに村まで行きましょう」
私は出した手を引っ込めて握りしめた。
「そうだな」
少し山を下ったところを流れる川で水を飲みながら、私は、キラキラ輝く水面を見つめる女の横顔を眺めていた。
不安のせいか、女の表情は憂いを帯びていた。
それはそれで美しいのだが、私の脳裏から、今朝見た眩しい笑顔が消えない。
私はもう一度この女の笑顔が見たかった。
まるで夜明けの朝日のように、私の心を晴れやかにする輝かしい笑顔を。
そのためには、この女の両親を何としても説き伏せなければならない。
気付くと、私は女の両肩に手を置いていた。
「どうしました?」
女は振り返って私の顔を見つめた。
私も女の目を見つめ返す。
「お前の親は俺が説得する」
女はきょとんとした顔を見せた。
「その為に付いてきていただいているのでは?」
私は苦笑した。
「そうか……そうだな」
女は未だ不思議そうな顔をしたままだったが、私は勝手に決意を固めた。必ず説得して見せようと。
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