20-2 炭酸水を飲みながら待っていると、やがて、洗面所から少年が顔だけを出した。
炭酸水を飲みながら待っていると、やがて、洗面所から少年が顔だけを出した。
「あの……俺の服がないんですが、どこでしょうか?」
「クリーニングに出した。明日の午後には、しみ抜きされてここに届く。放課後に取りに来たまえ」
「わかりました」と言った少年は、一度顔をひっこめてから、腰にタオルを巻いて洗面所から出てきた。
「寮で着替えて来ますので、少し時間を下さい」と言いながら、洗面所の外に置いてあった靴を、屈んで引き寄せる。
どうやら、その格好のまま、寮まで帰るつもりらしい。
「着替えはそこに用意してあるよ」
右手でクローゼットの前の紙袋を示してから、蒼田はこみ上げる笑いに喉を鳴らした。
「そんな格好で部屋の外に出ることを許せるわけがないだろう? 我が校の品位が落ちる」
「すみません。……お借りします」
少年が紙袋に手を伸ばそうとする。
「待ちたまえ」と言えば、少年はぴたりと手を止めた。こちらを振り向いた目に、戸惑いが見えないことに、蒼田は少し驚いた。
「こちらに来なさい」
「はい」
少年は即座に命令に従った。腰にバスタオルを巻いただけの格好で、素足で絨毯を踏みながらこちらに歩いて来る。
1メートルほど先に立った少年を、蒼田はソファーに足を組み、眺めた。
子供っぽい幼さは抜けた、だが、まだまだ線の細い成長途上の少年は、緊張した顔で蒼田の前に立っていた。
「君に、確かめておきたいことがあるんだがね」
空になったグラスを弄びながら、蒼田は、先ほどからの疑問を口にした。
「君は、眼の前のコーヒーがぬるいと気が付いていて、コーヒーを被ったわけではないのだね?」
「はい」
「私が君を危険に晒すようなことをしない、と読んだわけでもない?」
「はい。それは後から気付きましたが、さっきは考えていませんでした」
なら、と蒼田は口を開いた。
「なら、なぜ、コーヒーを被ったのだね? 普通のホットコーヒーであれをしたら、ただでは済まないところだぞ?」
「理事長先生が、本当に私が『何でも言うことを聞く』かを試そうとするかもしれないということは、お会いする前から予想していました」
バスタオル一枚で目の前に立った少年は、そう言った。
「そのテストをクリアしなければ、『出資』はしてもらえないだろう、多分、二度目のチャンスを与えられることもないだろうとも、思っていました。
だから、『何でも言うことを聞く』と言ってからは、他の人に危害を加えるような命令でない限り、すぐに命令を実行すると決めていました。さすがに、『今すぐ死ね』とは言われないと思っていましたし」
蒼田が覚悟を問う前から、交渉の最初から、この少年は覚悟を決めていたのだと言う。
最初から本気で、自身の出せるもの全てを投げ打って、目的である蒼田からの『みっつの出資』を引き出そうとしていたということだ。
未来予測ができずに、知らずにリスクのある選択をしてしまった馬鹿ではなかった。
未来予測をしてなお、自らリスクのある選択をした大馬鹿だったのだ。
「そんなに……妹さんを、愛しているのかね?」
「愛……」
少年は少し困ったような顔をした。
「私は、『愛』という言葉の意味を、はっきりと把握していないので、『妹を守りたい』というこの気持ちが『愛』かどうかというのは、判断できないです」
日本人の「愛」という言葉に対する感覚としては、わかる返事ではある。
「しかし、妹さんのために、医師になること以外の全てを犠牲にしても構わないと?」
「はい」
少年の答えには迷いがない。
蒼田は、胸の中で何かがざわめき続けるのを感じていた。
こんな感覚は、初めてだった。
「私は、君の出す条件の下、君が望む『みっつの出資』をすると約束した。だが、これが、公にできるようなものではないことは、理解しているね?」
蒼田は言った。
「はい」
少年は言った。
「未成年に『何でも言うことを聞く』ことを条件に大金を貸すという約束が公になれば、たとえ未成年の方から言い出したことであっても、理事長先生に社会的不利益をもたらす可能性が高いということは理解しています。
ですが、騒ぎになれば私も無事では済まないはずです。
私と理事長先生の約束が妹の耳に届けば、妹は心を痛めるでしょう。
私が理事長先生を裏切ることは、あり得ません」
「妹さんが死んだときには?」
「同じです」
さっきと妹の死に言及したときと同様に、少年は気負いなく言った。
「妹が死んでしまったとしても、私には医師としてより多くの人を助けるという目標があります。
塩田高校の評判が落ちれば、塩田高校卒業生としての私の評価も落ちます。理事長の歓心を買って卒業したと思われれば、私の能力も疑われます。
評判の悪い医師に、命を預けたくないのは患者の当然の心理です。
理事長先生と私の約束が明るみに出ることは、医師になりたい、医師としてより多くの人の命を救いたいという私の目標の妨げになる確率が高いです。
理事長先生との約束を公にすることに、私にとってのメリットはありません」
「そうかね? 私の突き付ける無理難題から逃れられるというメリットは、あるだろう?」
「俺は逃げません!」
突然、少年は声を大きくした。
「自分から選んだ状況から逃げるのは、人間として最低のことです! 俺は、父さんのように逃げたりはしない!」
今までになく、険しい表情。
握りしめた少年の手が震えていた。
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