第20節
20ー1 理事長室からも、廊下からも入ることができるその部屋は、蒼田の仮眠室だった。
理事長室からも、廊下からも入ることができるその部屋は、蒼田の仮眠室だった。
セミダブルのゆったりとしたベッドと、コンソールテーブル。窓を背に置いたひとりがけのソファーとその横のサイドテーブル。壁にはテレビとスピーカー。バス、トイレ、小型冷蔵庫、電気ポットやアメニティも揃っている。クローゼットには、スーツ、シャツ、新品の下着も用意してある。
蒼田にとって、快適に過ごすために最低限必要だと思うものを揃えたこの部屋は、いわば避難所だった。この校舎の設計をする頃にはもう、妻と顔を合わせにくくなっていたため、自宅に帰らなくても済むようにと作ったものだ。
今となっては避ける妻もいないので使用頻度も下がっているのだが、いつでも使えるように清掃スタッフが毎日メンテナンスしている。
「まずは、シャワーを浴びたまえ。コーヒー臭い。脱いだものは全部ランドリーバッグへ入れるように」
クローゼットの中から取り出したランドリーバッグと一緒に、蒼田は少年を洗面所に押し込んだ。
理事長室に戻り、購買部長に連絡をしてSサイズの男物の下着、ワイシャツ、制服のスラックスを含めた着替え一式を手配する。
ほどなく、料理長が手配した清掃部長が、絨毯のしみ抜き道具一式を抱えてやってきた。
軽井沢の系列ホテルのハウスキーパー長から引き抜いた中年女性は、「失礼いたします」と頭を下げると、黙々とソファーと絨毯を汚したコーヒーを掃除しはじめる。
清掃部長が仕事を始めた直後、購買部長が紙袋に着替えを入れて持ってきた。彼は、元・苗場の系列ホテルのコンシェルジュだ。
「ホテルレベルの最高の生活環境と、最高の教育環境を提供する、選ばれた子女のための全寮制高校」のメインスタッフに相応しいと、蒼田自身が選んだ彼らの口は、蒼田以外に対しては石より固い。
購買部長の差し出す紙袋を受け取り、蒼田は再び仮眠室の扉を開けた。
クローゼットの前に紙袋を置いてから、シャワーの音と湿気の気配がバスルームから漏れ出る洗面所を覗き込めば、足元に膨らんだランドリーバッグがあった。洗面所のこちら側の絨毯の上には、学校指定の革靴が揃えて置かれていた。
ランドリーバッグを取り上げてもう一度理事長室に続く扉を開け、扉の脇にそれを出す。
「譲原さん」と清掃部長の名を呼べば、彼女は「はい」と返事をして洗剤でも入っているのだろうスプレーを置いて立ち上がった。
「これをランドリー部に。明日の昼までに仕上げて、仮眠室に届けておくように伝えてくれ」と言いつければ、「かしこまりました」と彼女は頭を下げた。
必要なことを済ませて仮眠室に戻り、理事長室に続く扉を閉めて鍵をかけ、蒼田は座り慣れたひとりがけのソファーに腰を下ろした。
一度座ったものの、じっとしていられない気分になってすぐに立ち上がってしまう。
冷凍庫に冷やされているウォッカを出したい気持ちをぐっと押さえて冷蔵庫を開け、蒼田はガス入りミネラルウォーターの緑のガラスボトルを取り出した。
ガスの抜ける音を響かせボトルのキャップを開けてから、グラスを出していないことに気付く。
グラスを出すか一呼吸迷ってから、蒼田はボトルに口をつけて炭酸水をあおった。ラッパ飲みなどという行儀の悪いことをしたのは、つきあいでせざるを得なかった大学の頃以来だった。
舌の上で弾けながら喉を通り過ぎた冷たい炭酸水が胃に到達するが、すっきりもさっぱりもしない。
苛立ちに舌打ちして、蒼田は舌打ちをしてしまった自分に、はっと我に返った。
これもずいぶんと久しぶりのことだ。
「いかんな」
つぶやいて、ひとつ深呼吸をする。
苛立ちの原因は、わかっている。
あの少年だ。
人間とは、利己的な生き物だ。
愛情もまた、利己的なものだ。
誰かのために、本当に『何でもする』人間などいない。そこまで誰かを愛せる者などいない。
「誰かを愛している自分」に酔って「『何でもする』」と言い放っても、実際に自分の「してもいいことの限界」に直面すれば、逃げ出してしまう。無理だと音を上げる。
それが人間というものだ。
それが愛情というものだ。
息子の教育方針の違いをきっかけに同居していた祖父と衝突し、様々なトラブルの末に肝心の息子を置き去りに軽井沢の別荘に逃げ込み、あてがわれた使用人に世話をされながらひきこもることを選んだ母。
「あなたが生きていてくれればそれでいい」と涙を流したくせに、7年後にはくだらない間男を自宅に連れ込んだ妻。
そんな母をかばわなかった父も、そんな妻を許せなかった自分も含め、それが人間の当たり前の限界であり、それが人間の愛情の当たり前の限界なのだ。
そのはずなのだ。
今まで見て来た、金を求めて目の前に現れた人間も、皆そうだった。
だからこそ、あのぬるいコーヒーの仕込みで、その全てを退けることができたのだ。
なのに、あの少年は違うのか?
何故、あんなことができるというのか?
熱いコーヒーを頭から被ったらただでは済まないというわかりきったことを、想像することもできないほどの馬鹿だからなのか?
薄茶色の液体を髪から滴らせながら、こちらを睨むように見つめた少年の目が脳裏に浮かぶ。
胸の中で何かが震えているような気がする。
じっとしていられないような気分に、蒼田はもう一度炭酸水のボトルを口元に持って行こうとして、思い留まる。
ラッパ飲みなど、自分らしくないことだ。
冷静さを失っている証拠だ。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら、蒼田はコンソールテーブルの引き出しに収められているグラスを取り出した。
水滴の跡ひとつないグラスに炭酸水を注いでボトルを窓際のテーブルに置き、蒼田はグラスを手に隣のソファーに腰かけた。背もたれに体を預け、冷えた炭酸水を一口飲む。
さわやかに喉を駆け下りる感触。それを心地いいいと思える自分にほっとした直後、がちゃりとバスルームの扉が開く音が、蒼田の耳に届いた。
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