19-3 これは、蒼田のいつものやり方だった。

 

 

 これは、蒼田のいつものやり方だった。

『何でもする』と言いながら実は『何でもする』つもりなどない、そのくせに、無茶な要求を突き付けてくる人間を引き下がらせるための、いつもの手だ。

 料理長は、蒼田が「いつもの」と注文をしたら、60度以下になるように冷ましたコーヒーを持ってくる。

 出された直後のコーヒーを指し、「要求を聞いてやるから、2秒以内にそれを頭から被れと」言えば、まず、ほとんどの人間が動けない。

 そのコーヒーが火傷しない程度のぬるさだということは、ぱっと見た瞬間にはわからない。2秒以内と言われれば、カップに触れて温度を確かめる時間もない。

 これを始めた頃、蒼田は、相手が「熱いコーヒーを頭から被れと言われている」と思い込んで、即座に「無茶を言うな」と拒否するか怒り出すだろうと予想していた。

 だが、実際には、そういう反応をする人間はいない。

 ほとんどの人間は、言われた言葉の意味を理解できなくて、きょとんとして2秒を過ごす。

 いずれにせよ、物事の判断をする天秤の片方に、「何でも言うことを聞く」などという願望を乗せてくるような人間に、「何でも言うことを聞く」と言いつつ、そうする心の準備も、そうする覚悟もないような人間に、「貸して」やる金などない。

 2秒を待ってから、「『何でもする』のではなかったかね?」と言ってやれば、『何でもする』はずの人間は、それを実行できなかったことを正当化しようとする。

「意味が解らない」

「できるわけがない」

「火傷をしろというのか」

「ここで自分が火傷したら、騒ぎになってあなたに迷惑がかかるからしなかった」と言い出した人間すらいる。

 自分の分のコーヒーを飲みながら、「このぬるいコーヒーで、火傷を出来るというのかね?」と言ってやると、大体終わりだ。

 眼の前のコーヒーの温度を確かめ、それが体にかけても火傷をするような温度でないと理解した人間は、自分が最大のチャンスを逃したことも理解する。

 後は、「君は、私に覚悟を示すことができなかった。残念ながら、君の望む『出資』はできない。今後、君からの金の相談には一切応じない」と告げてがっかりさせてやる。

 その後で、「これは寄付だ。返さなくていい」と、「逆恨みを買わないためのコスト」として、返って来なくても惜しくない金額をくれてやる。

「君が本当に『何でもする』覚悟が決められるのなら、私以外の誰かから『出資』してもらうこともできるだろう。がんばりたまえ」とでも言ってやって、それで終わるはずだった。

 

 

「2秒以内に、それを頭から被りなさい」

 そう言った途端、少年はコーヒーカップを手に取った。温度を確かめるような間も置かず、即座に頭上でカップをひっくり返す。

 傍らで、料理長が息を飲んだ。

「2秒……間に合いましたか?」

 褐色の液体を髪から滴らせながら、少年は言った。

 コーヒーの相当量は、短髪と呼ぶには長い髪の毛の表面を滑って応接セットのテーブルの手前、少年の膝の間へとぼたぼたと落ちていった。

 一部の頭髪にしみ込んだコーヒーが、少年の生え際から額へと這いおりてきて、鼻梁の横を伝って唇の端を濡らしながら顎先に到り、滴り落ちる。

 顔を濡らす褐色の雫を拭わぬまま、少年は蒼田を真っ直ぐ見つめていた。

 蒼田は、しばし言葉を失った。

 体の中で何かがわなないていて、それが蒼田から言葉を奪っていた。

 この命令に瞬時に応じることができた人間を見たのは、この少年が初めてだった。

「理事長先生、間に合いましたか?」

 睨むように見据えられながら問われて、蒼田は我に返った。

「……2秒以内。間に合ったと認めよう」

 蒼田が言えば、少年はほっと息を吐いて、「よかった」と笑った。

 その表情が、あまりに年相応の子供らしく見えて。

 少しばかり拍子抜けした気分で、蒼田は笑顔を作った。

「君は私の出した条件を満たした。約束通り、君の申し出た条件で、君の望む『出資』をしよう」

「それができたら『出資』する」と言ったのは自分自身だ。

 本当に実行されて『出資』することになったのは計算外だったが、これは自分の失敗だ。教訓とするためにも、ここは自分で失敗のツケをしっかり払わなければいけない。

「ありがとうございます!」

 少年が頭を下げると、髪の毛の隙間に溜まっていたのだろうコーヒーの雫がぼたぼたと落ちた。

 コーヒーの香りが理事長室を満たす。

 蒼田が料理長に目を向ければ、料理長は呆然と少年を見ていた。料理長も、自分が用意したコーヒーを頭から被った人間を見たのは、これが初めてなのだ。

「千葉」と声をかければ、料理長ははっと姿勢を正して蒼田へ顔を向けた。

「彼に、何か拭く物を」

 ワゴンの下段から出された大判の白い布巾を料理長から受け取り、少年は未だぼたぼたとコーヒーを滴らせる髪をそれで押さえた。

 ともあれ、コーヒーでずぶ濡れでは、念書を交わすこともままならない。少年が頭を拭うのを眺めながら、手持無沙汰なのを誤魔化すように、ところで、と蒼田は口を開いた。

「ところで君は、何がきっかけでコーヒーがぬるいことに気付いたのかね?」

 少年はきょとんとした表情で顔を上げた。

「あ。そういえば、熱くない……ですね?」

 一瞬、その言葉の意味が解らなかった。

 その意味に気づいた時、かっと頭に血が上ったような気がした。

 この少年は、コーヒーがぬるいことに気付いていなかったのに、それを頭から被ったのだ。

「馬鹿か、君は!」

 思わず、蒼田は立ち上がった。

 少年の手を掴み、引き立て、戸惑う少年に構わず手を引いて、廊下に出る扉の横の壁にある隣の部屋に続く扉へ向かう。

「千葉! 後始末の手配は任せたぞ!」

「PRIVATE」のプレートが貼られた扉を引き開けながら怒鳴るように料理長に言えば、即座に「承知いたしました」と返事が聞こえてきた。

 

 

 

 20へ続く

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