17-2「失礼します」という声とともに、ドアが開いた。
「失礼します」という声とともに、ドアが開いた。
7月の梅雨の晴れ間、標高の高い土地特有の涼やかさを持つ午後の風が、ドアの向こうの廊下の窓から入ってきて、デスクの背後の窓へとそっと抜けていく。
理事長室の空気を入れ替えながら入って来たのは、ノートPCのディスプレイに表示された写真の当人、特待生・峰真治だった。
高校1年生、15歳男子としては、少し背が低い。
このくらいの年齢は、成長の個人差が大きい。入学時から180cmを超える男子もいれば、女子よりも小柄な男子もいるが、少なくとも全国平均よりは低いだろう。
金ボタンの学生服を詰襟まできちりと留めて着ているが、高校生か中学生かと聞かれたら意見が分かれそうなところだ。
入学時には短めだった髪は、散髪する余裕もなかったのか、そろそろ切ったらどうかと助言したくなる長さになっている。
数か月前の入試の面接の時にも、入学式の新入生代表挨拶の時にも感じられた、少年らしいはつらつとした雰囲気は、今は鳴りを潜めている。
代わりに見せる硬い表情に、緊張が見て取れた。
当然といえば当然だろう。
「理事長先生」と、峰真治はドアの近くで背筋を伸ばして言った。
「今日は、お時間を割いて下さり、ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
「生徒のために時間を作るのは、理事長として当然のことだよ。食堂でできる話もあるけれど、人目のあるところではしにくい話もあるからね」
鷹揚に頷いて、蒼田はデスクと扉の間にある応接セットを右手で示した。
「まあ、そこは話をするのには遠すぎる。かけたまえ」
峰は少し戸惑ったようだった。
この反応には覚えがある。都立高校に通っていた時、顔とスタイルはまずまず、頭は良い奨学生の女子と付き合って、自宅に招いた時の反応にそっくりだ。
自宅に応接セットすら無い、どこが自分の座るべき席かを学ぶことがない生活レベルだったのだろう。
名前も覚えていないあの女子は、戸惑った末に、出入り口から一番近いひとりがけのソファに座ったが、この少年はどうするだろうか?
そう思っていたら、「すみません」と少し恥ずかしそうに峰が言った。
「俺……私は、こういう席のマナーを知らないんです。どこに座れば理事長先生に失礼がないか、教えていただけませんか?」
自分の無知を恥ずかしいと思いながら、知らないことを知らないと言える。素直に教えてくれと言える。
この年頃の子供――特に、この塩田高校に来るような子供には、あまりいないタイプだ。
「基本的には、『長椅子の出入り口に一番近い席』が訪問者側の下座になるね。ひとりで訪問したときに応接セットに座るように勧められたら、まずそこに浅めに座るのがいいだろう」
蒼田は立ち上がり、応接セットへと向かった。
「出入り口から一番遠い、背もたれと肘掛のあるひとりがけの椅子が、ホストの席だ」
自分でホストの席と言った椅子に座り、長椅子の下座に峰が座るのを待ってから笑いかける。
「そして、ホスト側が上座を勧めたら、『失礼します』と断ってからそちらに移動する。『もっとこちらへどうぞ』」
自分の向かいの長椅子の上座を右手で示して言えば、峰は言われた通りに「失礼します」とそちらへと移動した。
「ありがとうございます。勉強になりました」
正面に座ったところで頭を下げる峰に、蒼田は優しげに見えるだろう笑みを作ってやった。
「気にしなくていい。高校を卒業するまでは、マナーを身につけるための学習期間だ。ご両親の代わりに必要なマナーを学ぶ機会を提供するのも、ご両親から君たちを預かっている当校の役割りだ」
眼の前の少年にもう両親はいないのだということ、少年がこの塩田高校での学習の継続が難しくなっていることを承知で、そのことには触れずにあえてにこやかにそう言ってやる。
「ところで、折り入って相談したいこと、というのは何かね?」
そう水を向けてやれば、峰は表情を引き締めた。
「今日は、理事長先生にお願いがあって来ました」
「お願い?」
どんな『お願い』をされるか、大体の予想はついている。
けれど、蒼田はわざとそうとぼけた。
「理事長先生は、私の現状をご存知ですか?」
「5月にお母さんを、先日お父さんを亡くしたそうだね。突然に両親を失って、さぞや不安なことだろう。当校も、『できる範囲で』サポートすると約束しよう。安心して、勉学に励んでくれたまえ」
蒼田は両手を広げて笑顔で言う。
「『できる範囲で』……」
峰は小さく笑った。
「それが、『塩田高校特待生規約の範囲で』という意味なら、私は塩田高校を退学しなければならなくなります」
「どうしてだね?」
「保証人を、見つけられないからです」
峰は言った。
塩田高校の特待生の規約には、特待生は3回の学期末試験のうちの2回で学年上位4割に入る成績を収めなければ、翌年の諸経費の免除を一部取り消すと定めてある。
その場合に支払わなければならない金額は、年間で500万円ほど。庶民にはぽんと出せない金額ではあるが、条件はずいぶんゆるい。仮にも特待生として入学できるくらいの学力の子供なら、まず、支払わなければならない状況には陥らないだろう。
だが、いざそうなった時に支払い義務を引き受ける、支払い能力のある人間は必要だ。
通常は、保護者である親が支払い義務を引き受けることになる。実際、峰も保護者を保証人とした誓約書を、入学時に提出している。
そして、その誓約書には、「保証人が死亡した場合、1か月以内に新たな保証人を立てなければ、特待生としての全ての権利を失い、年度始めにさかのぼり全ての費用を納入しなければならない」ということも書かれているのだ。
年間約三千万円の諸費用を納入できなければ、当然退学だ。
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