動機 解答編 彼の動機
第17節
17ー1 蒼田統の父・蒼田総司は、統が小学生の時に、病に倒れた。
スキルス胃がんで、発見された時にはもう手遅れだった。
死の床で父は、老いた祖父の手よりも痩せ細ったかさついた手で、幼かった統の頭を撫でた。
「お父さんは、病気に負ける。けれど、お父さんは、人生には勝った。お前という、優秀な子供をこの世界に残すことができたのだから」
それは、もう自らが何を成すこともできなくなった父にとっての、救いだったのだろう。
「だから、お前も勝ちなさい。勝ち続けて、優秀な自分を証明し続けなさい。周囲に期待を寄せられたら、それ以上のことを成してやりなさい。そうやって築き上げたものを、蒼田家の資産と信用を、次の世代に引き継ぎなさい。それこそが人の生きる意味なのだから」
父の残したその言葉は、統には当たり前すぎることだった。
優秀な自分が当たり前のことを当たり前にしていれば、結果的にベストの選択をし続けることになり、勝利し続けることになり、自らの優秀さを証明することになる。当たり前に期待されることを、当たり前にクリアしていけば、いずれ結婚をし、子供をもうけ、自分の優秀さの証明である富と信用と権力を、自分の優秀な遺伝子を引き継ぐ子供に遺して死ぬことになる。
それこそが、自分にとっての理想的な人生であり、その理想は当たり前に実現されるものである。
幼い蒼田統はそう信じていた。
父の死後、祖父・蒼田総一郎の庇護の下で成長し、成人しても、一点の曇りもなくそう信じていた。
そう信じていたのだった。
私立塩田高校校舎の三階、落ち着いた内装の理事長室で、通気のために半分ほど開けた窓を背に、蒼田統は革張りの機能性チェアの肘かけに頬杖をついて、重厚なデスクの上に開いたノートPCに顔を向けていた。
銀座の老舗テーラーで仕立てたスリーピーススーツに身を包んだ体は、定期的に生徒の体育の授業に参加しているおかげで、アラフィフと呼ばれる年齢の割に引き締まっている。二週に一度、土曜日に郊外の所有ホテルの美容部で整えている髪は、黒々として染める必要もない。
頬肉も顎下の肉も重力に抗う力を失っていない、まだまだ働き盛りという印象の顔に浮かんでいるのは、だが、どこか疲れたような表情だった。
ふつ、と理事長室の天井のスピーカーがかすかな音を立て、蒼田統は我に返った。続いて6限目の終わりを告げるチャイムが響き渡る。
開いた窓の外の屋外スピーカーと室内スピーカー、ふたつの距離の違う場所にあるスピーカーから同時に流れるチャイムのメロディ。わずかな波形のずれを伴って鼓膜を震わせる二つの音は、重なり合って複雑な音色となる。
聞き慣れているはずなのにどこか懐かしく響くチャイムを聞きながら、蒼田は理事長室のデスクに置いたノートPCへと視線を戻した。
画面に表示されているのは、塩田高校の生徒情報データベースの個人ファイル。
塩田高校特待生第1期生、峰真治。
IDカードに使うために入学式の後に撮影された証明写真が、画面の右上に表示されている。
その左には、身上調書が表示されている。
家族構成の表には、上から、父・峰貞治、母・峰礼子、妹・峰華子と、3人の名前が書かれているが、父の名と母の名は赤い文字で表記されており、隣の備考欄に追記がされている。
父・峰貞治の備考欄には、2018年6月29日、死亡と。
母・峰礼子の備考欄には、2018年5月18日、死亡とある。
つまり、峰真治というこの生徒は、先々月、先月と、相次いで親を失ったということだ。
蒼田は、クリックひとつで峰真治の成績表を表示した。
1年生1学期の中間テストの総合成績欄には、平均97.2点、学年順位1位と記載されているが、すでに結果が記載されていなければいけないはずの期末テストの総合成績欄には、斜線が引かれている。父の忌引きで期末テストを受けられず、追試をまだ受けていないためだ。
さて、どうするのがベストだろうか?
デスクチェアの背もたれに体をゆったりと預け、当たり前のようにそう考えてから、蒼田は苦笑した。
ベストの選択をしたとして、それが何になる?
いくらベストの選択を重ねても、己の経営者としての優秀さを証明し続けても意味はない。
かつて父が語った、かつて自分が当たり前に思い描いていた理想的な人生は。なんの瑕疵もない優秀な人間であれば実現したはずだった理想的な人生は、もう自分には望めないものになってしまった。
どれほど自分が社会的に優れた個体であるという証を重ねても、富と信用と権力を、名声を集めても、それを引き継ぐ子孫を得られないことが、自分が生物として劣った個体であることを証明してしまっているのだから。
もう一度、峰真治の身上調書を表示する。
父親の職業の欄には、自営業とあり、「個人タクシー事業者」と付記されている。
両親の学歴、職歴、妹の病歴まで調べ上げた身上調書には、両親とも高卒と記載されていた。
父親は地元の三流公立高校を卒業して地元のカーディーラーに就職、20歳で小学校中学校と同級生だった母親と結婚、22歳で地元のタクシー会社に転職、34歳で独立して個人タクシー事業者に。
母親は父親よりもマシな二流公立高校を卒業してスーパーに就職、20歳で結婚、24歳で第一子妊娠を機に退職、以降はパートとして同スーパーに勤務。
父親は独立したはいいが、思うようには稼ぎが増えなかったらしい。
昨年、妹・華子が小児性白血病で入院。
母親は娘のために週に2日、入院している名古屋の病院まで路線バスで長時間かけて往復する日々。
入院費、治療費で出費が増えた上に母親のパートの収入が減ったために家計は苦しく、このままでは兄・真治の進学費用もおぼつかないというのが、特待生制度に申し込んだ理由であると記載されている。
そして、身上調書の一番下の大きな備考欄には、両親の死因が記載されていた。
母の死因・クモ膜下出血、父の死因・轢死(自殺)とある。
つけられている画像データには、父親の自殺を報じる新聞記事。名古屋の中央西線の駅で、特急列車に飛び込んだということだった。
「負け犬が……」
蒼田にとっては、その一言で済んでしまう二人の人生だった。
さすが、頭の悪い人間は頭の悪い人生を歩んでいると、いくらでもこき下ろせる。
父親は、勤めていたタクシー会社をやめて独立した結果、収入が減ったらしいが、そんな計算もできないのかと思う。
娘の病気というイレギュラーは不幸な出来事だろうが、そういう事態にも保険などで備えるのが当然のリスク管理だ。
母親が週に2回も仕事を休んで娘の見舞いに行っていたという話も、馬鹿ではないかと思った。今時の大学病院など、完全看護だろう。家計が苦しいのなら、見舞いの回数を抑えてその分働いて、収入を確保するべきだ。
金銭負担を考えるなら、もっと近い病院を入院先に選ぶという選択もある。
馬鹿な選択を重ねた挙句、父親などは特急列車に飛び込んで数万人の足に影響を及ぼしているのだから、馬鹿は他人迷惑にならずに死ぬこともできないのかと呆れるしかない。
「負け犬が」
もう一度、蒼田はキッパリとその言葉を繰り返した。
そう口に出さなければいられない、自分自身の内面からは目を背けながら。
そのとき、ノックの音が聞こえてきた。
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