16-3「神尾さんは」と史朗に言われて、神尾は我に返って顔を上げた。
「神尾さんは」と史朗に言われて、神尾は我に返って顔を上げた。
「東京に帰らなくていいんですか? お仕事は、大丈夫なんですか?」
「うちの所属弁護士は優秀だから、私がいなくてもそれなりに仕事は回っている。この前の土日には、東京での蒼田の社葬に参列するために帰ったついでに、私でなければ、という用事をまとめてやっつけてきたよ。今のところ、何とかなっている」
「でも、いつまでもこのままではいられないでしょう?」
「史朗君が私を弁護人に選任してくれれば、必要な時だけこちらに来るスタイルに切り替えようと思っているよ」
「それは……」
目を伏せて、史朗は口ごもる。
最初の内は「必要ありません、帰って下さい」と言っていたのに、今はこれだ。ここまで繰り返してきた接見の意味は、それなりにあっただろう。
「まあ、私にもそろそろ東京に帰りたい気持ちはある。由美子の電話の声が、さびしそうなんだよ」
毎晩電話で聞いている妻の声は、実際、少しずつ元気がなくなっている。
「だから、今日は正直に思っているところを言おう」
史朗の目が、わずかに眇められた。
「史朗君。君が何故、私との接見に応じてこうして雑談をするようになったのか、私にはわかっている」
神尾はそう切り出した。
「君は、私から外界の情報を得たい。だから、私と接見することを選んでいる。違うかな?」
「なぜそう思うんですか?」
「違います」と即答せずに聞き返すということは、当たっているということだ。
パターンさえわかっていれば、本当に、この子はわかりやすい。
「君が、君自身のためでなく、誰かのために事件を起こしたことも、私には想像がついている」
史朗の問いに答えずにそう言った途端、史朗の雰囲気が変わった。
「どういう意味ですか?」
凄い目でこちらを睨んでくる。
「共犯者や、殺人教唆をした人間がいると思っているわけではないよ。
証拠もないから、警察には何も言っていない。
ただ私が、『砂川史朗は、自分自身だけのことならば、蒼田を殺すことよりも耐えることを選ぶ人間だ』と、そう思っているだけだよ」
「あの心中事件以降の砂川史朗は、」とは、あえて言わない。
心中事件以前の史朗には、合法的な手段でトラブルを解決する合理性があっただろう。
蒼田相手のトラブルが、性的な事柄であればなおさら簡単に解決できたはずだ。
それを公にされることは、蒼田自身にとってのダメージになる。「やめないのなら公にするぞ」と言えば、それで済む話だったろう。
史朗が蒼田を相手にした性的なトラブルに巻き込まれたというのは意外ではあったが、心中事件以降の自ら苦労を選ぼうとする史朗の姿を見ていたから納得もできた。
それが性的なものであったとしても、史朗にとって過酷なものであったとしても、史朗は蒼田を殺す必要などなかったはずだ。史朗はその苦痛を、五郎を助け、芙美さんの命を救うことができなかった罰として甘受しただろうから。
そんな史朗が蒼田を殺すことで、そのトラブルから抜け出そうとしたというのは、納得がいかない。
殺す理由のないはずの蒼田を、史朗が殺した理由。そして、その動機を隠す理由。
「君は、『誰か』を蒼田の手から守るために、蒼田を殺したんだ」
神尾は言った。
「きっとそれは、その『誰か』の意に反しているのだろう。『誰か』の協力を得られたのなら、君は合法的な手段で問題を解決しようとしただろうからな。
君は『誰か』のために、君自身の判断で蒼田を殺すことを決め、実行し、その『誰か』を守り続けるために、動機を黙秘しているんだ」
「神尾さんは、私が誰を守ろうとしていると思っているんですか?」
ほら、また質問で返した。当たっているのだ。
神尾は笑いたくなる気持ちをぐっと押さえた。ここで笑ってしまっては、史朗が頑なになりそうだ。
かといって、思い浮かぶ「誰か」の名前を口にするわけにもいかない。
万が一外した時に交渉の材料にならなくなるし、自分の予想が当たっていたとしてもそれを認めることができない史朗は、「外れているから交渉材料にならない」と主張するからだ。
だから、ここはこう答えるのが正解だ。
「言う必要もないだろう?」
史朗は睨むような目はそのままに唇の両端を吊りあげて笑った。
「本当は、そんな『誰か』の心当たりなんかないんでしょう?」
「少なくとも、今までの私が接見室で話題にした『誰か』か、これから話題にする可能性のある、事件関係者のうちの『誰か』だということは、わかっているよ」
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