15-4 揃えた物的証拠と人的証拠で、この被疑者の動機を証明することはできなかった。
揃えた物的証拠と人的証拠で、この被疑者の動機を証明することはできなかった。
真実を言い当てることで、自供へと導くこともできなかった。
感情を揺さぶり、失言を誘い、そこからさらに動揺させながら矛盾を追及し、屈服させ、抵抗を諦めさせることもできなかった。
「なあ。俺は、あんたにちゃんと罪を償わせてやりたいんだよ」
安藤は言った。
後はもう、本音で向き合って情に訴えるしかない。
「あんたは被害者を殺した。それは確かに犯罪だ。でも、あんたにも事情があったんだろう? その事情をちゃんと話して、『したこと』に相応の罰を受ける、それが本当の罪の償い方じゃないのか? 犯罪者の都合で勝手に刑罰を減らしちゃいけないのと同じように、勝手に刑罰を増やしてもいけない、それが刑事裁判ってもんじゃないのか?」
砂川青年は、安藤の言葉に困ったように笑いながら首を傾げた。
「犯罪者であっても、命をかけてでも、守りたいものはあるんですよ」
「命をかけてでもって……」
「私が死ねば、被疑者死亡で公判は開かれず、私の動機は永久に藪の中になります」
ことさらに気負ったようすもなく、砂川青年はそう言った。
「その代わりに、今以上にいい加減な憶測が乱れ飛んで、学校の皆さんに迷惑をかけることになるでしょうから、どうしようもなくなった時の最後の手段だと思っていますけど」
「あんた……自殺は逃げだって言ってたじゃないか……」
「だから、自殺せずに自首して来たんじゃないですか。私が自殺して済む話なら、こんな簡単なことはなかったですよ」
半ば呆然と呟く安藤に、砂川青年はどこか不満気に言った。
「私が、自分一人で計画、実行して理事長を殺した。その事実について争うつもりはありません。
私は理事長を殺した。
その事実をもって与えられる最大の罰を、私は当然のこととして受け入れるつもりです。
過去の判例を考えれば、動機を黙秘したとしても死刑になることはまずないでしょうが、たとえ死刑判決が出たとしても控訴するつもりはありません」
近年、殺したのが一人で死刑が確定した例は少なくない。
だが、被疑者が速やかに自首している上に、客観的に怨恨が原因と推測できるこの事件は、死刑判決が出た判例のパターンに当てはまらない。
確かに、死刑判決が出ることはないだろう。
「『だから、捜査を手加減してくれ』と言うつもりはありません。
ですが、犯罪者であっても保障されている黙秘という権利、自白を強要されないという当然の権利の行使に、遠慮をするつもりもありません。
いっとき、勘違いから『事実と違うこと』を口走ったとしても、それが書かれた調書に絶対に署名・押印しません」
砂川青年は、背を伸ばしたまま腰から上体を倒し、ゆっくりと頭を下げた。品のある、落ち着いた礼。
「お手数をおかけします。すみません」
頭を下げたままそう言い、一呼吸おいてから下げた時よりもゆっくりと頭を上げた砂川青年は、背筋を伸ばし胸を張り、安藤と目を合わせて笑った。
これは、決して諦めないという宣言だ。
被疑者の供述調書は、被疑者が署名・押印しなければ何の意味もないものだ。被疑者が「確かにこの通りに供述したと認めます」と署名・押印して初めて、供述調書の内容は被疑者の供述として認められる。
そうでなければ、警察が勝手に都合が良いことを書きならべて、勝手に「被疑者がこう自白している」と供述調書を作ることができてしまうからだ。
うっかり、自分にとって不都合ななにかを口走ったとしても、それはあくまで勘違いであると押し通し、供述調書にはさせない。
自分の守りたいものを守ることを、決して諦めないという宣言。
「わかりました」
安藤は両手を上げた。
この被疑者は、自殺して全てを隠し通す選択もあるのだということを十分に吟味した上で、「妥協して」自首して来ているのだろう。
並の覚悟ではない。
こんな被疑者を相手に、言葉尻を捉えてどうこうしようというのが、そもそも無駄だったのだ。
「この時期までに証拠を集めることができなかった段階で、こちらの負けだと納得しましたよ」
座っている事務椅子の背もたれに体を預けながら、「ああ」と安藤はため息交じりの声を上げた。
「凶器持参で血まみれで自首されたのが、痛かったですよ。
逮捕して身柄を確保しないわけにはいかない。逮捕したらタイムリミットは決まる。本部は『自首して来たんなら、あとは裏取りだけだろう』って応援を出し渋る。じっくり捜査する時間も、証拠固めする時間もないのに、被疑者は嘘の供述で撹乱してくる。まったく、やっかいな事件でしたよ」
過去形でそう言ってから、では、と安藤は背もたれから体を起こした。
「では、供述調書作りに付き合ってもらいますよ。覆した供述については、新たに調書を取り直さなければいけませんから」
「はい」
砂川青年は神妙な顔で頷いた。
「……以上、内容に誤りがなければ、署名をして指印を押して下さい」
安藤は砂川青年に向けた供述調書を、ボールペンの尻で文字を追いながら一通り読み上げてからボールペンを差し出した。
「はい」
砂川青年はボールペンを受け取って、もう一度じっくりと供述調書に目を通してから、几帳面な文字で安藤が示す場所に署名をした。
「で、実際のとこ、理事長のそっちの趣味ってどうだったんですか?」
黒いスタンプ台を差し出しながら訊ねれば、砂川青年は鼻を鳴らして笑った。
「そんなこと、私が知るわけが無いって言ってるでしょう? 刑事さんは本当に人が悪い」
左の人さし指を黒くしながら、砂川青年は調書に指印を押した。
手渡されたご印鑑拭きのティッシュペーパーを使い、慣れた様子で砂川青年はインクの付いた指を拭った。
「ありがとうございました」と丸めたティッシュペーパーを机に置く砂川青年の指には、指紋の溝に入り込んだ落としきれないインクが黒く残っていた。
16へ続く
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