第16節

16ー1 5月27日、16時過ぎ。


 

 

 5月27日、16時過ぎ。

 アクリルガラスの向こうのドアを、制服警察官が開けた。

 接見室に入って来た砂川史朗は、神尾と目が合うと小さく目礼をした。

 ドアを閉める警察官に「ありがとうございます」と礼を言い、史朗はアクリルガラスの前のパイプ椅子に座った。

「やあ、史朗君。今日も元気かね?」

 神尾がいつものように声をかければ、史朗はいつもの穏やかな笑顔で「はい」と応えた。

「今日は午後なんですね」

「午前中に一度来たんだがね。取り調べの最中だというから出直してきたんだ。君は、私が邪魔をしないことを望むだろうと思ってね」

「おっしゃる通りです」

「そろそろ、取り調べも佳境かな?」

「今日の取り調べで、一段落ですね。

 おそらく、今日か明日には書類送検、明日の午後からは検察官の取り調べというところだと思います。

 しあさっての30日、次の日の31日が土日で、検察も裁判所も基本的には休み。勾留期限が6月1日の月曜日と考えると、1日に起訴というところでしょう」

 目線を上の方に彷徨わせながら、史朗は言った。

 頭の中にカレンダーでも思い描いてるのかもしれんな。

 神尾はそんなことを考えた。

「そういえば、昨日、安藤刑事に史朗君と蒼田の性的指向について聞かれたよ。君、ゲイだったのか?」

「そういう自覚はないんですけどね」

 完全に否定しないのが、この子らしい。

 困ったように首を傾げる史朗に、神尾は思う。

 きっぱりと否定しないで遊びを作るこの子の言い方が、すでにその余地を認めているようなものだということを、あの安藤という刑事は見抜けただろうか?

 この子は嘘を吐くのにためらいはないが、嘘と本当の境目に誠実すぎる。

 虚言癖のある人間や、悪意を持ってかく乱してくる人間は、嘘を吐く必要のないところまで嘘を吐くものだが、この子はそれをよしとしない。無意識にか、できるだけ嘘を少なくしようとするから、こういう物言いが増えるのだ。

 つくづく、民事向きではない。弁護士を目指すのに、刑事弁護を志したのは良い判断だったろう。

「神尾さん?」

 つい笑ってしまっていたら、通気穴をずらした二重のアクリルの円盤の向こうから、史朗がいぶかしげな目でこちらを見ていた。

 

 母親の芙美さんのお腹の中にいた頃、まだ黒白のエコー画像でしか存在を確認できない頃から、五郎に写真を見せられていた。

 自分に子供が望めないと分かってからは、五郎の所に飲みに行く度に少しずつ成長していく姿に、「もしも自分に子供がいたら、こんななのだろうか」と思っていた。

 中学に入学したとき、お祝いに何が欲しいかと聞いたら、「物やお金は要りません。弁護士バッジを触らせてください」と言われた。金メッキがほとんど剥げて地金の銀が出た弁護士バッジを渡してやれば、「いぶし銀の渋い弁護士バッジは、ベテランの証なんですよね」と、色白の頬を紅潮させながら目を輝かせていた。

「なんか、お前みたいなかっこいい弁護士になりたいんだってさ。アンティーク家具には目もくれやしない」と酔った五郎が不満気に言ったときの、何とも照れ臭い気分を自分は覚えている。

 その後、裁判の傍聴をきっかけに興味が刑事弁護の方に向いて行ったようだが、それでも、自分の母校の高校に合格したと聞き、難関私大の法学部に合格したと聞けば、そのたび妻と二人でこっそり祝杯を挙げるくらいに嬉しい気分になった。

 とても記憶力が良くて優秀な子だから、合格率20%もある現行の司法試験ならば、間違いなく合格するだろうと思っていた。

 弁護士バッジをつけたこの子の姿を見ることを、楽しみにしていた。

 本当に、楽しみにしていたのだ。

 

 そんなこの子が。

 ずっとその成長を見てきた、進む先には輝かしい未来しかなかったはずのこの子が、なぜ、このアクリルの板の向こう側、犯罪者の領域に居るのか?

 五郎が起こした事件は、確かにこの子にとっては痛手だっただろう。

 だが、闇金業者に追い立てられてゆっくり自分のこれからのことを考えられない状況を改善すれば、時間が経って落ち着けば、改めて自分の未来を見直すこともできるだろうと思っていた。

 中学生の頃から、あれほど真っ直ぐに目指していた弁護士への道を、改めて歩むこともできるだろうと、そう思っていた。

 

 今となっては、もう、弁護士になることは不可能になった。

 厳密に言うならば、法曹資格を取ることはできる。

 被害者が一人、すぐに自首して来たこと、強盗など金銭目当てではないことを前提とすれば、量刑は懲役13年から15年というところだ。

 刑法第34条の2の1に、「禁錮以上の刑の執行を終わり又はその執行の免除を得た者が罰金以上の刑に処せられないで10年を経過したときは、刑の言渡しは、効力を失う。」とある。

 たとえ殺人罪であっても、懲役刑を終えてさらに10年を品行方正に過ごしていれば、書類上は前科が消える。欠格事由に抵触しないからには、司法試験を受験することも、司法修習を受けることもできるだろう。

 真面目に服役し、早めに仮釈放され、それから10年。50歳に近い年齢になろうと、理屈では法曹資格を取ることはできる。

 だが、そこまでだ。

 弁護士は、弁護士法によってその業務が定められている。弁護士法第9条には、「弁護士となるには、入会しようとする弁護士会を経て、日本弁護士連合会に登録の請求をしなければならない。」とある。弁護士会に登録しなければ、弁護士になることはできないのだ。

 そして、弁護士会は、殺人犯の登録を決して許してはくれまい。

 

 この子が真っ直ぐに思い描いていた、つい1年ほど前には当たり前にそうなると信じていた未来は、永久に閉ざされたのだ。

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