9-3 線香のようすを見たいと言う蒼田真治少年と一緒に、遺体が安置されている和室のつづき部屋に行く。

 

 

 線香のようすを見たいと言う蒼田真治少年と一緒に、遺体が安置されている和室のつづき部屋に行く。

 棺の手前に設えられた被害者の遺影や花が飾られた簡易祭壇には、渦巻線香のぶら下げられた吊り香炉とは別に仏前香炉と普通の線香も用意されていた。安藤は少年の許可を得て線香を上げさせてもらうことにした。

 通夜なので一本だけ、火をつけた線香を香炉の灰に立てる。どうか事件の真相を明らかにする手助けをして下さいと祈ってから顔を上げると、少年は棺の開かれた窓から遺体の顔を見ていた。

 かたわらに行ってのぞき込めば、丁寧に死化粧を施された被害者が、眠っているかのように穏やかな顔で白い絹の枕に頭を預けていた。凶器で切り裂かれたはずの首には、肌色の布テープが張られていた。おそらく、布テープの下には縫合された傷口がある。スーツを着せられ、シャツの襟の内側にアスコットタイをふんわりと結ばれているので、テープの大部分がタイに隠れて、一見するとそこに大きな傷口があるとはわからない。年齢の割に引き締まった体形と合わせて、実にスマートな印象だ。

 このあたりでは経帷子で棺に納めるのが定番だが、お金持ちは死装束も洒落ている。

「安らかな顔をしているね」と言ったら、少年は「そうですか?」と小首を傾げた。

「理事長先生の寝顔なんて見たこと無かったから、なんかピンとこないんですよね……本当にこれ、理事長先生なのかなって……」

 これは確かに、親しい人の死に臨む人間としては、一般的でない反応かもしれない。

「おとうさんのことは、どう思ってるのかな?」

 安藤はそう訊ねてみた。

「さっき話したでしょう?」

 きょとんとする少年に、安藤は「こちらのお義父さんのこと」と右掌で棺を示した。

「すみません、俺にとっては理事長先生は理事長先生なので……養子縁組はしましたけど、『おとうさん』と言われても、本当にピンとこないんですよ」

 困ったように少年は言った。

「養子縁組して数か月じゃ、実感もなくて当然だな。……じゃあ、『理事長先生』のことは、どう思ってるのかな?」

 少年は少し考えてから、口を開いた。

「色々ありましたけど……なんか、すごい遺産押し付けられて、正直困惑してますけど……今は、感謝の気持ちで見送ろうと思っています」

「色々?」

「養子縁組のことも、遺産のこともそうなんですけど、理事長先生は、自分のやりたいことがあったら、一度は引いて見せても最後には押し通しちゃう人だったんで、まあ、色々」

 少年は苦笑した。

「でも、理事長先生がいなければ、俺は今頃、医者になることを諦めて公立高校に編入して、施設から通いながら、卒業後にどうやって生きていったらいいのかって悩んでいたと思います。華子の治療費の心配もしてたと思います。色々補助はあるので入院も、保険でできる範囲の治療も続けられたでしょうけど、『保険適用外だけど効果のある薬』があっても、経済力が無ければ使えませんから。

 だから、色々あったのを差っ引いても、理事長先生には、感謝してもしきれないと思っています」

「それに」と、少年は目を細めた。

「理事長先生がいなければ、出会えなかった人がいますから」

「学校に好きな娘でもいるのかな?」と聞けば、「それは言えませんね」と少年は笑った。屈託のない笑顔に、安藤もつられて笑いそうになってしまった。

 しかし、その笑顔をくもらせると分かっている問いを、自分は投げかければならない。

 安藤は表情を引き締めて、今まで避けてきた話題に切り込んだ。

「被疑者……砂川史朗については、どう思ってる?」

 わずかに少年の眉が寄った。

「今は…………もっと、他のやり方はなかったのかと、そう聞きたい気持ちでいっぱいです」

 うつむいてそう言う。

「真治君から見て、砂川史朗はどういう人物だった?」

「いい人です。頭が良くて、気配りの人で、優しくて、頼りになる人でした」

 頼りになるというのは、大人からは出てこなかった被疑者の人物像だ。

「個人的に、頼ったことがあったのかな?」

「はい……俺は国立大学進学を目指してたんで文系科目も重要なんですけど、夜学……夜の学習サポートの講師陣は、他の生徒の重点教科ということもあって理系ばかりなんです。夜に分からなかったことは、翌朝に先生に聞きに行かなきゃいけなかったんですけど、砂川さんは文系科目は得意だって。わからないことがあったら、聞きに来ていいって、言ってくれたんです」

「ああ……暗記科目は得意だとか言ってたな……」

 少年が顔を上げてこちらを見た。

「砂川さんと、話をしたんですか?」

 少し硬い声で、そう聞かれる。

「そりゃあ、取り調べをするからな」

「あの……」と言いかけた少年は、何かに迷うように視線を逸らし、それから改めてまっすぐこちらに目を向けた。

「理事長先生を殺した理由を、砂川さんは、なんて言っているんですか?」

 さて、どう返事をしたものか……

 迷った末に安藤は口を開いた。

「それは、捜査上の秘密だから言えないんだ」

 がっかりしたのか、少年は視線を落としてため息をついた。

「真治君は、どういう理由で彼が被害者を殺したんだと思っているんだい?」

「砂川さんは、滅多な理由で人を殺すような人じゃないと思います。それなりの理由が……」

 そこまで言って、少年の言葉が止まる。

「それなりの理由が、被害者と被疑者の間にあったと、思ってるのかな?」

 安藤が言えば、少年は顔を上げた。眉根が寄り、口元に力が入っていた。

「いえ……理事長先生には、殺されなければならないような理由なんかなかったと思います」

 そう言い切って、棺桶の中の理事長の顔を見下ろす。

「何があったって、殺すの殺されるのって程のものじゃなかったと思います。こんなことになって……俺は悔しいです……」

 俺が、と絞り出すように少年は言った。

「俺が……もっと大人だったら……華子だけじゃなく、さ…………もっとたくさんの人を守れるくらい、大人だったらよかったのに……」

 棺桶の上で、少年は右手を握りしめる。

 大人になったって、自分以外の誰かを本当に守れる人間など滅多にいない。

 けれど安藤は、今、必死に妹を守ろうとしているこの少年に、その真理を告げることはできなかった。

 同じ年頃の少年に比べれば、十分すぎるほどに大人な少年は、涙をこらえるような顔で力を入れた右手をわずかに震わせていたのだった。

 

 

 

 10へ続く

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