9-2 さすがに子供の目の前で行儀悪くガツガツ早食いをするのは、大人として問題がある。
さすがに子供の目の前で行儀悪くガツガツ早食いをするのは、大人として問題がある。できる限りの上品さで安藤が弁当を食べ終えた頃には、蒼田真治少年はカツ丼とサラダを食べ終え、クリームデニッシュの袋を開け始めていた。
「えーと、蒼田君」
安藤はすっかりぬるくなったお茶を手に取り、そう声をかけた。
「あの、すみません。よかったら、峰か、真治って呼んでもらえますか? 呼ばれ慣れてなくって、自分のことだと思えなくて」
困ったような少年の表情に、そういえば通称使用していたのだったなと思う。
「……真治君、甘い物、好きなのかい?」
「好きというか、必要な感じがします。糖分足りないと、勉強の集中力が落ちるんです」
「まさか、今日も勉強を?」
「テッペキは持ってきました」
「テッペキ?」
「銀紅会帝大英単語熟語、テッペキ。英単語・英熟語の単語帳です」
「勉強が好きなんだな」
「好きじゃないですよ」
意外な返事をしてから少年は、袋から半分はみ出させた菓子パンにがぶりとかじりついた。
「好きじゃないのに、よくそんなに勉強するね」
「他に医者になる方法が無いんで、仕方ないです」
「医者になりたいのは、妹さんのため?」
「はい。でも、最初は本気じゃなかったんですよ」
もうひと口菓子パンを食べてから、少年は続けた。
「中二のときに、妹が白血病だって診断されて入院して。病気が病気だったんで父も母も沈みがちになってて……だから、二人を元気づけようと思って言ったんですよ。『大丈夫、俺が医者になって華子を治してやるから』って。
その頃には成績はそこまで良くなかったんで、『真治の成績じゃ無理だな』って父に笑われて。悔しいから次のテストでがんばったら初めて学年トップになって、褒められて。『この調子でがんばったら、本当にお医者さんになれるかもね』って母に笑われて。
で、中学三年の最初の進路相談のときに、母が『この子、妹を治すために医者になりたいって、勉強を頑張ってるんです』って言ったのを担任が真に受けて、うちの経済力で医学部に入って医者になる方法はこれだって、塩手高校の特待生制度を教えてくれたんですよ。お小遣い以外は一切お金がかからないから、俺が高校に行っている間に貯金をすれば、大学は奨学金とその貯金で出られるだろうって。
でまあ、引っ込みがつかなくなっちゃって、受験してみたら本当に受かっちゃったって感じでした」
「成り行きかい?」
「そうなんです」
少年は屈託なく笑った。
「入学するときにはもう、妹は寛解……再発の危険はあるけれど、普通に生活できる状態になって退院してたんです。妹が治ったんなら、俺が医者になる必要もないよなあ、どうしようかなあと思ったんですけどね。
でも、よく考えてみれば、特待生の資格を取り上げられない程度の成績を維持できれば、3年間養ってもらえるってことじゃないですか。親の負担を考えたら悪い話じゃないなって、とりあえず真面目に勉強して特待生として卒業して医学部に入ることに決めたんです」
菓子パンをもうひと口食べると、少年は袋の中に残りの菓子パンを戻してテーブルに置き、湯のみに手を伸ばした。右手で持ち上げ、左手に乗せ、両手でお茶をすする。
自分と同じ湯呑みの持ち方に安藤は、やっぱりこれがこのあたりの普通だよなあ、と思った。
少年は湯のみを置き、再び菓子パンを手に取った。
「本気で医者になるって決めたのは、父が死んだときでした」
少年はそう言って、菓子パンにかじりつく。
安藤は黙って、少年の言葉の続きを待った。
「おととしの5月、俺が高校に入学してすぐ、母がくも膜下出血で死にました。6月に、妹の白血病が再発して、前にもお世話になってた名古屋の大学病院に入院しました。そして、妹の入院手続きを済ませたその足で、父は特急列車に飛び込んで自殺しました。
駅のホームのカメラに、特急列車の前にぽんっと両脚ジャンプして飛び込む父が映っていたそうです。
父は……俺も妹も放り出して、逃げ出したんです」
「だから」と少年は力強く言った。
「だから、俺は絶対に逃げないって決めたんです。
もう、華子には俺しかいないから。華子は俺が守るんだって、決めたんです」
自殺は逃げ。
ついこのあいだ、被疑者の砂川史朗から聞いた言葉だ。
親の自殺によって自分の力で生きなければならないと心に決めた少年の新しい親を、親の自殺によって人生が狂った青年が奪ったというわけだ。
年間自殺者三万人、40人に一人が自殺者の家族というこの時代。自殺者遺族同士が絡む事件は十分起こりうる話だ。
親の間違った決断が、何の罪もない子供たちの人生を狂わせている実例をみると、息が詰まるような気分になる。
その息苦しさを胃の腑に流し込むように、安藤は冷めた茶をぐいと飲んだ。
「それで、被害者……理事長に、支援を求めたんだ?」
気を取り直して、そう問いかける。
「はい。俺が差し出せるもので交渉できる相手は、理事長先生しかいないと思ったんです」
菓子パンの残りを食べながら、少年は言った。
「塩手高校の特待生制度にはいくつか条件があって、保護者が死亡して、別の保証人を見つけられない場合は、特待生の優遇がなくなることになっているんです。俺みたいな貧乏人は、実質、退学するしかないんです。
俺は、『学年トップの成績を維持すること。将来は難関国立大学医学部を受験・合格して、塩手高校の進学実績向上に貢献すること』を条件に、理事長先生に支援をお願いしました」
少年は空になったビニール袋をくしゃりと握った。
「華子を守るためには、華子の病気を治すのが大前提です。
骨髄移植ができたらよかったんですけど、1/4の確率で移植できる可能性のあった兄弟の俺とはHLA型が合致しなくて、今は骨髄バンクを通じてドナーが現れるのを待ってる状態です。高校生の今の俺には、何をすることもできません。
でも、医者になれば……何かをしてやれる可能性ができるんです。俺は、その可能性を捨てたくない。医者になりたいのは、そういう理由です」
ふと、少年は苦笑した。
「間に合えばいいんですけど」
その言葉に、妹の病状が決して楽観できるものでないことがうかがえた。
「間に合うに決まってるだろう!」
安藤が大きな声で言えば、少年は目を見開いてこちらを見返した。
言ってしまってから、自分の声の大きさに自分でもびっくりして、安藤は慌てて声を抑えながら続けた。
「妹さんを守ろうって真治君が、それを信じなくってどうするんだ」
「そう……そうですね……」
少年は握っている菓子パンの空き袋に目を落とした。
しばし続いた少しばかり気まずい沈黙。それを軽い咳払いで破ってから、安藤は少年に話しかけた。
「ところで、真治君は、何科の医者になりたいのかな?」
「白血病は血液内科の分野なので、そちらを目指そうと思っています」
顔を上げておそらくは作り笑顔だろう、けれど自然に見える笑顔でそう答えた少年に、安藤は笑顔を返した。
「もしも真治君が医者になる前に妹さんにドナーが見つかって、妹さんが元気になったらどうする?」
少年はとても無防備な顔で、ぽかんと口を開けて安藤を見つめた。
「やっぱり血液内科の医者になりたいのかな? それとも、外科とか、内科とか?」
「そうですよね……そういう可能性も、あるんですよね……」
そうつぶやいた少年は、安藤に向かってにかりと笑った。
「考えておくことにします」
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