8-2 通夜が終わったところでロビーに出ると、ロビーの隅のソファーでさっきの女が脚を組んでふんぞり返っていた。

 

 

 通夜が終わったところでロビーに出ると、ロビーの隅のソファーでさっきの女が脚を組んでふんぞり返っていた。両隣に向島と高木が立って逃げられなくしている。

 組まれた脚は素晴らしい脚線美を見せているし、広く開いた胸元もそこだけ見ればなかなかなものだが、いかにせん仏頂面なので色々と台無しだ。

 安藤が近づいていけば、女はじろりとこちらを睨んだ。

 貫録はあるが、肌艶や首元にシワがないところを見るに三十路前……被害者の愛人だろうか?

 そんなことを思いながら安藤は、向島の耳元に「で、誰だ?」とささやいた。

「被害者の元妻だそうです。大河内おおこうち小夜香さやか、38歳」

 ささやき返した向島の声に、思わず女を見下ろしてしまった。

 5歳以上の読み違いは刑事として情けないが、とても38歳には見えない。女は魔物とは、よく言ったものだと納得する。

「で、どうします? 現行犯逮捕しますか?」

「顧問弁護士が、殴られた当人の意向を確認してからすぐに来るとさ」

 会場のスタッフが通夜振舞いの席に会場から出た人々を誘導するのを横目に見ながら、安藤は言った。

 最後に会場から出てきた二人の人物が、こちらにやってきた。顧問弁護士の瀬戸と、神尾だ。

「小夜香さん、落ち着きましたか?」

「お久しぶりね、神尾さん。あの人と仲の良かったあなたのことだから、あなたもあの隠し子のこと、知っていたんでしょ? 知ってて私に黙ってたのよね?」

 ツンと顎を上げて、立っている神尾をソファーに座った高さから見下すように元妻が言う。

「誤解ですよ、小夜香さん。あの蒼田が、婚外子を後から養子にするなんて、体面の悪いことをするわけがないでしょう? そんなことは、あなたが一番よく知っているはずです」

「でも、神尾さん、蒼田が善意で気の毒な兄妹を引き取るような人間じゃないこと、あなただってご存知でしょ?!」

 元妻は組んでいた足をひらりとひるがえして立ち上がった。

「あの人は、自分の損得でしか動かない人間よ! 引き取らざるを得ない理由でもなければ、子供を引き取るなんて、ありえない!」

「あなたが何をどう勘違いしたとしても、真治様に手を上げた事実は変わりません」

 冷やかにそう言ったのは、顧問弁護士の瀬戸だった。

「離婚したときの条件は、覚えていらっしゃいますか? 蒼田家の名誉を傷つけた場合、月々の援助は打ち切るという条件だったはずです」

「その話にあの子は関係ないでしょ!」

「統様亡き今、真治様が蒼田家当主です」

「私は認めないわよ!」

「蒼田家と関係のなくなったあなたに、認められる必要などありません。

 そもそも、統様の通夜をあれだけ混乱させて、蒼田家の名誉を傷つけてないとは言わせませんよ。援助を打ち切られ、暴行罪で訴えられ、義父を亡くしたばかりのいたいけな少年の心を傷つけたことへの慰謝料を請求されても文句は言えないということ、わかってらっしゃいますか?」

「瀬戸!」

 冷ややかに言う顧問弁護士に、元妻は悲鳴を上げた。

「小夜香さん。でも、真治君はみっつのお願いをきいてくれるのなら、暴行罪で訴えることも、慰謝料を請求することもしないと言っているんですよ」

 そう穏やかに言ったのは神尾弁護士だ。

「『お願い』ですって?」

「『お願い』だそうです」

 神尾はそう頷いた。

「いいわよ、言ってご覧なさい。聞くだけ聞いてあげる」

 豊満な胸をぐいと張って言う元妻に、まず、と神尾は蒼田真治の「お願い」を切り出した。

「まず、明日の葬儀に、故人の元妻としてふさわしい形で参列してほしいそうです」

「なんですって?」

 元妻は目をしばたたかせて神尾を見返した。

「次に、蒼田と真治君のDNAを採取し親子鑑定をして、その鑑定の結果が出るまでは、真治君が蒼田の隠し子であるという小夜香さんの憶測を口にしないでほしいそうです」

「最後のお願いは?」

「DNA鑑定の結果、真治君が隠し子でないと判明したら、真治君の実のお母さんを侮辱したことを謝罪してほしいそうです」

「母親を侮辱って……」

「真治様を隠し子だと主張するということは、真治様を生んだ今は亡きご母堂が不貞を働いたと主張することです。これは真治様のご母堂に対する侮辱であると真治様はおっしゃっています」

 顧問弁護士が話を引き継いだ。

「しかし真治様は、そのみっつの『お願い』をきいてくれるのなら、今回の件一切を不問にしたいともおっしゃっています。通夜を大混乱させて、蒼田家の名誉を傷つけたことも含めて、一切を、です。この意味はわかりますか?」

 はあ、とひとつため息をついてから、元妻はうつむき、垂れた髪を右手で耳にかけた。

「わかるわ。援助は打ち切らないって意味よね」

 顔を上げた元妻は、すっかり毒気を抜かれた顔をしていた。

「DNA鑑定までして、要求するのが死んだママへの謝罪、ね……子供相手に、大人気なさすぎたわね」

 呟くように言うと、元妻は嫣然と笑った。

「わかりました。DNA鑑定は不要よ。これから彼に、失礼を働いたこと、お母様を侮辱したことへの謝罪をさせてくださる?」

「では、呼んで来ましょう」

「いいえ、皆さんとご一緒にいらっしゃるんでしょう? 私が行きます」

 そう言うと、元妻は背筋を伸ばして歩き出した。

「というわけですので、警察の皆さんにはお手数をおかけしましたが、示談成立ということで、よろしくお願いいたします」

 顧問弁護士は安藤たちに頭を下げ、神尾に改めて頭を下げてから、元妻を追って通夜振舞いの会場へと向かった。

「ええと……どういうことですかね?」

 向島が首をひねる。

「俺たちの出番はもうなくなったってことだよ」

 安藤はそう言って神尾をちらりと見やった。

「あの『お願い』は、神尾さんのアイデアですか?」

「いいえ。真治君本人の申し出です」

 神尾は頬をゆるめて目を細めた。

「蒼田の離婚の際に、何らかの条件が付けられていたみたいですね。瀬戸さんが『彼女を黙らせる方法はありますから、任せて下さい』と言っているのを止めて、あのみっつの『お願い』を言い出したのは真治君自身です」

 そこまで言う顧問弁護士を止めて、あえてあの条件を提示したと聞いて、安藤は内心で舌を巻いた。

 

 最初の顧問弁護士の様子を見れば、蒼田真治の条件を出さなくても元妻を黙らせることはできただろうことは想像がつく。

 どう考えても負け戦の元妻に、蒼田真治の出したみっつの「お願い」は格好のつく花道を整えてやったのだ。

 まず、「葬儀に、故人の元妻としてふさわしい形で参列してほしい」というお願いで、義父に深い縁のあった人物として敬意を払い遇する意思があることを示すと同時に、元妻により良いプライドの守り方を示した。

 次に、「DNA鑑定の結果が出るまで、隠し子よばわりしないでほしい」というお願いで元妻の口をとりあえず閉じさせるとともに、自分は隠し子などではない、DNA鑑定をしても構わないと主張した。

 最後に、「亡き母親への謝罪をしてほしい」というお願いだ。DNA鑑定をしてまで自己の正当性を立証した末に求めるのが、このささやかな要求では拍子抜けするのも当然だ。それだけに注目すれば、母親に必要以上に拘泥する幼さを持つ少年に見えるだろう。

 元妻は、蒼田真治を「まだまだ子供」と見下すことで自分のプライドを守る隙を見出すことができたのだ。

 そうして彼女は、蒼田真治が用意した全面敗北への花道を、ファッションモデルのように胸を張って優雅に堂々と歩いていくことを選んだわけだ。

 

「高校三年生で、大したもんだ」

 安藤が言えば、神尾は「大したものです」と頷いた。

「おかげで、友人の通夜が後味の悪いものにならなくて済みました」

 なるほど、顧問弁護士に協力して懐柔役をしたのは、それが理由か。

 安藤は納得した。

「蒼田が彼を養子に迎えた理由の一端を、見たような気がしますよ」

 神尾の言葉は、どこか嬉しそうだった。

 

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