第8節

8ー1 蒼田統の通夜は、T警察署から道に本隔てた場所にあるセレモニーホールで18時から執り行われることになっていた。

 

 

 

 蒼田統の通夜は、T警察署から道に本隔てた場所にあるセレモニーホールで18時から執り行われることになっていた。

 5月14日17時半過ぎ、安藤は署のロッカーに突っ込んであった黒いスーツに着替えてから、やはり黒スーツに着替えさせた向島以下三人の捜査員を連れて通夜の会場に足を運んだ。

 中央に通路を開けて六十脚ほどの椅子が並べられたホールの正面、多くの白い花に飾られた祭壇。その中央に置かれた黒いフレームの中で、蒼田統が年齢相応に自信に満ちた、でも制御された笑みを浮かべていた。

 まるで、企業のパンフレットのあいさつ文の横に印刷されている社長の顔写真のような、計算されて演出された笑顔。その笑顔から感じられる誠実ささえ計算の内であるように感じている自分に気付き、安藤は自分の額を左拳で軽く小突いた。

 この印象は、明らかに神尾や塀内校長から聞いた被害者の人物像に影響を受けている。

 証言は証言、他者の印象と自分の印象を混同するな。

 安藤はそう自分に言い聞かせた。

 目立たぬように会場の後ろの出入り口の近くに向島と立っていると、受付を済ませてダークスーツの襟に弁護士バッヂを着けた神尾尚志が会場に入って来た。安藤に気付くとひとつ目礼をして線香を上げに祭壇に向かった。

 やがて、時間が来て葬儀会社が用意したのだろう司会が参列者の着席を促し、通夜の開始を告げた。

 司会の進行に従い、仏式の通夜は粛々と進められ、読経の声が響く中、焼香が始まった。

「喪主、蒼田真治様」

 司会がマイクで焼香の順に名前を呼ぶ。親族や、近しい関係者は、事前に名簿を進行係に渡し、名前を呼んでもらって順に焼香をする。このあたりでは、通夜でも葬儀でもこうするのが普通なのだ。

 通路の左側のブロック、通路脇の一番前の席から、黒い学生服の少年が略式の数珠を手に立ち上がった。 数歩進んだ所で祭壇と僧侶に尻を向けない角度で会場に向かって一礼し、僧侶に向かって一礼してから焼香台へ向かう。みっつ用意された香炉の中央のひとつで焼香する。

 高校三年生にしては、少し線が細い印象がある。身長はそこそこあるが、肩幅が狭く、体の厚みがない。姿勢の良い背中だが逞しさまでは感じない。まだまだ成長途上にある体格だ。

 しかし、迷いなく落ち着いた立ち居振る舞いは、そこらにいる普通の高校生とは一線を画しているように見える。

 焼香を済ませると、少年は係員に誘導されて焼香台の手前、通路の横に立った。

「蒼田学園理事長代理、塀内澄恵様」

 進行の声に、通路の右側ブロックの上座に座っていた塀内校長が焼香に立ち上がる。参列者側に「お先に失礼します」という意味の礼をして、喪主に礼をして、祭壇に礼をしてから、焼香台へと進み出る。

 喪主の焼香の次が、もう他人だ。本当に被害者には親族がいないのだ。

 塀内校長を始めとして、学校法人蒼田学園の理事、評議員、監事が次々と焼香をしていく。安藤には評議員と監事がどういう仕事をする役職なのか皆目わからないが、問題はないだろう。

 それよりも、見るべきは参列者だ。こちらが把握していない関係者が来る可能性もある。そういう参列者がいたら、帰りがけに声をかけて身元を確認し、聞き込みに協力してもらうのだ。

 学校法人関係者の焼香が終わると、被害者が所有していたホテルの関係者の焼香が続いた。T市の他、箱根、伊豆、軽井沢、苗場、ニセコにグループのホテルがあるそうだが、通夜に本人が来ていたのはT市郊外にあるのホテルの社長と総支配人だけ。後は、それぞれのホテルの社長の秘書が代理で来ていた。

 明日行われるのはT市近辺に住む学校法人関係者向けの密葬で、そこで荼毘にふした後日、ホテルグループの本社のある東京で社葬を行うという話を聞いている。そちら関係の参列者は、最低限なのだろう。

 ホテル関係者の焼香が終わると、後の人は順に焼香ということになった。塩手高校の教師や事務員、講師、食堂の料理長や清掃スタッフも来ている。神尾も焼香の列に並び、焼香をする。

 スーツの襟に神尾と同じ弁護士バッヂを着けた、被害者の顧問弁護士もいた。まだ直接話を聞いてはいないが、確か、瀬戸幸之助という名前だったか。60代のロマンスグレーの紳士然とした印象の人物だ。

 焼香を待つ列がはけた頃、遅れて一人の女がやってきた。

 モデル並の長身と、豊満な胸と、整った顔立ち。だが、履いているのはピンヒール、着ているのは黒の胸元の空いたドレス、顔を彩るのは真っ赤な口紅がつややかに光る派手な化粧。その上、ジャラジャラと揺れるゴールドのアクセサリーとワニ革のバッグと、口紅と同じ真っ赤なマニキュアのオプション付きだ。

 弔問時のタブーの塊のような女が焼香台の前まで進み出ると、誰も声を出していないのに多くの参列者の息を飲む気配で会場がざわめいたようだった。

 喪主にも祭壇にも礼をせずに、女は握るように大量の抹香を掴み上げ、香炉の炭の上に置くと、ぱんぱんと音を立てながら両手を払い、あっけにとられている喪主――蒼田真治の前に立った。

 さっと、女の右手が振り上げられた。直後、目の前の少年を平手で殴り付ける音が、会場に響き渡った。

「何が養子よ! 隠し子の癖に、馬鹿にしてええ!」

 そう喚いてさらに少年に掴みかかるのに、後ろから塀内校長が止めに入る。

 席から立って女を止めに行こうとする者、少年を守りに行こうとする者、悲鳴を上げる者。

 止めに行こうとする向島を、安藤は前に腕を出して制した。

 女は武器を持っていない。緊急性は少ないだろう。

 騒然となる通夜の席、女が大量に投入した抹香が香炉からもうもうと白い煙を立ち上らせる中、僧侶だけが動ずることなく読経を続けている。

 自ら身体を張って女を止めようとしたのは、塀内校長と、遠い下座から一番に駆け寄った神尾弁護士。

 蒼田真治を守ろうとしたのは、前の出やすい席に座っていた蒼田学園の二人の理事と、やはり下座の方から駆け寄った蒼田家顧問弁護士の瀬戸。

 それを観察してから、安藤は向島を制していた腕を下ろした。

「身柄を確保して静かな所に行ってろ。警察手帳は見せていいが、逮捕はちらつかせるだけにしとけ」

「はい」

 向島が「逃げも隠れもしないから、離しなさいよ!」と喚く女を連れて会場を出ると、読経の続く会場は妙に静かになった。

 立ち上がっていた参列者たちが席に着くのを見計らったように、読経は最後の念仏の繰り返しに入り、以降は多少の煙たさは残っているものの、何もなかったかのように通夜はしめやかに執り行われたのだった。

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