5-3「なんでも中の方にも傷があったらしいですが、縫わないでも済むくらいだったそうですよ。

 

 

「なんでも中の方にも傷があったらしいですが、縫わないでも済むくらいだったそうですよ。三日後にまた病院に行くことになっています」

「縫わないで済む、ということは、軽いということなんでしょうかね」

「先生はそんな口ぶりでしたね」

「そうですか」

 安物のソファに腰を下ろし、ほっとしたように神尾は言った。

「どうぞ」と太田絹代が、安藤と神尾の前に煎茶を出してくれる。

「ありがとうございます」と軽く会釈して、しかし神尾は湯呑みに手を伸ばさずに安藤を見やった。

「先ほど、史朗君は動機を黙秘していると聞きましたが、本当ですか?」

 探るような目で言う。

「はい。自首をしてきて、犯行は認めている。犯行手順も素直に話しています。しかし、動機と、それに繋がりそうなことについては『黙秘します』で押し通されています」

 安藤は神尾の表情を見ながら続けた。

「弁護士さんなら分かると思いますが、動機を黙秘することに被疑者のメリットはありません。彼が動機を隠す理由に、何か心当たりはありますか?」

「動機を隠す理由、それ自体はわかりません。しかし、史朗君がそういう行動をあえて選ぶ理由は、わかる気がします」

 神尾は、深く深くため息をついた。

「五郎が……史朗君の父親が、母親を殺して無理心中を図った事件は、もうご存知ですね?」

「はい……あらましは聞きました」

「あの事件の日、史朗君はスマホの電源を切って友達のところで遊んでいたのだそうです。大学生ですから、そういうことだってあって当然です。

 朝になって、目を覚まして、スマホの電源を入れて、そこで警察から掛けられた電話の着信に気付いて、急いで家に帰ったら自宅は既に焼け落ちていたそうです」

 神尾はどこか怒っているような声で続けた。

「スマホには、帰宅前に最寄駅から電話したらしい五郎からの留守電が残っていたそうです。駅のアナウンスを背景に、『もう駄目だ。どうにもならない』、そう繰り返す声が延々入っていたそうです。

 史朗君は……自分がそのときにその電話に出ることができていたら、あの事件は起こらなかったと思っているんですよ。お母さんは、自分のせいで死んだと思っているんです」

「それは……彼の責任じゃないでしょう?」

 確かに、そういう可能性はあったかもしれない。けれど、いい年した大学生だ。自分のつき合いだってある。電話に出られないことなど、いくらでもあるだろう。誰にも責められることではない。

「でも、史朗君はきっと、そう考えています。

 その証拠に、あの事件があってからの史朗君は、まるで自分で自分を罰するように、自分を辛い状況に追いやるような行動を自ら選んでいるんです」

 神尾は、膝の間で握った両手に力を入れた。

「本来、親の借金に子供は関係しません。

 入院して身動きがとれず、意思疎通もできない五郎の会社を畳んで諸々を整理し、五郎を自己破産させれば、史朗君は守れるはずでした。たちの悪い闇金は取り立てに来ましたが、そんなものは手間と時間さえかければ法律の力でどうにかできました。

 史朗君は成績優秀でしたから、奨学金制度を利用して大学に残ることも可能だったはずです。

 けれど、史朗君は、その手間と時間をかける間の生活を私の援助で維持することを、承知してくれなかったんです。

『できるだけ早く自立したい』、『借金はしたくない』、『働きたい』、『誰かに負担をかけたくない』、と……」

 神尾はもう一度ため息をついた。

「動機を隠すのも……そうすることで不利になることを受け入れるのも、史朗君にとっては自分への罰のひとつなのかもしれません……」

 だとしたら、なおさら厄介だ。

 自分を罰するために、他者の罪をかぶっている可能性が高くなる。

「安藤さん」と、神尾に声をかけられ、安藤は我に返った。

「今日の接見の際、史朗君には『弁護士は不要です、帰って下さい』と言われました。しかし、明日には気が変わって、弁護士を呼びたくなるかもしれません。ですから、明日もまた来ます」

 そう宣言される。

「本人から弁護士は不要という言葉を聞かなければ帰りません。安い宿も確保しましたから、弁護士に選任されるまで毎日来ます。

 しかし、本人がその気になるまで、ろくに話はしてくれないでしょう。

 できましたら、史朗君の体調含めて、ようすを教えて下さるとありがたいです。もちろん、捜査に差し支えない範囲で結構です」

「えっ……」

 それは面倒臭い、と思わず顔に出たかもしれない。

 神尾は猛禽類のような目で、にっと笑った。

「来たついでに、こうやって『おしゃべり』をしてもいいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします」

 弁護士の割りによくしゃべってくれると思ったら、報酬例のつもりだったか。

 人がよさそうな顔をして、食えない人物だ。

 いや、都会で企業相手の弁護士をしているんだ、したたかで当然だろう。

 このしたたかな人物の発言、どこまで言葉の通りに受け取っていいものかはまだ測れない。

 だが、T市に来る前の砂川青年を知っている人物から直接話を聞けるというのはありがたい。しかも、被害者の人となりも知っているときてる。

「いいでしょう。捜査に支障のない範囲で、ということで」

 安藤が右手を出しながらそう言えば、神尾は笑顔でその手を握った。

 

 

「その、色々とお手数をおかけしてすみませんでした」

 取調室で、砂川青年は申し訳なさそうに言った。

「いや、具合が悪ければ医者に診てもらうってのは、被疑者の当然の権利ですからね。まあ、場所が場所だから、言い難いのはわかるけど、これからは我慢しないで言ってくださいよ」

「はい。申し訳ありませんでした」

 安藤の言葉に、砂川が頭を下げる。顔色が良くなったのはいいが、今度は真っ赤だ。

 安藤はひとつ咳払いをして、その場の微妙な雰囲気に区切りをつけて、改めて姿勢を正した。

「では、取り調べを再開します」

 

 

 

 6へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る