4-3 警察医とは、監察医制度のない県で、警察に協力してくれる医師だ。
警察医とは、監察医制度のない県で、警察に協力してくれる医師だ。
発見された遺体を検死して事件性の有無を判断したり、薬物事件の被疑者の採血をしたり、逮捕された被疑者の健康診断をしたりする。署員のインフルエンザ予防注射をしたりもする。
このあたりでは、T署から車で10分かからないところにある総合病院の院長が、G県医師会警察医会T支部長を務めている。病院の内科医と外科医を警察医会に所属させ、警察からの要請があればすぐに対応できるようにしてくれているのだ。
警察医が来て診察をするのを待つ間、安藤は神尾弁護士を留置場の手前にある自販機コーナーに誘った。一つしかない接見室が先に使われていた場合に、次の接見者が時間を潰すためのスペースだ。
「この事件を担当しております、刑事捜査課の安藤です。少しお話を伺ってよろしいですか」
自販機の横に置かれたソファに並んで座ったところで、安藤はそう切り出した。
「東京で弁護士をしております、神尾です」
さっき見たのとは違う、疲れの見える顔で神尾は言った。
「東京からいらしたんですか?」
「はい。昨夜、高校の同級生から蒼田が殺されたらしいと連絡がありまして。テレビニュースを観たら、逮捕されたのが史朗君……砂川史朗君だと……本人が自首して来たと報道されていて、いてもたってもいられなくなって、新幹線と特急で飛んできました」
この時間に着いたということは、多分、始発の新幹線に乗って来たのだろう。
「被疑者……砂川史朗とは、どういう関係ですか?」
「史朗君は、幼馴染みの息子です。幼馴染……砂川五郎は、幼稚園から中学まで同じ学校で、大人になってからも仕事の関係で付き合いがあったので、年に数回、自宅を訪ねて飲むような関係が数年前まで続いていました。
もうご存知とは思いますが、五郎は無理心中事件を起こしまして、住む場所がなくなった史朗君に、しばらく自宅の一室を提供したりもしていました。
先月の26日に、心中事件以来入院していた五郎が肺炎で亡くなりまして、五郎の葬儀や相続関係の後始末が終わるまでも……つい先日まで、自宅に泊めていました」
「いつまで、彼を泊めていたんですか?」
「8日までです。8日の朝に、最寄り駅で別れました」
ただの友人の息子に対するには、面倒見が良すぎるようにも思えるが、今は保留だ。5月8日まで砂川青年が東京にいたという情報を、しっかりと頭の中にメモする。
「被害者の蒼田さんとは、どういう関係ですか?」
「高校の同級生で、昔からの飲み友達です。10年くらい前に、おじいさんから塩手高校の経営を引き継いでこちらに引っ越しましたが、それまでは近くに住んでいたので頻繁に一緒に飲んでいました」
「蒼田さんがこちらに越してきてからは?」
「それでも、月に一度くらいは蒼田が上京してきていましたので、スケジュールが合えば飲んでいました」
この神尾弁護士は、砂川史朗の父親とも蒼田統とも頻繁に飲んでいたという。
「弁護士の先生は、そんなに頻繁にお友達と飲めるほどに暇なんですか?」
安藤が首をひねれば、神尾は苦笑した。
「私は企業法務が専門のローファームを経営しています。企業法務というのは、情報が重要なんです。高価なアンティーク家具を扱う会社の社長と、リゾートホテルを複数所有し医学会にも顔の利く資産家と、企業法務専門の弁護士。お互い情報交換にそれなりに意味があったんですよ」
ローファームというのは、大勢の弁護士が所属する大きな弁護士事務所のことだったはずだ。互いにメリットがあるのなら、頻繁な接触も分かる。
「被疑者と被害者を引き合わせたのは、あなただと聞きました。そうなんですか?」
「はい」
神尾の眉間に深いしわが刻まれる。
「去年の8月に蒼田と飲んだ時に、『男子寮の寮監が、家族の介護のために家から通いたい、仕事を減らしたいと言っている。寮に住み込みができて、体力があって、落ち着きがあって、信用ができる若い男を探しているけれど、いい人物がいない』と蒼田が言ったんです。
その頃、史朗君は自立しようとマンスリーマンションに住んでバイトと就職活動に励んでいました。でも、闇金の取り立てがバイト先を嗅ぎつけては押し掛けたり、病院に押し掛けたりという嫌がらせをしていたために、まともに働けなくて……東京から遠く離れたら落ち着いて働けるのではないかと思って、私が蒼田に史朗君を紹介しました。彼は、若いし、健康だし、歳の割りには落ち着いていて、弁護士を目指していただけあって思慮深い青年でしたから、蒼田の挙げた条件に合致しているだろうと思ったんです」
神尾は両手で顔を覆った。
「それがまさか、こんなことになるなんて……ついこの間、五郎が死んだところなのに……史朗君が……まさか、蒼田を殺すなんて……」
親しい人物が死ぬというのは、なかなかのストレスだ。さらにそれが二人連続で、その上、そのうちの一人が自分の紹介した人物に殺されたとなれば、心痛は相当なものだろう。
このようすが丸ごと演技で、この神尾尚志という人物が主犯である可能性は、あるだろうか?
今までの話を聞くに、砂川史朗青年にとって、この神尾尚志氏は相当に世話になっている相手だ。恩義に感じて、神尾の指示する殺人を……
そこまで考えて、安藤は自分の考えを否定する。
弁護士が友人の資産家を、人を操ってまで殺す理由はともかく、その状況で実行犯に動機を黙秘させる理由が見つからない。もっともらしい動機を偽装して主張する方が、理にかなっている。
この線は薄そうだ。
「あなたから見て、被害者は殺人事件の被害者になるような人物でしたか?」
安藤はそう聞いてみた。
「被害者になるような人物、ですか?」
意味がわからないといった顔で、神尾は安藤を見返した。
「敵を作りやすい、恨みを買いやすい人物ではなかったかという意味です」
「敵を作りやすいタイプか、作りにくいタイプかと言ったら、作りにくい方です。蒼田のことを敵だと思っている人間や、恨んでいる人間は、ほとんどいないと思います」
「いい人だったんですね」と安藤がいえば、神尾は苦笑した。
「蒼田は、いい人なんかじゃないですよ」
どこか懐かしそうに言う。
「エリート意識とプライドの塊で、自分の認めた人間以外は、勝手に動く手入れの面倒臭い道具としか思っていないようなやつでした。でも、そういう考えは隠した方が、自分にとって都合がいいのだということも学習していた」
友達になりたくないタイプだ。
「私の知る限り、蒼田はそのあたりを上手くやっていました。殺されるような人物には思えません」
「では、加害者は人を殺すような人物でしたか?」
神尾はぐっと口元に力を入れた。
「私が幼いころから知っている史朗君は、優しい子でした。人を殺すなんて、考えられない。
けれど、今の史朗君は……」
神尾が言葉を続けられなくなる。
つまり、「今の砂川史朗は、人を殺すかもしれないと感じている」ということだ。
「でも……! あの子は論理的な思考をする子です。そこらの粗暴犯のように、簡単なことで暴力を振るうような子ではない。決して、理由なく人を害するような子ではない。あの子が殺人事件を起こしたのならば、絶対に何かの理由があるはずなんです」
「しかし、彼は動機を黙秘しているんですよ」
神尾がいぶかしげに片目を細めた。
「どういうことです?」
そう神尾が聞き返したときだ。
「安藤係長!」と、廊下から声をかけられた。
見やれば、警務課の制服警官が、警察医を連れてくるところだった。
神尾がさっと立ち上がった。
「先生、史朗……被疑者の具合はどうなんですか?」
安藤が何か言うより早く警察医に駆け寄りそう訊ねるあたり、本当に砂川青年を心配していることが感じられる。
「倒れたための負傷はありません。倒れたのは、痛みによる迷走神経反射のためだと思われます」
「めいそう……?」
警察医の言葉を即座に理解できなかった安藤は、思わずそう聞き返した。
「ストレスやショックから急激な自律神経失調が発生し、血圧や心拍数が低下して、脳の血流が不足するんです。『立ちくらみ』みたいなものです」
「痛みによる、ということですが、被疑者はどこか具合が悪いのですか? 大丈夫ですか?」
「それなんですが、痛みの原因が私の専門外ですので、専門医に診てもらうことをすすめます」
「専門医ですか? 原因は、何なんです?」
「肛門裂傷……いわゆる切れ痔です」
警察医は、しごく真面目な顔でそう言った。
5へ続く
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