第19節
19ー1「意味がない?」
「意味がない?」
蒼田は前かがみになったまま、動きを止めて聞き返してしまった。
「私にとって、この交渉の最低目標は、妹の保険適用外の治療費を全額を貸付けていただけるという約束です。
理事長先生のおっしゃる条件で引き下がるわけにはいきません」
「ならば、交渉決裂だ」
それまでの気分の良さがそっくり反転した不機嫌さを隠すこともせず、蒼田はきっぱりと言った。
「学校としての対応は、先ほどの話通りだ。
だが、私個人への『お願い』は、お断りする」
「なぜですか?」
「なぜも何も……」
即座にそう聞き返してきた少年に、蒼田は落胆と共にため息をついた。
さっきまでの自分のこの少年への評価は、買い被りだったか。
そう思いながら、蒼田は再びソファに座り直し、脚を組んだ。
「さっきの条件で損得の釣り合いが取れていると、私は判断した。それ以上に私が何かを提供するには、君の出した条件は釣り合っていない。
それだけのことだ」
「さっきの条件で釣り合いが取れないのは、まだ決定権の話をしていないからです」
少年は、相変わらず緊張した表情で言った。
「なに?」
「株式会社に『出資』をしたら、成果の配分として配当を受け取ることができると同時に、株主議決権として出資額に比例した決定権を得られる。
私の求める『出資』をしていただけるのなら、貸し付けてもらった妹の治療費を完済するまでの間、私は理事長先生に、私の目的を妨げない全ての事柄についての決定権を明け渡します」
少年は、真っ直ぐ蒼田を見つめながらそう言った。
「目的を妨げない全ての事柄についての決定権……ね」
蒼田は目を細めた。
「それを言葉通りに解釈すると、君は私の命令を何でも聞く、という意味になるが、それはわかっているのかね?」
「何でもではありません。私の目的を妨げる命令には従えません」
「君の目的とは、何かね?」
「私の目的は、妹を守ることです」
少年は、両の膝の上で両手を握りしめながら言った。
「両親が死んで、祖父母も私が生まれる前に死んでいて、親戚らしい親戚もいません。妹を本気で守ろうという人間は、私以外にはいません。そして、妹を守るためには、妹の病気を治すことが必要です。
そのために、今の私ができることを全部したいんです。
必要な治療をできるようにしたい。
いざ、もっといい治療手段が見つかった時に、すぐにその治療を受けられるようにもしておきたい。
私自身が的確に治療方法の提案を理解できるように、医学的知識も身につけておきたいです。
私が医師になっておけば、妹の治療に直接かかわることもできます。たとえ担当医が匙を投げても、諦めないで治療の努力をし続けることができます。
ですから、国公立大学医学部への進学、医師国家試験に合格し、医師となることも、妹を守る目的に含みます。
期間が『借金完済まで』ですから、就職してからは『経済活動を妨げない』という条件もつきます」
蒼田はひとつため息をついた。
やはり、馬鹿な親に育てられた子供は馬鹿なのだろう。
仕込みを手配したのは正解だったが、まだ少し時間が必要だろう。
「君の目的は、妹さんを守ることだと言ったね?」
蒼田は時間稼ぎのために、改めてそう切り出した。
「そして、医師になることも妹さんを守るために必要だと。
これらの君の目的を妨げないとなると、君が私に与えるという決定権は、相当制限されたものになると私には思える」
たとえば、と蒼田は続けた。
「たとえば、私に都合の悪い人間を殺せ、などという犯罪行為につながる命令は、それが発覚した場合に服役することになり、服役によって自由を制限された状態では妹さんを守れなくなるから駄目、ということになる。
また、時間や面倒な手間がかかるような命令も、それによって君の勉強する時間や睡眠時間が削られると、君の医師になって妹さんを守るという目的を妨げる結果になるから駄目、ということになる。
『妹を守りたいから、何でもする』と君は言うが、ここまでの制限をかけられた『何でも』で、私はどんな利益を享受することができると言うのかね?」
「『T大理Ⅲに進学しろ』と命じることができます。これは、理事長先生にとっての利益になりませんか?」
「大きく出たな」
泣く子も黙る日本最難関大学を持ち出してきた少年に、蒼田は笑った。
「そこまで自分の能力に自信があるのかね?」
「これが他の学校だったら、こんな約束はできません。でも、この塩田高校でなら可能だと思っています。違いますか?」
真顔で少年は言った。
煽っているのか、天然なのか。判断に迷うところだ。
「確かに。T大を目指す生徒が入学しても不足を感じない教師陣をそろえたと自負しているよ。
だが、現状は国公立大学医学部合格だけでも、当校にとっては十分な成果だ。さらにリスクを抱えてまで高望みをする必要はない」
料理長が来るまで、まだ時間がかかるだろう。
そう判断をした蒼田は、さらなる時間稼ぎをするために口を開いた。
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