第18節

18ー1「……妹さんへの治療とは?」


 

 

「……妹さんへの治療とは?」

 この話を始めてから初めて出てきた単語の羅列に、蒼田は戸惑ってしまった。

 白血病? 入院? 最高の治療?

 妹が入院しているのは、事前に確認していたので承知している。だが何故、ここで妹の話が出て来るのだ?

 生徒の妹が、死のうが生きようが、学校にも理事長の自分にも何の関係もない。そこに『出資』しろというのは、あまりに唐突過ぎるだろう。

「妹は、今、小児性白血病で名古屋の大学病院に入院しています。

 その治療に必要なお金を、私が就職したら利息をつけて月々返済するという条件で、貸していただきたいんです」

 少年は身を乗り出すように言った。

「妹は、一般的に白血病治療に使われる薬で強い副作用が出る体質で、高価な保険適用外の薬でなければ十分な治療ができません。

 保険適用内の薬であれば、高額療養費制度や高額医療費貸付制度があるので、たとえそれが高価であっても何とかなるんです。

 でも保険適用外の治療には、高額療養費制度は使えません。

 お金が無ければ、妹の治療は難しいんです。

 前の入院の時には、9か月の治療に800万円近くかかったようです。

 両親は貯金を注ぎ込み、私と妹の学資保険を解約し、借金までして、妹の治療費を工面しました。

 去年の5月に発病して入院して、9か月もかけてやっと寛解して退院した時には、両親は泣いて喜びました。

 でも、たった3か月で再発してしまったんです」

 なるほど、困窮の一番の原因は保険適用外治療のためか。

 蒼田は納得した。

 同時に思う。

 いかにも、馬鹿のしそうな選択だ。

「今の私には、なんの財産もありません」

 峰真治は、両膝の上で両手を握りしめた。

「両親と住んでいた家は借家でした。土地建物なんて財産はありません。

 わずかにかけられていた母の生命保険の受取人は父で、その父は保険金以上の借金を抱えて死にました。父のマイナスの遺産は、妹と二人、相続拒否することになります。

 父は生命保険に入っていましたが、契約3年以内の自殺ですから、保険金はおりないと思われます。

 私が持っているものは、コツコツとお年玉を貯めた残高十数万円の自分名義の預金通帳だけ。

 何の担保になるものも持たない15歳の自分を相手に、前の入院時と同等としても800万円、治療が長引けばさらに高額になるかもしれない治療費を、限度額無制限で貸してくれる人なんて普通はいません」

 少年は顔を上げ、蒼田を真っ直ぐ見つめた。

「だから私は、理事長先生に『出資』をお願いをしに来ました。

 私の将来の価値を最大に高めることができるのは、理事長先生です。

 そして、それを最大限活用できるのも、理事長先生です」

 蒼田は、目の前の少年が言いたいことを理解した。

 

 なかなか優秀なこの少年が、塩田高校教師・講師陣の手厚いサポートを受けて受験に臨めば、まず、国公立大学医学部に合格しないということはないだろうし、妹のためであれば大学生活中の医師になろうというモチベーションも維持できるだろう。

 大学医局勤務医であったとしても年収一千万円、雇われ院長にでもなれば年収千五百万円、自力開業しなくとも場合によっては年収三千万円を超える高収入もありうるのが医師という職業だ。

 出資分を回収できる目が、ないわけではない。

 

「なるほど」

 気が付けば、蒼田は笑顔で頷いていた。

「御情けに縋って一方的に『物乞い』をするのではなく、まがりなりにもギブ・アンド・テイクの『交渉』をすることができる、君にとって唯一の人間が、私だったというわけだ」

 

 昼食時の食堂で声をかけてきたこの特待生の話を聞くことにしたのは、両親を失ってこちらの利益にならない確率が上がった特待生を、上手く塩田高校から追い出すためだった。

 逆恨みを買わないように、むしろ、最低限の出費で恩すら売って、さらに「両親を失った子供に、塩田高校はこんなにも誠実な対応をした」という評判作りにも役立ってもらいながら、穏便に縁を切る。そのための面会だ。

 もしも、この少年が「助けて欲しい」と一方的に何かを求める言葉を口にしていたら、自分は「いかにこの少年を言いくるめて、面会を切り上げるか」ということを考えただろう。

 だが、この少年は『出資』を求めてきた。

 経営者として、投資家として、『出資』額だけを聞いて物事を判断するというのは、賢明とは言えない。

『出資』するもの。

 その結果得られる『利益』。

 その利益を得られないかもしれない『リスク』。

 それらを総合的に見なければ、思いがけぬ大儲けのチャンスを見逃してしまうかもしれないのだから。

 

「よろしい。話の続きを聞く価値を認めよう」

 蒼田は頷いた。

「だがその前に、失礼して飲み物を用意させてもらうよ」

 そう断って、スーツのジャケットのシガーポケットからスマホを取り出す。

「はい。千葉でございます」

 2コールで電話に出たのは、学食の料理長だ。

「いつものを2杯、理事長室に持ってきてくれ」

「『いつもの』を2杯、ですね。かしこまりました」

 料理長は、箱根のホテルでラウンジの主任を任せていた頃からの付き合いだ。細かいことを言わなくても、これで通じるのだ。

 交渉がこじれた時のための仕込みの手配をして、蒼田はスマホをしまった。

「待たせたね。さて、ビジネスの話の続きをしようか」

 蒼田はひとりがけソファの背もたれに身を預け、そう言ったのだった。

 

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