第6話 ノックの音がした>そらみみ
ノックの音がした。
――そう聞こえた気がした。
ベッド上の妻・シゲコが、「ノックの音がした」と喋ったような。
だけど、彼女が喋るはずがないのだから、空耳に違いない。
シゲコは自宅の三階から転落し、命は取り留めたものの、半身不随と言語障害に陥ってしまった。喋ることはもちろん、筆談もかなわぬ。
それでも、彼女の物言いたげに動く口を見ていると、すらすら話せるのではないかという希望を抱いてしまう。
「ライヒさん。お食事の準備ができました」
ベビーシッターのサニーが、夏らしい格好で現れた。
私と妻との間に、子供はない――今となっては。
シゲコが事故に遭ったのと同日、一歳になるキャンピオンは、首の骨を折って息絶えた。階段から転げ落ちたということだが、詳しくは分からない。何故なら、当時、家にいたのは妻のみであるからだ。
お使いから帰ったサニーが、家内と我が子に起こったハプニングを知り、警察やら救急やらに通報してくれたそうだ。私が知らせを聞いたのは、間抜けなことに、オフィスを出て、自宅にのんびり辿り着いたときだった。
子守りのサニーが、キャンピオンのいなくなったあとも我が家にいる理由は、食事一つ満足に作れない私を助けてもらうため。サニーは、職を失わずに済んだせいか、快く引き受けてくれた。
「ああ、もうしばらくしたら、行くよ。ありがとう」
私が力ない笑顔で答えたそのときだった。
今度ははっきりと聞こえた。妻が喋ったのだ。
『どん兵衛、聞いてるぞ、毎度あり』
……こんな風に聞こえた。私は日本語に堪能でないので自信ない。が、今は、言葉の意味内容を理解するよりも、妻が話せたことに驚き、感謝するときだ。
私はシゲコの元へ駆け寄り、その右手を取った。
「シゲコ? 話せるのか?」
英語で問いかける。シゲコは、英語を話すのはほとんどだめだが、聞き取りはできる。
『きぱ上風呂蒸し』
また喋った。だが、相変わらず、何を言っているのか分からない。
「シゲコ。もっと簡単な日本語で言ってくれないと、僕には分からないよ」
私が哀願すると、妻の目がいやいやをするように動いた……ように見えた。
サニーが近付いてくる。
「ライヒさん。主治医の先生にお知らせするのが先決ではありませんか?」
「そ、そうか。そうだな」
私が腰を浮かし掛けると、シゲコは短く言った。
『下駄上』
その視線がどこを見つめているのか定かでないが、どうやらサニーに向けて発せられた言葉らしい。私とサニーが顔を見合わせ、肩をすくめると、妻は抑揚に欠けた口調で、更に続けた。
『あ、あ、あい、あ岩魚、キリ、キルシタン」
「何と言っているか、分かるかい?」
サニーに尋ねてみた。彼女は、妻の話し相手的な役も負っていたから、ある程度は日本語を解する。
「さあ……『岩魚』とは魚の一種ですけど。キリシタンとはつながりません」
「『下駄上』とは? 下駄なら私も聞いたことがあるが」
「下駄の上……という意味しかないでしょう。――多分、奥様は話せるまでに回復なされましたが、言語中枢の方に障害が残っているのではないでしょうか。もちろん、私の素人判断ですが」
『バットがある』
またシゲコ。これなら、私にも理解できる。
しかし、バットは、この部屋にはない。キャンピオンに買い与えたビニール製のおもちゃのバットなら、物置に仕舞い込んであるが。
私が首を傾げていると、シゲコはまたも口を開く。単調ながら、区切るような言い方だ。
『どんと、びい、ちいてっど、まい、だありん』
――私の頭の中で、何かが弾けた。
シゲコは、日本語しか話さない、英語を口にしないと思っていた。
それが間違いだとしたら。日本語を話せなくなった彼女が、知っている限りの英単語をつなげ、必死に発音しているのだとしたら。
と、異様な気配を感じ、サニーを振り返ると、彼女の顔の血色が見る間に悪くなっていく。
『さにいず、ばっと』
シゲコが言う。
Sunny's bat か? いや、Sunny is bat …… Sunny is bad!
「サニー。正直に答えてくれ」
私は、震える彼女の肩に手を置き、その目を覗き込もうとした。が、視線を外すサニー。
かまわず、続けた。
「君は……私の妻に何をしたんだ? 私の子供に何をした?」
サニーが嗚咽を始めた。
シゲコは感情の表れない目つきで、じっと見上げてきていた。
最初に、「ノックの音がした」と聞こえた、シゲコの台詞。
あれは、"Knock out the sitter" だったかもしれない。
子守りをぶちのめせ。
――END.
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