第3話 ノックの音がした>夢

 ノックの音がした。

 私は返事をせず、火を着けたばかりの葉巻を、大理石の灰皿に押し付けた。

 ドアが静かに開き、慇懃な態度で頭を下げる黒服の男が姿を見せた。私のために色々と尽くしてくれる、カジワラ。ここ数年、私の秘書役を務めている。

「お時間です」

 柔らかな物腰だったが、普段に比べて微妙な違いがあるような気がした。初めて彼に会った頃を思い起こさせる、緊張感を含んだ口調。

 私が席を立つと、クッションの利いた座り心地のよい椅子が、かすかに軋む。

「今日のスケジュールを教えてくれ」

「本日のご予定は、ただ一つでございます」

「――そうか」

 私は叫び出したいのをこらえた。必死で。

 今日だったか……。脂汗が額に滲むのを意識する。

「お分かりですね? 必要とあれば、はっきり、ご説明申し上げますが」

「いや、いらん。どこへ行けばいい? 案内してくれ」

「はい、こちらで……」

 初めての廊下をカジワラの先導するまま行くと、一枚の白いドアが現れた。

「この向こうです」

 カジワラの言葉に、私はゆっくり、うなずいた。

「……すぐに、行かねばならないのか?」

「いえ。十時からの予定ですから、三時間ほどの猶予がございます。どういたしましょう?」

「間を置くと、覚悟が鈍る……だろうな」

 私は初めて、気持ちを吐露した。

「三時間でできることといったら」

 考え始めると、瞼が熱くなってきた。

「カジワラ!」

 思わず、叫んでいた。

「なあ、カジワラ、カジワラさんよぉ。恐い。ドアの向こうに行くなんて」

「落ち着いてください」

「お、落ち着けるかっ、馬鹿! なあ、頼む。あんたの力で、何とかしてくれ。後生だから!」

 頭の上で手を拝み合わせ、懇願した。

 だが、カジワラの語調は変わらなかった。

「ご入り用でしたら、教誨師を呼びますが」

「んなもん、役に立つか! な、なあ、じゃあ、せめて、女を抱かせてくれ。世界中の選りすぐりの美人を。三時間あれば三人、うまくすりゃ――」

「無理です、残念ながら。セックスと犯罪行為は、厳に禁じられております」

「分かって頼んでんだよっ、こっちは! おまえは俺の秘書だ。何とかしろ。それがおまえの役目だろうが」

「いい加減にしてください」

 初めて聞くカジワラの冷たい口調に、私は総毛立つのを感じた。

「あなたはご自分で選択されたんですよ。今日のこの日まで、大企業の社長のような暮らしがしてみたいと、要望されましたよね?」

 強い調子で責められ、私は三度、かくかくと首を振った。

「それをかなえるため、私は――私どもはできうる限りの努力をしてきました。それを今になって騒ぎ出されては、苦労が水の泡です。空しくなります」

「し、しかし」

 最後の抵抗を試みようとしたそのとき、カジワラの目が光った……気がした。

 続いて彼の口から聞こえた声は、これまでに比べて、粗っぽかった。

「これ以上、無理を言うのなら、強制的に連れて行く。さあ、どうする?」

「わ……分かった。三時間、大人しく楽しませてもらいます……」

 私は床に正座する格好で、うなだれていた。

 涙が頬を伝い、はらはらと落ちて行くのに気付いた。

「三時間もありません」

 元の口振りに戻って、カジワラが言う。

「あなたの死刑が執行されるまで、あと二時間と五十分ほどです」


――幕

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